ここに掲げた「土岐明智光秀 推定系図」は、わたしの歴史捜査から推定して作成したものです。この家系図ができるまでの過程を解説します。

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■土岐明智家の系図の元

土岐明智家の系図で現存しているものは下表(表1)の通りで、10種類の文書があります。

10種類の文書の中で、「③寛政重修諸家譜「土岐系図」」、④系図纂要「土岐上野沼田系図」は、②寛永諸家系図伝「土岐系図」を書き写したものです。また、⑦系図纂要「明智系図」、⑧土佐諸家系図「明智系図」、⑨熊本安国寺蔵「山岸系図」、⑩明智氏一族宮城家相伝「宮城系図」は明智軍記の創作を元にしたものです。
系図の組み立てには、これらを除外し、①尊卑文脈、②寛永諸家系図伝「土岐系図」、⑤続群書類従「土岐系図 浅羽本」、⑥続群書類従「明智系図」を使って組み立てていきます。

■光秀の書かれていない系図から系図の組み立て

①尊卑文脈、②寛永諸家系図伝「土岐系図」の家系図を、並べて比較してみると、次のようなことがわかります(図1)。

・「頼貞」からはじまり、「頼篤」、「國篤」、「頼秋」を飛ばして「頼秀」で一致。

・「頼秀」より先は、異なる人物が並びます。

ここでキーマンとなるのが、「光高」です。

・捜査のキーマン「光高」

「光高」に関する文書を見てみてみると次のようなものがあります。宗祇のまとめた「新選菟玖波集作者部類」と、美濃守護土岐成頼宛にかかれた「幕府奉行人連署奉書(将軍の名を受けて下した文書)」です。これらの文書から、「光高」は「玄宣」として登場し、2つの家系図をつなげてくれるのです(図2)。

・政宣の父は玄宣

新選菟玖波集作者部類には、「源政宣 土岐中務少輔 号 明智玄宣法師子」とあり、「政宣」は「玄宣」の子となっています。また、「玄宣」についても「玄宣法師 土岐兵庫助以 明智」と書かれています。よって、①尊卑文脈の系図と照合してみると、「光高」=「玄宣」ということになります。

・頼定と玄宣は同時代で同じ領地に権利を保有する一族

幕府奉行人連署奉書には、「土岐明智兵部少輔頼定与同名兵庫頭入道玄宣相論時、令和睦。於知行分者、可折中旨、(後略)」と書かれており、「頼定」と「玄宣」とが領地争いをしているのを、和睦させるように命じています。そのため、両者は同じ時代の人物で、二人が同じ領地に権利を保有する一族であることがわかります。

・つながった2つの系図

2つの系図は、頼秀でつながり、「頼定」、「玄宣」は同時代の人間、また、どちらも祖父が頼秀であることから、双方の父頼弘と頼高は兄弟で、頼定と光高(玄宣)は従兄弟ということになります。これを土岐明智合成系図とします(図3)。

■光秀につながる系図

ここまでに作った系図「土岐明智合成系図」、これから見ていく2つの系図から、光秀につながる系図を考えていきます。

・3つの系図

「⑤続群書類従「土岐系図 浅羽本」」、「⑥続群書類従「明智系図」」は、そっくりで、定政、光秀の父の記載が違うだけです。
また、「⑤続群書類従「土岐系図 浅羽本」」は、別本としながらも、「土岐明智合成系図」と同じように考えて作られていることがわかります(図4)。

・光秀のつながる系図

光秀のつながる系図は、頼秀から別れる「頼高系統」、「頼弘系統」のどちらから考えてみても、どちらの系統かを確定できるところにはいたりませんでした。結論からいうと、現時点までの捜査では、はっきりしたことはわかりません。しかしながら、

・通字の「光」がつながる
・十郎光兼、十兵衛光秀、十五郎光慶という仮名のつながりもよい。
・連歌の素養、玄宣のひ孫という肩書で、連歌会参加の道が開いた
・細川藤孝との関係も説明が付けやすい
・土岐頼純とともに斎藤道三と戦い軍事の経験を得てきた
ことから、「頼高系の光兼の子」と考えるのが、妥当と考えています。

 

この解説は、拙著『光秀からの遺言 本能寺の変436年後の発見』をもとに作成したものです。詳しくはそちらをご一読いただけますと幸いです。