光秀生涯
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月日
記事
参考文献
光秀の年齢
1566
永禄九年
10月20日
10月20日
義昭側近の米田求政、『針薬方』を書写。その紙背に「右一部、明智十兵衛尉高嶋田中城籠城時之時口伝也」という奥書のある沼田勘解由左衛門尉所持本を近江坂本で写したと書かれている
51歳
1569
永禄十二年
* 3月22日
*3月22日
秀吉・長秀・中川重政・光秀、山城国大住庄三ヶ村の名主百姓中へ宛てられた信長朱印状を受け曇華院に於ける一色藤長の違乱停止などを通達「曇華院殿古文書」(永禄十三)
54歳
1569
永禄十二年
4月16日
4月16日
秀吉・長秀・中川重政・光秀、梶又左衛門へ永禄九年十二月十三日付の武田義統御判形に任せて所領安堵するという信長朱印を発給すること、益々武田元明への忠勤に励むことを通達「大阪青山歴史文学博物館所蔵文書」
54歳
1569
永禄十二年
4月16日
4月16日
秀吉・長秀・中川重政・光秀、治部助へ永禄九年十二月十三日付の武田義統御判形に任せて所領安堵するという信長朱印を発給すること、益々武田元明への忠勤に励むことを通達
54歳
1570
永禄十三年・元亀元年
1月26日
1月26日
言継、幕府奉公衆への年頭挨拶廻りで道なりに竹内治部少輔・三淵大和守(晴員)・同彌四郎(藤英)・一色式部少輔(藤長)曽我兵庫頭(助乗)の次に光秀を訪問したが岐阜へ下って留守とのことだった
55歳
1570
永禄十三年・元亀元年
4月20日
4月20日
光秀、藤孝・飯川信堅・曽我助乗へ若狭熊川へ到着したこと、信長の越境を迎えるために武田家老中がまかり出ていること、越前口も近江北郡も異状ないことなど義昭に披露願う旨を伝える「細川家文書」
55歳
1571
元亀二年
6月12日
6月12日
信長、藤孝へ幕臣間に喧嘩が発生した件で義昭御内書が発給されたが、その存分の通りに御使両人と光秀に申し渡すことを義昭に達するよう披露を依頼「横畠文書」
56歳
1571
元亀二年
10月 8日
10月8日
松田秀雄が方々への段別之配符状の助筆を通達し、言継は二十五通、言経は十七通を調え送った。総数は五・六百通とのこと。その内容は九月三十日付の光秀・島田秀満・塙直政・松田秀雄連署状であった
56歳
1571
元亀二年
11月28日
11月28日
吉田兼右、毛利輝元からの下向依頼を受けて出立。藤孝・三淵藤英・光秀・兼見らが吉田兼右の老体を案じて諌止するも、吉田兼右は出立したので東寺辺りまで見送る
56歳
1572
元亀三年
7月24日
7月24日
林与次左衛門(員清)・光秀・猪飼野甚介(昇貞)・山岡玉林(景猶)ら、信長の命を受けて囲舟を建造し、海津浦・塩津浦・与語入海・江北の敵地を焼き払い、竹生島に舟を寄せ火矢・大筒・鉄炮を以て一揆勢を殲滅
57歳
1573
元亀四年・天正元年
2月20日
2月20日
信長、義昭の内命により近江今堅田城に籠城した光浄院暹慶(山岡景友)・磯貝(磯谷)新右衛門(久次)・渡辺党らを攻撃するために勝家・光秀・長秀・蜂屋頼隆を派遣
58歳
1573
元亀四年・天正元年
7月14日
7月14日
勝家・秀吉・一益・長秀・松井友閑・前波七郎兵衛尉、兼見を訪問し光秀が信長へ吉田山に居館を構えることを進言した旨を伝達。信長は勝家らに吉田山の検分を命令するが築城には適さないことが判明、兼見は無事を悦ぶ
58歳
1573
元亀四年・天正元年
10月 8日
10月8日
