当会代表理事の明智憲三郎のご紹介です。

 

■辛かった少年期
幼いころ、祖父から聞いた言葉がいまだに耳の奥に響いています。
「我が家は明智光秀の子孫だ──」
以来、私の長い探究が始まりました。

私の家はもともと「明智(あけち)」ではなく「明田(あけた)」と名乗っていました。明田家は光秀の側室の子・於寉丸(おづるまる)の末裔と伝えられていたのです。光秀敗死のあと、於寉丸は山城(京都)の神社に匿われて神官の子として育てられたそうで、以来、身を隠すために姓を明田と変えて代を重ねてきたというのです。
長く逃亡・潜伏生活を続けていましたが、明治時代になると、私の曾祖父は明智光秀の子孫という伝承が失われないようにするため動きました。先祖から伝わっていた家系図や伝承物を証拠に、政府に「明智」への復姓を願い出たのです。その申請は認められ、晴れて「明智」を名乗ることになりました。
ところが、それによって私たちは大きな十字架を背負うことになります。
「あの逆賊の子孫」
明治生まれの祖父も父も、そして戦後生まれの私でさえ、周りからそう言われ、辛い少年期を過ごしました。ゆえに家族の間で光秀が話題に上ることはほとんどありませんでした。
なぜ先祖はいじめられたくらいで謀反を起こしたのか。
その疑問は若いころの私をずっと重苦しい気分にしてきました。
子どものころにときどき怖い夢を見たのを覚えています。
夜の闇の中に大勢の武器を持った人々が集まっていました。生々しい悪意と殺気を強く感じたものです。その群衆がこちらへと迫ってくるという恐怖感。おそらく祖父から聞かされた先祖の滅亡の話から呼び起こされた夢だったのでしょう。

■転機
ところが私の中で転機が訪れます。
それは20歳のころのことでした。光秀が織田信長にいじめられて恨んで殺したという話は、江戸時代に書かれた物語が作った出鱈目に過ぎないというのです。その情報は私のそれまでの疑問と重苦しい気分を一挙に吹き飛ばしてくれました。
その代わり「何でそんな噓っぱちが!」という強い憤りと「だったら本当の動機は何だったのか」という新たな疑問が生じたのです。
このとき初めて「どうしても真実を知りたい」という強い思いがふつふつと湧いてきました。
それ以来、それまでずっと避けてきた本能寺の変について、研究者の書いた本を読み漁るようになります。
私の関心事項は最終的には二つだけでした。
「失敗すれば一族が滅亡する謀反という重大決心をした本当の動機は何か?」
「なぜ、信長とその子の信忠を簡単に討ててしまったのか?」
大いなる期待を持って研究本を読みましたが、どれも納得できる答えを提供してはくれませんでした。そればかりか、調べれば調べるほど、どの研究者も初歩的な誤りを犯していることに失望感が深まっていったのです。
まず、証拠としてまったく信憑性のない軍記物の記述を相変わらず使い続けていることには驚きました。軍記物とは今でいう小説です。娯楽性を増すために脚色されたフィクションなのです。作者や時の権力者の都合のいいように創作された書物を使って、真実を探ろうとすることに意味はないでしょう。

■二度目の転機
そこで二度目の転機が訪れました。
「このやり方では真実を見出すことはできない」
「このままでは死ぬまで真実は分からない」
そんな思いが日増しに強くなった結果、既存の研究に納得できないなら、自分で研究するしかないと思い立ったのです。
もちろん、その決断に踏み切るには時間がかかりました。今さら素人が研究を始めて何が分かるというのか。
しかしどうしても真実を知りたいという思いの強さが勝って、本格的に研究を始めたのが、50代も半ばになってからでした。
いざ取り組んでみると、次々と新証拠が見つかることに驚きました。
素人である私が心がけたのは徹底した「証拠集め」です。
あらゆる当時の史料を読み、そこから浮かび上がる可能性のうち、もっとも蓋然性(がいぜんせい)の高い展開を見つけていくのです。自分の先祖だからとか、面白い新説を唱えたいとか、そんな想いは微塵もありませんでした。ただ真実が知りたかったのです。
このアプローチには、私のサラリーマン人生が役に立ちました。SE(システムエンジニア)の仕事に就いていた私にとって、証拠を使って真実を再構築していくのは、とても理論的な作業であり、本業と近い作業だったのです。
しかもこれは現代の警察の捜査とも近いことに気づきました。そこで私はこの歴史研究のアプローチを「歴史捜査(れきしそうさ)」と名付け、さらに精度を高めることに没頭していきました。

