歴史捜査で収集した史料から復元された光秀の生誕から死までの全生涯の概要をまとめたものです。これまで、光秀の生涯を通して書かれたものはないので、初めての光秀生涯記録となります。
■苦難の前半生
応仁の乱は、美濃にも影響をあたえ、土岐一族にも混乱をもたらしていました。そんな時代に、土岐氏の一族である父光兼のもとに光秀は生まれました。父の光兼は、美濃の守護土岐政房の嫡男・頼武を支える中核を担っていましたが、次男・頼芸との間には、後継者をめぐる争いが起こっていました。頼武は小守護代・長井一族に担がれた頼芸に敗れて没し、頼芸が守護職に就きました。光秀は敗れた頼武の遺児頼純に仕えることになります。頼純は、頼芸や、斎藤道三と再三にわたり戦いましたが、敗れてしまいます。その間、終始、頼純を支え、越前、美濃、尾張を転々としていきます。
西暦 | 和暦 | 月日 | 記事 | 光秀の年齢 |
1516 | 永正十三年 | 1歳 | ||
光秀、美濃で明智光兼の子として産まれる | ||||
1535 | 天文四年 | 20歳 | ||
光秀、主君土岐頼純とともに斎藤道三と戦うが、敗れて越前へ逃れる。その後、天文5年、天文12年にも同様に道三と戦って敗れる | ||||
1547 | 天文十六年 | 32歳 | ||
前年に道三と和睦して美濃へ復帰した頼純が道三に毒殺される。光秀は美濃に潜伏。 | ||||
1556 | 弘治二年 | 41歳 | ||
道三に敵対した斎藤義龍に加勢して道三を討ち、主君のかたきをとる。その後、越前へ逃れ、舟寄の黒坂備中守に仕え、長崎称念寺そばに十年住む。 | ||||
1566 | 永禄九年 | 51歳 | ||
5月 | 琵琶湖西岸の近江高島の田中城に幕府軍に加勢して籠城し浅井軍と戦い、手柄を立て、細川藤孝に仕える。 | |||
9月 | 足利義昭に随行して越前へ戻り、一乗谷の東大味に住む。 |
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■幕府奉公衆としての活躍
永禄十一年の上洛の時の光秀の身分は、細川藤孝に仕え、幕府の役人としては足軽衆でした。その光秀が、幕府奉公衆に出世して活躍がはじまります。
西暦 | 和暦 | 月日 | 記事 | 光秀の年齢 |
1568 | 永禄十一年 | 53歳 | ||
10月 | 足利義昭に随行して上洛する。 | |||
11月 | 聖護院門跡の主催する連歌会へ参加する。 | |||
1569 | 永禄十二年 | 54歳 | ||
1月 | 足利義昭の居所を襲撃した三好軍と戦い、手柄を立てる。その後、義昭直臣の奉公衆に出世する。 | |||
4月 | 織田家の羽柴秀吉らと連署状を発行する。 | |||
1570 | 永禄十三年 | 55歳 | ||
4月 | 越前朝倉攻めの先陣をつとめる。浅井長政の寝返りで急遽退陣となり、秀吉らとしんがりを務める。 |
■織田信長家臣としての活躍
幕府奉公衆であった光秀は信長と行動を共にし、信長にその実力を認められて、近江志賀郡の領主、坂本城主に取り立てられ、信長の家臣になりました。無名の存在だった光秀の異例の出世でした。
西暦 | 和暦 | 月日 | 記事 | 光秀の年齢 |
1571 | 元亀二年 | 56歳 | ||
9月 | 比叡山焼き討ちで手柄を立てる。これにより、信長に召し抱えられ、領地を与えられて坂本城主となる。 | |||
10月 | 京都所司代村井貞勝を助けて京都の行政を翌年6月までおこなう | |||
1573 | 元亀四年 | 58歳 | ||
5月 | 討ち死にした家臣を弔い、坂本西教寺へ寄進米を奉納する。 | |||
1575 | 天正三年 | 60歳 | ||
6月 | 丹波攻めを命じられる。 | |||
7月 | 惟任日向守の名前を賜る | |||
8月 | 一向一揆攻めで越前へ攻め込む。 |
■丹波平定と武将としての活躍
光秀の丹波攻めがいよいよ本格化したが、それは苦難の始まりでした。丹波攻めを担当しながらも丹波を離れて各地を転戦していきます。
西暦 | 和暦 | 月日 | 記事 | 光秀の年齢 |
1576 | 天正四年 | 61歳 | ||
1月 | 丹波黒井城攻めで大敗 | |||
5月 | 石山本願寺攻めで苦戦し、信長に救出される。陣中で赤痢を患い、死にそうになる | |||
11月 | 正室が死去 | |||
1577 | 天正五年 | 62歳 | ||
2月 | 細川藤孝らと紀州雑賀攻め | |||
10月 | 謀反を起こした松永久秀を細川藤孝らと攻める | |||
1578 | 天正六年 | 63歳 | ||
1月 | 丹波攻めの拠点として亀山城築城開始 | |||
11月 | 光秀、謀反した荒木村重を説得するも翻意せず | |||
1579 | 天正七年 | 64歳 | ||
6月 | 丹波八上城を落す | |||
10月 | 丹波平定 |
■領国経営者としての活躍
丹波平定によって光秀の軍事活動には区切りがついたと考えた信長は、光秀の担当を軍事から行政へ転じました。天下統一、そしてその先を睨んで光秀の能力を最大限に活用したのでしょう。
西暦 | 和暦 | 月日 | 記事 | 光秀の年齢 |
1580 | 天正八年 | 65歳 | ||
9月 | 大和検地を実施 | |||
1581 | 天正九年 | 66歳 | ||
2月 | 京都での馬揃えを奉行する |
■本能寺の変と滅亡
良好だった信長と光秀の関係が急転直下、謀反へと向います。武田家との連携の頓挫、家康との連携を画策を経て謀反におよびます。その結果、山崎で敗れ滅亡します。
西暦 | 和暦 | 月日 | 記事 | 光秀の年齢 |
1582 | 天正十年 | 67歳 | ||
1月 | 長曽我部元親に信長の命令に従うように説得すべく家臣を派遣する | |||
2月 | 武田勝頼に謀反を起こすので味方に付けと申し入れる | |||
4月 | 光秀、信長に随行して徳川領を通て帰着 | |||
5月24日 | 光秀、愛宕山で連歌を詠む。「ときは今あめが下なる五月かな」「国々はなおのどかなるとき」と土岐氏の再興と平安な世の到来を祈願する。 | |||
6月2日 | 光秀軍、本能寺を襲撃し、織田信長を自害に追い込む。続いて二条新御所に立てこもった織田信忠も襲撃し、自害に追い込む。 | |||
6月13日 | 山崎の合戦で光秀軍敗れる。光秀はいったん、勝竜寺城へ入り、夜脱出する | |||
6月14日 | 明智秀満、安土城を退去し坂本城に戻り一族を各地へ逃す | |||
6月15日 | 光秀討たれる | |||
6月15日 | 坂本城落城 | |||
6月18日 | 光秀と同盟した徳川家康が甲斐の織田軍をせん滅する。 | |||
7月20日 | 粟田口に光秀の死骸がさらされる | |||
7月22日 | 粟田口に光秀の首塚が築かれる |
この解説は、拙著『光秀からの遺言 本能寺の変436年後の発見』をもとに作成したものです。詳しくはそちらをご一読いただけますと幸いです。