北伊勢出陣中の信長、東別所へ陣を進める。これによって近隣の敵が次々人質を出して信長に従う。その後、京都静原山に立て籠もった山本対馬守を光秀が計略で生害させ、首を東別所まで持ってきて進上。信長は二十五日に北伊勢を撤収
58歳
1574
天正二年
10月20日
10月20日
光秀・塙直政・蜂屋頼隆・秀吉・長秀・柴田勝政・藤孝・佐久間信盛、根来寺へ昨日着陣し明日河内高屋表へ押し詰めるので参陣するように要請「大阪城天守閣所蔵文書」
59歳
1575
天正三年
7月 3日
7月3日
信長、詔勅で官位を賜ったが辞退。代わりに家老衆に名字・官位を授ける。松井友閑は宮内卿法印、武井夕庵は二位法印、光秀は惟任日向守、簗田左衛門は別喜右近、長秀は惟住とする
60歳
1575
天正三年
8月15日
8月15日
光秀ら三万余騎、越前へ乱入。光秀・秀吉、二、三百討取り、円強寺・若林長門父子の城へ乗り込む。夜になり光秀・秀吉、府中の町で加賀・越前の一揆二千余切り捨てる
60歳
1575
天正三年
8月16日
8月16日
信長、越前木ノ芽峠へ出馬。光秀を浜手より府中へ向かわせる。信長は敵兵が府中へ流入するのを防ぐため待機。光秀・秀吉が府中へ侵入し敵兵を掃討し、越前は一国平均に属し、府中は死骸ばかりにて一円あき所ない状態となる「泉文書」
60歳
1576
天正四年
5月 4日
5月4日
兼見、織田軍と本願寺勢の天王寺表における戦闘で原田直政が戦死した旨、光秀・荒木村重・三好康長が籠城するも苦戦を強いられており、明日信長が出馬するので、分国衆は残らず上洛するという報に接す
61歳
1577
天正五年
? 5月 4日
?5月4日
越前の堀江藤秀、瀧谷寺へ播磨は秀吉が拝領し近日出陣、また光秀から越前の面々へ飛脚が到来し信長が中国辺へ出陣するなどと伝える「瀧谷寺文書」(天正五カ)
62歳
1577
天正五年
10月 1日
10月1日
英俊、信貴山城への攻撃のために明智軍が行動を開始したこと、信忠も出撃すること、片岡城を攻略し、七〇人計りが無残討死したが、明智軍も大勢損ったことを聞く
62歳
1577
天正五年
10月20日
10月20日
信長、順慶へ光秀を丹波へ派遣することを通達。また順慶に石山本願寺攻めの付城である森口と森河内に勤番し、大坂への通路・夜番を油断無きように命ず「某氏所蔵文書」
62歳
1577
天正五年
10月20日
10月20日
信長、美作の江見為久へ山中鹿之助(幸盛)の書状が到来したが、書かれていることが相違なければ江見為久に本領だけでなくその外の恩賞地を宛行うと通達。詳細は光秀に伝達させる「美作江見文書」
62歳
1578
天正六年
4月29日
4月29日
毛利勢が上月城を包囲した知らせを受けて信長が自ら出陣し毛利と決戦する旨を伝えると、佐久間・一益・蜂屋・光秀・長秀が敵城を偵察してからにすべきと反対。一益・長秀・光秀が出陣
63歳
1578
天正六年
12月11日
12月11日
信長、村重攻めの陣を固め、秀吉に加えて佐久間・光秀・順慶を播磨へ派遣し三田城攻めの陣を整える。その後、光秀は丹波の波多野氏の八上城の封鎖を強化する
63歳
1579
天正七年
7月25日
7月25日
信長、長秀へ光秀が宇津城を攻略したが調儀を実行させていること、昨夜宇津頼重が逃散し丹波・若狭境の深山に隠れて西国への便船を求めていると推察されるので、若狭より西国へ向かう船は成敗すべきことを厳命す「溝口文書」
64歳
1580
天正八年
1月24日
1月24日
時宗の同念上人、光秀へ順慶への紹介を依頼する使いを送る。光秀が美濃土岐氏の牢人のとき越前朝倉義景を頼って長崎称念寺門前に十年居住していて旧知の故である
