歴史捜査で収集した史料から復元された光秀の生誕から死までの全生涯の概要をまとめたものです。これまで、光秀の生涯を通して書かれたものはないので、初めての光秀生涯記録となります。

■苦難の前半生

応仁の乱は、美濃にも影響をあたえ、土岐一族にも混乱をもたらしていました。そんな時代に、土岐氏の一族である父光兼のもとに光秀は生まれました。父の光兼は、美濃の守護土岐政房の嫡男・頼武を支える中核を担っていましたが、次男・頼芸との間には、後継者をめぐる争いが起こっていました。頼武は小守護代・長井一族に担がれた頼芸に敗れて没し、頼芸が守護職に就きました。光秀は敗れた頼武の遺児頼純に仕えることになります。頼純は、頼芸や、斎藤道三と再三にわたり戦いましたが、敗れてしまいます。その間、終始、頼純を支え、越前、美濃、尾張を転々としていきます。

 
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■幕府奉公衆としての活躍

永禄十一年の上洛の時の光秀の身分は、細川藤孝に仕え、幕府の役人としては足軽衆でした。その光秀が、幕府奉公衆に出世して活躍がはじまります。

 

■織田信長家臣としての活躍

幕府奉公衆であった光秀は信長と行動を共にし、信長にその実力を認められて、近江志賀郡の領主、坂本城主に取り立てられ、信長の家臣になりました。無名の存在だった光秀の異例の出世でした。

 

■丹波平定と武将としての活躍

光秀の丹波攻めがいよいよ本格化したが、それは苦難の始まりでした。丹波攻めを担当しながらも丹波を離れて各地を転戦していきます。

 

■領国経営者としての活躍

丹波平定によって光秀の軍事活動には区切りがついたと考えた信長は、光秀の担当を軍事から行政へ転じました。天下統一、そしてその先を睨んで光秀の能力を最大限に活用したのでしょう。

西暦和暦月日記事光秀の年齢
1580天正八年65歳
 9月大和検地を実施
1581天正九年66歳
 2月京都での馬揃えを奉行する

 

■本能寺の変と滅亡

良好だった信長と光秀の関係が急転直下、謀反へと向います。武田家との連携の頓挫、家康との連携を画策を経て謀反におよびます。その結果、山崎で敗れ滅亡します。

 

この解説は、拙著『光秀からの遺言 本能寺の変436年後の発見』をもとに作成したものです。詳しくはそちらをご一読いただけますと幸いです。