第140話 羽柴秀吉、摂津到着
本能寺の変の10日後ということは、そろそろ光秀と羽柴秀吉が対峙する頃でしょうか?
厳密に言うと天正10年6月12日にはまだ対峙はしません。
厳密にということはなにか事件があったのですか?
詳しく教えてください。
では、今回も史料を順に見ていきましょう。
よろしくお願いします。
雑説って噂のことですよね?どんな噂が飛び交っていたのですか?
織田信澄が生害したのって6月5日のことですよね?随分情報が古い気がしますが・・・。
史料からはわかりませんが、寛尊の情報伝達速度が通常なのかもしれません。だとすると、英俊や吉田兼見の情報収集速度がどれだけ速いかわかりますね。
その情報を武器にする羽柴秀吉はすごい手腕を持っていたのですね。そんな羽柴秀吉はどうしていたのですか?
この日、羽柴秀吉は摂津富田に着陣しました。そして英俊が気になる記録を残しています。
どんな記録ですか?
徳川家康が安土に・・・。 他にはなにか残っていますか?
光秀は確か下鳥羽の本陣にいたのですよね。けれど、安土には徳川家康が居て、摂津に羽柴秀吉が到着。明智軍は摂津から淀まで後退。筒井順慶は郡山城。なんだかよくわからなくなってきました。
史料からはわかりませんが、安土に光秀方の留守番がいない訳がないので、光秀方が徳川家康を招き入れたということだと思われます。
徳川家康は安土で何をしていたのですか?
史料からはわかりません。ですが、この日付で書かれた史料がいくつかあり、徳川軍は甲斐の平定に注力していたことがわかります。
どんな史料ですか?
今度の忠節というのはいつのことですか?
伊賀の者に護衛されて帰ったときですね。甲賀はなんの関係があるのですか?
最近、神君伊賀越えのルートの新説本が出版されていますが、徳川家康が甲賀の国衆に誓詞を与えたということは、やはり甲賀を通ったという証拠なのではないかと思われます。
通らせてくれてありがとう。ということですね。
ちゃくちゃくと甲斐を手中におさめていますね。たしか甲斐は織田信長の家臣の河尻秀隆が知行していましたよね?
徳川家康は光秀を攻めないで、東国の織田家の領地を取りにいったということですね。
そうだと思われます。
ということは、やはり徳川家康は光秀の味方で間違いないのでしょうか?
確かな事はわかりません。しかし、この徳川軍の行動が東国の織田勢への牽制になっているのは確かだと思われます。
光秀はそのころどうしていたのですか?
足利義昭!懐かしい名前が出てきましたね。たしか織田信長に追放されたのでしたよね。上洛したいと要請が来ていたのですか?
史料からはわかりません。ただ、この時の光秀は援軍を求めていました。そのため相手の望むであろう条件を提示してのではないかと思われます。
たしかに、細川藤孝への援軍要請のときもそうでしたね。ところで、明智軍は摂津から淀まで後退しているようですが、戦況としてはどうなっているのですか?
え?すでに結構なところまで攻め込ませていませんか?
羽柴秀吉の居る本隊とは別に先陣が居たのかも知れませんね。
羽柴秀吉は摂津富田に着陣したといっていましたね。このあとはどうなってしまうのですか?
続きは次回です。
気になります!