65歳
1580
天正八年
8月12日
8月12日
信長、佐久間信盛父子を追放。その折檻状で佐久間父子の悪評は唐土・高麗・南蛮まで知れ渡ったと非難。丹波での光秀の働きを天下の面目をほどこしたと讃える
65歳
1580
天正八年
10月28日
10月28日
英俊、戒重・岡弥二郎・大仏供・高田藤七郎が生害したので、一益は岡弥二郎のもとへ、順慶は高田藤七郎のもとへ、光秀は戒重と大仏供のもとへ下ったと聞く
65歳
1580
天正八年
11月 2日
11月2日
英俊、一益・光秀がこの暁七つ時分に興福寺を発すること、指出徴収のための滞在は三十八日であったこと、この間の苦難は大変であったこと、藤田伝五が残留していることを聞く
65歳
1581
天正九年
2月23日
2月23日
兼見、藤孝より書状を受ける。その内容は後刻、光秀・蜂屋頼隆・松井友閑が吉田の春日馬場に於いて騎乗する旨の通知であった。その後、光秀・松井友閑・藤孝が従者二百人余を率いて春日馬場に到来
66歳
1581
天正九年
8月20日
8月20日
信長、秀吉の注進状に応え、全三ヶ条の指示を下す。因幡鳥取城の攻城戦に、より一層の覚悟で臨むことを命令し、先書で通達した様に光秀・藤孝以下、摂州衆も準備させているので、秀吉からの要請が有り次第に出張させることなどや信長自身も出馬するので油断無く調儀を行うことを命令「沢田義厚氏所蔵文書」
66歳
1581
天正九年
8月21日
8月21日
英俊、光秀がこの暁に郡山城より帰還したこと、八月七日か八日の頃に光秀の妹御ツマキが死去したこと、信長の一段のキヨシであり、光秀はとても落胆していることを聞く
66歳
1581
天正九年
8月23日
8月23日
信長、藤孝へ丹波方面に敵が侵攻してきたならば出陣すべき旨を命令したところ油断無く用意したことを諒承し、光秀へも詳細を指示したので準備に邁進するよう命ず。また丹波より賊船を因幡方面の味方諸城へ兵粮を搬入させ、敵船を撃退させることも重要であり、松井康之の折紙を披見することを通達。さらに南方への軍事行動の件も通達「細川家文書」
66歳
1581
天正九年
9月24日
9月24日
信長、藤孝へ松井胃介(康之)・加悦勘十郎が出雲・伯耆境目で相働き敵船数艘切取、二十五人討取捕え、秀吉折紙到来し、粉骨比類なしと忠節を褒める「細川家文書」
66歳
1582
天正十年
1月20日
1月20日
兼見、光秀を坂本城に礼問す。光秀には小天主に於いて対面し、茶湯や夕食で振る舞われた。種々雑談し、光秀は機嫌であった。奏者は佐竹秀慶の弟の佐竹弥吉であった
67歳
1582
天正十年
3月 5日
3月5日
成方院浄勝、安土より帰還し、その途上に兼見を訪問す。兼見、浄勝よりこの朝に信長は佐和山城を出陣したこと、出陣する軍勢は安土に至るまで続くほど多いこと、特に光秀の軍勢は人数多く奇麗であったことを知らされる
67歳
1582
天正十年
4月
4月
寛尊、信長の東国出馬について天皇の命により御祈祷の経文および陣中見舞品を携えて興福寺より派遣。信忠・信雄・光秀・一益・明智伝五・順慶・長谷川秀一らへ物が贈られた
67歳
1582
天正十年
5月11日
5月11日
家康、岡部正綱へ内書を与え、委細は榊原康政に伝えさせようと思ったが先発したので作左衛門(本多重次)が申すこと、この内書は隠すことを命ず「寛永諸家系図伝」
67歳
1582
天正十年
5月14日
5月14日
藤孝、早朝安土へ下向。安土へ登城する家康の接待のため光秀は在庄を命じられた(注)正本では家康が安土逗留の間の用意・馳走で光秀は大変だったと追記
