明智光秀について世の中に広く知られている通説には、史実とは違ったものが多くあります。少しでも多くの人に、真の明智光秀を知っていただければと思います。

 

第一回 光秀の年齢の真実

光秀の享年には2つの説があります。

 

第二回 光秀の主君の真実 第一

光秀の前半生は謎の部分が多いですが、光秀が斎藤道三に仕えて、道三の息子・義龍と戦ったという話は、真実ではありません。

 

第三回 光秀の叔父・光安の真実

光秀の若い頃を支えたと伝わる叔父・光安ですが、推定される家系図には登場しません。

 

第四回 光秀の主君の真実 第二

光秀は上洛後、将軍義昭、織田信長の2人の主君に仕えていたと言われていますが、光秀は上洛後、幕府の役人だったのです。

 

第五回 金ヶ崎の退陣の真実

朝倉攻めのため越前へ向かった信長は、義兄弟の浅井長政の裏切りにあい、金ケ崎から撤退します。
その殿を任されたのは、秀吉、そして光秀でした。

 

第六回 いとこ帰蝶の真実

信長の正室(帰蝶・濃姫)が、光秀の「いとこ」であるとの定説は真実ではありません。

 

第七回 きんかん頭の真実

明智光秀のあだ名として有名な「きんかん頭」。どうしてこのあだ名が付いたのでしょうか。

 

第八回 森蘭丸の名前の真実

信長に小姓として仕えていた森蘭丸には、2つの書き方があります。

 

第九回 家康接待の真実

本能寺の変のおよそ2週間前、信長は家康を安土でもてなします。接待役の光秀に起きた事件は、謀叛の動機と言われていますが、それは違います。

 

第十回 愛宕百韻の真実

光秀が本能寺の変の前に、愛宕山威徳院で詠んだとされる本当の句は、これでした。

 

第十一回 日光東照宮 桔梗紋の真実

栃木県にある日光東照宮には、土岐氏の家紋である桔梗紋があるとの噂があります。
よく見てみると...

 

第十二回 恨んで謀叛の真実

光秀が恨んで謀叛を起こしたと思わせたい人物がいました。

 

第十三回 不及是非の真実

「是非に及ばず」とは、本能寺の変で信長の残した言葉として有名です。果たしてその意味とは...

 

第十四回 天下分け目の天王山の真実

「ここ一番の時や、重要な局面」を表す言葉として、「天下分け目の天王山」が使われることがあります。果たして、その場面とは...

 

第十五回 最期の場所の真実

光秀は、山崎の戦いで秀吉に敗れた後、勝龍寺城に立て籠もります。
その後坂本へ向かう途中、京都の小栗栖で討たれてしまったと言われていますが・・・

 

第十六回 辞世の句の真実

光秀は、京都の妙心寺で、辞世の句をしたためたとありますが・・・