第140話 羽柴秀吉、摂津到着

ガラシャ

本能寺の変の10日後ということは、そろそろ光秀と羽柴秀吉が対峙する頃でしょうか?

憲三郎先生

厳密に言うと天正10年6月12日にはまだ対峙はしません。

ガラシャ

厳密にということはなにか事件があったのですか?

ガラシャ

詳しく教えてください。

憲三郎先生

では、今回も史料を順に見ていきましょう。

ガラシャ

よろしくお願いします。

ガラシャ

雑説って噂のことですよね?どんな噂が飛び交っていたのですか?

ガラシャ

織田信澄が生害したのって6月5日のことですよね?随分情報が古い気がしますが・・・。

憲三郎先生

史料からはわかりませんが、寛尊の情報伝達速度が通常なのかもしれません。だとすると、英俊や吉田兼見の情報収集速度がどれだけ速いかわかりますね。

ガラシャ

その情報を武器にする羽柴秀吉はすごい手腕を持っていたのですね。そんな羽柴秀吉はどうしていたのですか?

憲三郎先生

この日、羽柴秀吉は摂津富田に着陣しました。そして英俊が気になる記録を残しています。

ガラシャ

どんな記録ですか?

ガラシャ

徳川家康が安土に・・・。 他にはなにか残っていますか?

ガラシャ

光秀は確か下鳥羽の本陣にいたのですよね。けれど、安土には徳川家康が居て、摂津に羽柴秀吉が到着。明智軍は摂津から淀まで後退。筒井順慶は郡山城。なんだかよくわからなくなってきました。

憲三郎先生

史料からはわかりませんが、安土に光秀方の留守番がいない訳がないので、光秀方が徳川家康を招き入れたということだと思われます。

ガラシャ

徳川家康は安土で何をしていたのですか?

憲三郎先生

史料からはわかりません。ですが、この日付で書かれた史料がいくつかあり、徳川軍は甲斐の平定に注力していたことがわかります。

ガラシャ

どんな史料ですか?

ガラシャ

今度の忠節というのはいつのことですか?

ガラシャ

伊賀の者に護衛されて帰ったときですね。甲賀はなんの関係があるのですか?

憲三郎先生

最近、神君伊賀越えのルートの新説本が出版されていますが、徳川家康が甲賀の国衆に誓詞を与えたということは、やはり甲賀を通ったという証拠なのではないかと思われます。

ガラシャ

通らせてくれてありがとう。ということですね。

ガラシャ

ちゃくちゃくと甲斐を手中におさめていますね。たしか甲斐は織田信長の家臣の河尻秀隆が知行していましたよね?

ガラシャ

徳川家康は光秀を攻めないで、東国の織田家の領地を取りにいったということですね。

憲三郎先生

そうだと思われます。

ガラシャ

ということは、やはり徳川家康は光秀の味方で間違いないのでしょうか?

憲三郎先生

確かな事はわかりません。しかし、この徳川軍の行動が東国の織田勢への牽制になっているのは確かだと思われます。

ガラシャ

光秀はそのころどうしていたのですか?

ガラシャ

足利義昭!懐かしい名前が出てきましたね。たしか織田信長に追放されたのでしたよね。上洛したいと要請が来ていたのですか?

憲三郎先生

史料からはわかりません。ただ、この時の光秀は援軍を求めていました。そのため相手の望むであろう条件を提示してのではないかと思われます。

ガラシャ

たしかに、細川藤孝への援軍要請のときもそうでしたね。ところで、明智軍は摂津から淀まで後退しているようですが、戦況としてはどうなっているのですか?

ガラシャ

え?すでに結構なところまで攻め込ませていませんか?

憲三郎先生

羽柴秀吉の居る本隊とは別に先陣が居たのかも知れませんね。

ガラシャ

羽柴秀吉は摂津富田に着陣したといっていましたね。このあとはどうなってしまうのですか?

憲三郎先生

続きは次回です。

ガラシャ

気になります!

”ついに羽柴秀吉の軍勢と光秀の軍勢が最初の衝突をしたようです。”