67歳
1582
天正十年
5月21日
5月21日
長宗我部元親、利三へ信長の意向に従い信長が東国から帰陣したら同心したい旨を伝える(石谷家文書に残っているので利三には届かなかったとみられる)「石谷家文書」
67歳
1582
天正十年
5月27日
5月27日
信忠、森乱丸へ堺見物を取りやめて信長上洛を京で待つので早々に信長の許可を得て連絡を得たいこと、委細は使いの者が口上で申すこと、家康は明日大坂・堺へ下ることを伝える「小畠文書」
67歳
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
明智勢、本能寺を取り囲み信長を討つ。信長、初めは弓を取って射たが、その後槍で戦い、肘に槍疵を被って引き退き、そばにつきそっていた女性たちを追い出し、御殿に火を懸け、殿中奥深く入り切腹。明智勢、引き続き二条新御所へ立て籠もった信忠を討つ。光秀、辰刻(午前八時前後)、信長父子以下を討ち果たし落人探索を指示。山岡美作(景隆)・対馬(景佐)兄弟が勢田の橋を焼き落としたので、光秀は坂本へ帰城。巳刻(午前十時前後)、安土へ光秀謀反が伝わる。夜になって山崎片家が自邸を焼き払い居城山崎城へ退去した
67歳
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
明智弥平次光遠・明智勝兵衛・明智治右衛門・明智孫十郎・斎藤内蔵助利三を頭として取り巻いた。信長、弓を取り射伏せた後、十文字の鎌で戦い、数か所疵を負って引き退き、美女たちをことごとく刺し殺して自ら火を懸け切腹した
67歳
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
光秀、京都本能寺に於いて信長を焼き討ち。晴豊、二条新御所へ行ったが軍勢が取り巻いて入れず、明智家臣の井上に頼んだが無理だった。誠仁親王、供奉衆と共に漸く二条御所を脱出。夕方に屋敷共を見物。首・死人数限りなしという状態であった
67歳
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
光秀、卯刻(午前六時前後)に本能寺の信長を謀叛により襲撃し信長は即時に討死す。信忠、二条新御所へ立て籠もった所へ明智軍が押し寄せ、討死。貞勝以下悉く討死。二条新御所の誠仁親王は辰刻(午前八時前後)に内裏へ移る。洛中騒動
67歳
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
順慶、今朝上洛の途中、信長は急に西国出陣とて既に安土へ帰った由につき帰国した。信長、京都で生害、信忠も生害、光秀と信澄が申し合わせた(「これは嘘」と追記あり)。今暁のことが昼十時過ぎに伝わった
67歳
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
光秀、早天に本能寺を襲撃。信長即時生害。信忠、二条新御所に立て籠もり生害す。貞勝親子三名、馬廻衆ら討死す。誠仁親王ら禁裏に避難。紹巴が輿を持ってきてお乗せした。本能寺・二条新御所等炎上、洛中・洛外驚騒。光秀は悉く討ち果たし未刻(午後二時前後)大津へ下る。兼見、粟田口で光秀と対面し在所の安全を頼んだ(注)正本では紹巴が輿を持ってきた話、兼見が光秀に対面した話を削除
67歳
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
