光秀の誕生から、山崎の戦いで敗れるまでの光秀の生涯を、その時の光秀の居場所、それを示す証拠などを地図や図などを使って説明したものです。皆様に真の光秀の姿を知っていただく一助になればと思います。
ストーリーは順次追加していきますので、お楽しみに。

・お知らせ
最新話、「第十二話 解説編 本能寺の変(2)~謀叛決断の時期~」を公開しました。(2021.10.22)

第一話 苦難の前半生 ~謎の美濃・越前時代~
(1516年~1568年9月)

光秀の誕生から、光秀が足利義輝(室町幕府第十三代将軍)の弟、覚慶(のちの室町幕府十五代将軍義昭)に従い上洛するまでの様子です。光秀にとっては苦難の日々でしたが、この時の経験が後に光秀の活躍の原動力となったのでしょう。

 

第二話 幕府奉公衆としての活躍 ~飛躍のとき 越前・近江~
(1568年10月~1570年6月)

光秀は上洛後、幕府奉公衆となり活躍します。一方、朝倉、浅井攻めでは、幕府軍の一員として信長と共に戦い、姉川の戦いで勝利します。光秀と信長の関係が急速に深まっていきます。

 

第三話 幕府奉公衆から信長の家臣へ ~運命の比叡山~
(1570年8月~1571年9月)

朝倉、浅井との姉川の戦いの後も、戦いは続きます。信長は敵に囲まれながらも、時には戦い、時には和睦をすることでこの窮地を乗り越えていきます。そのような中、比叡山延暦寺の焼討が行われます。光秀は、ここで活躍し、幕府奉公衆の立場を捨て、信長の家臣となります。

 

第四話 信長家臣としての活躍 ~将軍義昭の追放~
(1571年10月~1573年7月)

朝倉、浅井、三好、大坂本願寺、長島一向一揆、東からは武田信玄が攻めてくるなど、信長の窮地は続きます。そのような時、将軍足利義昭が二度にわたり反旗を翻します。光秀は坂本城を築き、琵琶湖の交通の要を堅めます。

 

第五話 惟任日向守の誕生 ~五年ぶりの越前へ~
(1573年8月~1575年9月)

将軍義昭を追放した信長は、朝倉氏、浅井氏を滅ぼします。光秀は上洛前に10年を過ごした越前に、信長軍の一員として攻め込みます。また、長年苦しめられてきた長島一向一揆もせん滅し、丹波攻めを命じられます。

 

第六話 丹波平定と武将としての活躍 ~四年がかりの丹波平定~
(1575年9月~1579年10月)

丹波攻めを命じられた光秀は、波多野秀治の寝返りにより苦戦を強いられます。大病を患い、正室を失いながらも足掛け四年がかりで丹波を平定します。

 

第七話 領国経営者としての活躍 ~丹波の治政と束の間の平穏~
(1580年1月~1581年12月)

天正七年に丹波平定を終えた光秀は、行政面での活動をはじめます。明智家中軍法、家中法度などの法を定め、法治・厳罰主義に徹しました。一方、信長はイエズス会との繋がりから、世界観が変わっていきます。信長の世界観の変化により、この後の光秀の人生を大きく変えていきます。

 

第八話 一族を守るための謀反 ~謀反決断のとき~
(1582年1月~1582年6月1日)

天正十年正月、光秀は最後の正月を迎えました。正月の茶会で知った信長の計画がもたらす一族の悲惨な運命、同盟者と期待していた長曾我部氏の滅亡の危機、光秀は一族を守るため謀反を決断します。

 

第九話 本能寺の変 ~苦渋の決断 信長・信忠討ち~
(1582年6月1日~1582年6月12日)

天正十年六月一日、光秀は信長、信忠親子を本能寺で討つため、亀山城から本能寺へ向かいます。
本能寺の変で信長を討った光秀は、朝廷から信任を得て、藤孝、順慶をはじめとした諸勢力へ協力を要請、自らも近江制圧へ動き出します。

 

第十話 光秀の最期 ~最後の戦い京都山崎~
(1582年6月13日~1582年7月2日)

秀吉は、光秀の想定をはるかに上回る速さで畿内へ戻ります。
畿内の諸勢力は秀吉の工作により、すでに光秀から離れ、細川藤孝すらも光秀への協力を拒みます。
味方を失った光秀は、京都山崎で最後の戦に臨みます。

 

第十一話 解説編 本能寺の変(1)~謀叛の動機~

みつひでストーリー第一話から第十話では、光秀の誕生から最期までの様子をお伝えしてまいりました。
今回からは、日本史最大の謎 本能寺の変について、当会代表理事・明智憲三郎が自ら解説してまいります。
解説編の第1回は「謀叛の動機」です。

 

第十二話 解説編 本能寺の変(2)~謀叛決断の時期~

前回、第11話では、光秀の謀叛の動機を解説しました。
今回は、「いつ光秀が謀叛を決断したか」の解説です。
本能寺の変が起きる前の出来事から、光秀が謀叛を決断した時期が見えてきます。