■捜査からわかった真実がかたちに
結果、私は本能寺の変と明智光秀という人物の真実に肉薄できたと自負しています。
見えてきたのは、これまでの定説では考えもしなかった武将たちのスケールの大きさ、驚きの策謀の数々、そしてその裏に潜む人間ドラマです。
その後、これらの研究結果を本にまとめることができました。
拙著『完全版 本能寺の変 431年目の真実』ではピンポイントで本能寺の変の真実を深掘りし、『光秀からの遺言 本能寺の変436年後の発見』(ともに河出書房新社)では、光秀に至る一族の歴史から、知られざる光秀の前半生を解き明かし、本能寺の変を俯瞰で眺めることに挑みました。
そして三部作完結編となる「明智家の末裔たち 本能寺の変からはじまった闘いの記憶」で、本能寺の変のあと、明智一族がどんな運命をたどったのか、これまでの研究結果をすべて記しました。
前述した私の思い出にも繫がりますが、本能寺の変以降、明智家は苦難の歴史をたどります。
日本史上もっとも人気がある英雄・織田信長を裏切った逆賊として虐げられる一方、400年超におよぶ歴史の中では、時の政権の都合によって、良くも悪くも利用されてきたのです。そういう意味で我が明智家は、稀に見る数奇な運命をたどってきたと言えるかもしれません。
そもそも「滅亡した」と思われていた光秀の子孫に、他の研究者が光を当てるはずはありません。「子孫」と伝わるからこそ、生き延びたことを知っており、どんな運命を歩んできたのか知りたかったのです。

■歴史捜査があたえてくれたもの
この研究の過程には嬉しいことも重なりました。
ひとつは、拙著や拙著を原案にした藤堂裕先生のコミック『信長を殺した男』が、多くの方に支持いただけたこと。
2つ目は、全国に散らばる明智家の皆さんから研究への協力をいただいたことです。
これまで長く潜伏してきた人たちが、私の研究を知って名乗りを上げてくださったのです。
そして3つ目、令和二年(2020)NHK大河ドラマ「麒麟がくる」で、明智光秀を主人公としたドラマが放送されました。
これら三つのことは、「逆賊」と言われていた少し前には考えられなかったことです。
真実の明智光秀が浮かび上がるとともに、何かが少しずつ変わってきたと期待しています。
まだまだ真実の普及は不完全ですが、一族の皆さんも喜んでいることと思います。
私には「逆賊・光秀」は秀吉と国策によって改竄されたものだったという確信が生まれました。

■これからの私の使命
長い歴史捜査で見えてきたのは、「武将として戦国時代に生きる」ということに対する現代人の無理解でした。その責は歴史学者や歴史小説家が負わねばなりません。彼ら自身が無理解なまま情報発信を続けているからです。
何かを学ぶとき、自分の常識で捉えることはあまりに危険です。多面的に学び、実像を摑むことが、どれだけ難しく大切なことかに改めて気づかされました。

今後も調査・研究活動を通じて、明智光秀の虚説を覆し、真の光秀の姿を明らかにし、これらが「新説から定説へ」となるよう努力してまいりたいと思います。
また、一般社団法人明智継承会の代表として、「光秀の真の歴史を継いでいく」活動もしてまいりたいと考えておりますので、ご支援を賜りますよう、よろしくお願いいたします。

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