寛尊、信長が本能寺で生害と聞く。光秀、未明に謀反を為して四方を取り囲み攻撃する。光秀は今度西国への暇乞に人数をお目に懸けると謀略を企てた。信忠の滞在する妙覚寺へ押し寄せ、信忠、既に本能寺落居という注進を受けて二条新御所に移る。明智軍、二条新御所を包囲。信忠、籠もった二条新御所内より誠仁親王を御所外への脱出させる。信忠軍、御所内より切って出て、三度も寄手を退散させるが、多勢に無勢で信忠らは討死す。これにより洛中洛外大騒動となる。この日中程に奈良へ注進があった
67歳
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
信長、背に刺さった矢を抜き薙刀で戦ったが腕に弾創を受けて部屋に引き籠った。切腹したとも火を放って死んだともいう。信忠は親王の邸へ移り、親王は光秀の許可を得て内裏へ移った。信忠は一時間以上戦ったが明智軍が邸内に火を放ち焼死した。巡察師が信長に贈った黒人奴隷が信長の死後に信忠の邸で戦い、降伏し京都の教会へ身柄を預けられた
67歳
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
家康、堺見物が終了した旨信長へ報告するため茶屋四郎次郎を使いとして一日に上洛させ、この日堺を出立し上洛。本多忠勝を先行させて上洛の途中に四郎次郎が京都から馬に乗って来て忠勝と枚方で行き合った。信長自害を知らされ二人は戻って飯盛山近辺で家康と出会って報告し、伊賀を越えて三河へ戻った「茶屋由緒記」
67歳
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
呉服師亀屋栄任、信長自害を家康に注進するため堺へ迎えに行った。その際、伊賀越えで三河に帰国とのことで栄任は京都に家康手勢が居るとのことで京都へ戻り密かに手勢を集め、近江信楽へ下って御供した「呉服師由緒記」
67歳
1582
天正十年
6月 3日
6月3日
英俊、京都からの注進で信長は本能寺にて、信忠は二条新御所にて生害したこと、菅屋長頼・村井三名・福富秀勝、小姓衆五、六百名が生害したこと、光秀は坂本城へ入城して大津・松本・瀬田(勢田)に陣取ったこと、藤孝が生害したという風聞があること、この日に大和衆は悉く大安寺・辰市・東九条・法花寺周辺に陣取ったことを知る
67歳
1582
天正十年
6月 3日
6月3日
松平家忠、京都の酒井忠次より家康の命令として西国へ出陣あると通知を受ける。酉刻(午後六時前後)に京都で光秀・信澄謀反により信長自害の旨大野より知らせを受ける
67歳
1582
天正十年
6月 4日
6月4日
家康、伊勢から大浜へ上がり岡崎に到着。松平家忠、迎えに行き、穴山梅雪が切腹したこと、信澄謀反は嘘であることを知る(こちらの手勢と雑兵共二百余で討たせたと追記あり)
67歳
1582
天正十年
6月 5日
6月5日
英俊、昨日山城へ出陣した軍勢が早々と大和に戻って来たこと、大坂で信澄が生害したこと、信澄は光秀の聟で一段逸物であったが信孝・長秀・蜂屋頼隆らの沙汰により自害したこと、伊賀は信雄の被官衆が開城したので無防備状況となり、牢人衆が入城したこと、四日に光秀が安土城に入城したこと、佐和山城には山崎片家が、長浜城へは利三が入城したこと、山城から帰陣した軍勢を順慶が率いて近江に移動し光秀と手を合わせ一味となったことを知る
67歳
1582
天正十年
6月 5日
6月5日
秀吉、中川清秀へ福富秀勝の奮戦により信長・信忠は近江膳ヶ崎まで無事に難を逃れたこと、今、備前野殿まで到着し、今日備前沼を通る予定を報告「梅林寺文書」
67歳
1582
天正十年
6月 6日
6月6日
兼見、晴豊より召喚状を受けて、即時晴豊に随行し禁裏の誠仁親王へ祗候し対面す。親王、直に兼見へ光秀への御使として下向し京都の治安維持を厳命する旨を命ず。兼見、親王の命を受けて明日早速出発することになり、緞子一巻を預かり禁裏を退出す(注)正本には光秀への命令の内容は記載されていない
67歳
1582
天正十年
6月 6日
6月6日
小早川隆景、桂左太・岡宗左(毛利氏家臣)へ信長父子が一日討ち果て、二日に大坂で信孝が自害し、信澄・光秀・勝家が共謀して討ち果したと報ず「萩藩閥閲録」
67歳
1582
天正十年
6月 6日
6月6日
毛利輝元、満願寺へ信長親子三名が戦死した件は信澄に光秀・勝家が共謀して起こした事件であること、秀吉とは和談を締結した旨を報ず「毛利氏四代実録考証論断」
67歳
1582
天正十年
6月 7日
6月7日
兼見、御使として早々に安土へ向けて京都を出発。安土城に入城し光秀と対面、御使の趣旨を伝達し、朝廷より預かった巻物等を渡す。光秀は兼見へ今度の謀叛の存分を雑談し、蒲生賢秀が未だ出仕していないことを伝える。兼見、安土城を出て城下の町屋に宿泊す。錯乱していて不便であった(注)正本では兼見と光秀のやり取りを削除している
67歳
1582
天正十年
6月 8日
6月8日
兼見、上洛するため早天に安土を発足す。光秀上洛のため、明日の摂津への軍事行動に備え明智軍は安土城を出動。先勢は山科・大津に布陣していた。兼見、吉田郷に帰宅し休息を取った後、誠仁親王に伺候して直接委細を上奏す(注)正本では、兼見が誠仁親王へ光秀との談合内容を上奏したことを削除
67歳
1582
天正十年
6月 9日
6月9日
兼見、早々に光秀から自筆の到来予告状を受ける。光秀、未刻(午後二時前後)に上洛す。兼見、光秀を迎える為に京都白川まで出向く。公家衆・摂家・清花が悉く迎え出ており、兼見はこの旨を光秀に通知したところ、光秀は無用であると辞退。光秀、両御所(正親町天皇・誠仁親王)へ銀子五百枚、京都五山と京都大徳寺へ銀子百枚ずつ、兼見へ銀子五十枚を進上。光秀、兼見邸小座敷に暫く逗留し方々注進を受けて手配する。兼見、光秀へ夕食を進上。紹巴・昌叱・心前が相伴した。光秀、夕食後に京都下鳥羽に出陣。兼見は誠仁親王と対面し、委細申入れた。光秀への奉書が認められたので、兼見はその奉書を携えて即時下鳥羽の光秀陣所へ下向し、銀子の御礼と奉書を光秀へ示した(注)正本では光秀が両御所へ銀子を進上した件、兼見が下鳥羽の光秀陣所へ行った件を削除
67歳
1582
天正十年
6月 9日
6月9日
晴豊、光秀が河内へ軍勢を派遣したと聞く。光秀、兼見を来訪し禁裏銀子五百枚を両御所へ進上。朝廷は光秀へ京都の治安維持をかたく申付け、文にて光秀の銀子進上を賞す。また朝廷は兼見を下鳥羽南殿寺の光秀本陣へ派遣する
67歳
1582
天正十年
この頃 寛尊、秀吉が毛利と和睦して近日上洛するという噂が頻繁であること、大坂では信澄と信孝が談合したが人数がそろわないこと、光秀よりの合力要請の使者が切々と到来し、五日より伝五が逗留すること、順慶より秀吉へ使者が派遣され入魂となったという噂があること、光秀が京都山崎八幡の洞ヶ峠に着陣したことを聞く
67歳
1582
天正十年
* 6月10日
*6月10日
長宗我部元親家臣中与一兵衛(中島重房?)、石谷頼辰の堺からの書状に返書。早々に御上洛があるのは目出度い、元親の身上にもかかわることであろうか、追々慶事を申し上げることを披露願いたいと告げる(年未詳)
67歳
1582
天正十年
6月11日
6月11日
英俊、藤田伝五が光秀の命を受けて順慶を訪問し合力の説得をするも同心を得られず、木津まで引き返したが順慶より呼び戻されたこと、順慶は既に秀吉へ村田某・今中某を使者として派遣し、合力の誓紙を提出したことを知る
67歳
1582
天正十年
6月11日
6月11日
秀吉、松井友閑へ一昨日明石を出発し、淡路洲本城を攻め落としたこと、夜中に兵庫まで着陣すること、直ちに尼崎まで打ち出すつもりであることを告げる「萩野由之氏所蔵文書」
67歳
1582
天正十年
6月12日
6月12日
英俊、秀吉が既に摂津まで猛勢にて迫っていること、また家康が既に安土に着陣したと聞く。明智軍が石清水八幡宮・山崎周辺に布陣していたが、淀周辺まで撤退したと聞く。昨日順慶が郡山城で国中の与力を集結させて血判起請を提出させたと聞く
67歳
1582
天正十年
6月13日
6月13日
摂津衆三人は秀吉が三レグワ(十五キロ)ほどの所まで来ていることを知り、中川清秀が山の手、池田恒興が淀川沿い、高山右近が中央の山崎村へ進軍した。明智軍は八千ないし一万、羽柴軍は二万以上、高山右近は一千に満たない軍勢。右近は光秀が村の門まで進軍してきたため秀吉軍の到着を待てずに門を開けて明智軍を攻撃し二百を討った。清秀・恒興軍も参戦して明智軍は逃げ始めた。これがきっかけとなって正午に明智軍は敗退。敗軍は午後二時に京を通り、通過に二時間要したが、盗賊らに襲われて坂本に着けなかった者が多かった。光秀は午後勝竜寺城へ入り、羽柴軍は全軍で取り囲み、都に聞こえるほど終夜銃を撃った。光秀は宵の口に坂本に向かって逃げ、農夫らに殺されて首を切られた
67歳
1582
天正十年
6月13日
6月13日
この申刻(午後四時前後)より京都山崎に於いて鉄放の音が数刻にわたり止まなかった。兼見、京都五条口より落武者たちが愛宕郡白川一乗寺周辺へ逃走し途中にて一揆に遭遇した模様で或者討捕、或者剥取のこと、京都からの通知により山崎表に於いて合戦があり光秀が敗軍して勝龍寺城に入ったこと、明智軍の戦死者は数知れないことを知る。兼見、堅く自宅の門を閉ざし門内に於いて用心していたが、吉田郷へは落人が一人も到来しなかった。山崎合戦での南方の諸勢とは神戸信孝・秀吉・池田恒興・長秀・蜂屋頼隆・堀秀政・矢部家定・中川清秀・多羅尾光俊らで、二万余の軍勢で勝龍寺城を包囲したことを知る
67歳
1582
天正十年
6月14日
6月14日
光秀、昨夜勝龍寺城を退散す。津田越前入道、兼見を訪問。この度光秀が兼見邸に到来し、禁裏と京都五山へ銀子配分した件が織田側で執沙汰され曲事とされているので織田三七郎御使として糺明のために到来したという。禁裏へ参内し誠仁親王と対面し、親王へ詳細を上奏した。親王、信孝陣所へ御使を派遣す。施薬院全宗に相談したところ秀吉へ早速事情を申し入れるべきであるとのことであった。全宗使者・兼見使者、桑原貞也のもとへ派遣。兼見、使者より桑原貞也の返事を受けた。その内容とは、津田越前入道は信孝が派遣したのではなく信孝へ問い合わせたところ、津田越前入道の件は無御存知きことで、津田越前入道に問責の使者を派遣したところ、この朝より外出し行方不明とのこと。もし再度津田越前入道が到来した場合には留めて織田側に注進すべきという存分を受けて兼見は安堵した
67歳
1582
天正十年
6月14日
6月14日
英俊、井戸良弘が裏帰って山城槙島城を順慶に渡すため早旦に井戸重郎と一手衆を退城させたこと、越智・楢原・万歳以下悉く出立したこと、明日順慶の出京が決定したと聞く
67歳
1582
天正十年
6月14日
6月14日
寛尊、摂津衆・池田恒興・秀吉が上洛し京都山崎に於いて合戦があったこと、明智軍が敗軍し即時落居したこと、勝龍寺城も陥落したこと、秀吉の軍勢が京着したことを知る。光秀が醍醐で生害し伝五も腹切したことを知る。数万人が戦死し、山崎から醍醐周辺まではあちこちに屍が散乱しており数は不明であることを知る
67歳
1582
天正十年
6月14日
6月14日
明智秀満、安土城を退去し、明智の婦女子らのいる坂本城へ入る。信雄、安土城の天主に放火させ、市にも火をつけるように命ず。秀吉軍が坂本城に到着するが、既に多数の者が城から逃亡していた
67歳
1582
天正十年
6月15日
6月15日
兼見、安土城が焼失し安土山下からの類火と聞く。神戸信孝へ御礼の為に吉田兼治を派遣。光秀が京都醍醐周辺にて一揆に討ち取られたこと、光秀の首級は村井清三が神戸信孝のもとへ持参したこと、高山次右衛門が坂本城天主に放火して切腹したと聞く
67歳
1582
天正十年
6月15日
6月15日
英俊、十二日に明智軍が千余人損傷し、わずか三十余名が坂本へ帰ったこと、昨日より秀吉が大津まで進撃したこと、今日比叡山の東の方が大焼というので坂本城が焼けたこと、今朝順慶自身が千余の軍勢を率いて出陣したこと、秀吉は順慶の行動を曲事としたこと、先日の合戦にて光秀の討死は確実であろうことを聞く
67歳
1582
天正十年
6月17日
6月17日
英俊、光秀が十二日に勝龍寺城を逃れ出て、山科で一揆に叩き殺され、首も胴も京都へ運ばれたことを知る。光秀は細川兵部大夫の中間であったのを取り立てられ、信長の厚恩により召抱えられたが、大恩を忘れたので天命であった。利三が生け捕られて安土に送られたと聞く
67歳
1582
天正十年
6月18日
6月18日
兼見、利三が捕獲されて上洛し洛中を車に乗せられて引き回され六条河原にて刎首されたこと、光秀と同様に本能寺に曝されたこと、堅田の猪飼野半左衛門が捕縛したことを知る
67歳
1582
天正十年
6月19日
6月19日
秀吉、高木彦左衛門(貞久)へ十三日に明智と一戦し悉く討ち果たし首三千余討取ったこと、光秀は山科藪中に隠れていたところを百姓が首を切り捨て置いたのを見つけたこと、利三は二人の子と逃げる途中を郷人が子の首を切り利三を生け捕り、車で引きまわしの上、首を切ったこと、坂本城では光秀の子二人と明智彌平次(秀満)が切腹し天主が焼け落ちて死んだこと、近江の光秀加担者は首を切るか助命して召抱えるかしたこと、明日美濃へ入る予定であることを告げる「高木文書」
67歳
1582
天正十年
6月26日
6月26日
秀吉、一益へ山崎での合戦、光秀の死、坂本城の落城、利三捕縛、近江平定(以上は六月十九日付け高木彦左衛門宛書状とほぼ同文)、阿閉父子三人及び一類女子共首を刎ねたこと、尾張を平定して清須城に逗留していることを告げる「大阪城天守閣所蔵文書」
67歳
1582
天正十年
7月 2日
7月2日
言経、粟田口に光秀の首と胴がつながれ張付けにされたこと、利三も同様にされたこと、その他首三千余の首塚を同所に築いたこと、今日明智秀満の父六十三歳が召し取られ同所に張付けにされたことを知る
67歳
1582
天正十年
7月11日
7月11日
秀吉、鍋島直茂へ本能寺の変により毛利氏と和睦締結したこと、明智与党全滅磔刑に処したこと、国々へ従来の如く静謐を申し付けて九日に上洛したこと、近日中の姫路帰城を通知。南蛮帽子の贈答を謝す「鍋島家文書」
67歳
1587
年未詳
? 9月21日
?9月21日
明智与三兵衛子愛・同藤左衛門行隆、村山宮内少輔へ今度東筋出陣につき中嶋喜兵衛を使いにもらい委細承知した、御用の儀は疎略にしない旨を返書「村山文書」(年未詳)
67歳