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月日
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参考文献
光秀の年齢
1339
暦応二年
1339
暦応二年
2月18日
2月18日
足利直義、土岐彦九郎頼重へ祖父頼貞の譲状により美濃国妻木郷・多芸庄内多芸嶋榛木の地頭職に任ずる「土岐文書」
【岐四】
1351
観応二年
1351
観応二年
1月30日
1月30日
足利尊氏、明智彦九郎(頼重)・土岐孫二郎へ兵衛督直義を誅罰するために出陣を命ず「土岐文書」
【岐四】
1351
観応二年
2月 7日
2月7日
足利義詮、土岐彦九郎(頼重)へ尾張国海東左近大夫将監領地を勲功により宛がう「土岐文書」
【岐四】
1351
観応二年
9月20日
9月20日
足利義詮、土岐左近将監頼忠へ美濃国武儀庄内野所・安弘見・加藤郷の地頭職に任ずる。
1351
観応二年
11月23日
11月23日
足利尊氏、土岐右馬権頭(頼康)に出陣を命ず「土岐文書」
【岐四】
1356
延文元年
1356
延文元年
* 12月23日
*12月23日
足利義詮、土岐下野守(頼高)へ尾張国海東郡内庶子等領地を預け置く 「土岐文書」 (注)原文は延文六年十二月二十三日と書かれているが延文は同年三月二十九日までなので誤り。永徳三年の足利義満下文記載の延文元年を採用
【岐四】
1363
貞治二年
1363
貞治二年
4月21日
4月21日
足利義詮、土岐下野入道(頼高)へ尾張国海東郡内庶子等の領地を預け置く 「土岐文書」
【岐四】
1366
貞治五年
1366
貞治五年
* 8月 3日
*8月3日
足利義詮、土岐下野入道へ天龍寺管領地を除く尾張国海東庄、美濃国妻岐郷内笠原半分・曾木村・細野村、同国多芸庄内春木郷、武蔵国大井郷内不入讀村地頭職の事を民部少輔頼重の文和四年十一月六日の譲状のとおり相違ないと認める「土岐文書」 (注)原文では月が判読されていないが永徳三年の足利義満下文記載の八月を採用
【岐四】
1366
年未詳
1366
年未詳
8月16日
8月16日
足利義詮、土岐明智(頼重)へ国中のことは刑部少輔(土岐頼康)と相談して忠に励むよう命ず「土岐文書」
【岐四】
1383
永徳三年
1383
永徳三年
7月25日
7月25日
足利義満、土岐下野守(頼高)へ天龍寺領を除く尾張国海東庄、美濃国妻岐郷内笠原半分・曾木村・細野村、同国多芸庄内春木郷・多芸嶋郷・高田内河合郷、武気庄内野所・安弘見・加藤郷、同国伊川郷伊川新兵衛尉跡、武蔵国大井郷不入讀村頼重跡等の地頭職を安堵する。右、観応元年十月二十六日・同二年二月七日・同年九月二十日・延文元年十二月二十三日・貞治五年八月三日の下文で安堵のとおり。「土岐文書」
【岐四】
1390
明徳元年
1390
明徳元年
閏3月
閏3月
土岐康行、挙兵するが敗れて没落。美濃守護は土岐西池田氏の頼忠が継承する。
1390
明徳元年
12月14日
12月14日
足利義満、土岐明智氏王丸(頼篤)へ本領を安堵する「土岐文書」
【岐四】
1399
応永六年
1399
応永六年
11月24日
11月24日
足利義満、土岐美濃入道(頼助)へ土岐明智十郎頼篤の申請した美濃国多芸庄内多芸嶋郷・同庄内口口郷等の土岐下野入道跡を安堵する「土岐文書」
【岐四】
1401
応永八年
1401
応永八年
土岐頼益、幕府評定衆に列する
【勝俣】
1425
応永三十二年
1425
応永三十二年
2月21日
2月21日
土岐明智國篤、知行を譲り渡す置文(遺言状)を遺す「土岐文書」
【岐四】
1427
応永三十四年
1427
応永三十四年
6月25日
6月25日
足利義持、土岐明智長寿丸(頼秋)へ美濃妻木郷・武気庄内野所郷等を安堵 「土岐文書」
【岐四】
1444
文安元年
1444
文安元年
斎藤利永、守護代の座を富島氏・長井氏と争い勝つ
【勝俣】
1447
文安四年
1447
文安四年
8月 6日
8月6日
右京大夫(細川勝元)、土岐明智十郎(頼秀)へ中條左馬助が方々の悪党と相談して兵庫頭入道常秋の館に押し寄せるので早々に常秋に合力すべきよう命ず「土岐文書」
【岐四】
1444
文安元年~六年
1444
文安元年~六年
文安番帳(幕府役人名簿)中の外様大名衆に土岐左京大夫、外様衆に土岐明智中務少輔、四番に土岐石谷孫三郎
【番帳】
1450
宝徳二年~康正元年
1450
宝徳二年~康正元年
永享番帳(幕府役人名簿)中の御相伴衆に土岐美濃守持益、四番に土岐石谷孫九郎、土岐肥田中務少輔
【番帳】
1462
寛正三年
1462
寛正三年
6月23日
6月23日
明智頼宣(玄宣)、細川勝元らと連歌を詠む
【連目】
1463
寛正四年
1463
寛正四年
12月 9日
12月9日
明智頼宣、細川勝元らと連歌を詠む
【連目】
1467
応仁元年
1467
応仁元年
1月
1月
応仁の乱始まる。応仁の乱では朝倉・六角・土岐は西軍に属し、反幕府的立場をとる
【山田】
【勝俣】
1473
文明五年
1473
文明五年
2月 1日
2月1日
明智頼宣、連歌を詠む
【連目】
1473
文明五年
12月
12月
足利義尚(義政の子)、第九代将軍に就任
【山田】
1477
文明九年
1477
文明九年
11月
11月
応仁の乱終結。足利義視・義材父子は西軍土岐成頼に伴われて美濃に下る。延徳元年まで美濃東大寺領茜部荘に暮らす
【山田】
【勝俣】
1480
文明十二年
1480
文明十二年
5月
5月
斎藤妙椿没後の家督争いで守護土岐成頼の支援を得た妙椿養子利国(妙純)が妙椿兄の子利藤に勝つ。その後、利藤は幕府支援を得て美濃守護代に復帰
【勝俣】
1480
文明十二年
7月 4日
7月4日
明智頼宣・政宣、連歌を詠む(政宣は一句)
【連目】
1482
文明十四年
1482
文明十四年
2月27日
2月27日
明智頼宣・政宣、藤宰相らと連歌を詠む
【連目】
1482
文明十四年
3月 7日
3月7日
明智政宣、宗祇らと連歌を詠む
【連目】
1482
文明十四年
3月20日
3月20日
明智頼宣、宗祇らと連歌を詠む
【連目】
1482
文明十四年
9月
9月
明智頼宣・明智六郎政宣、連歌を詠む
【連目】
1484
文明十六年
1484
文明十六年
3月10日
3月10日
将軍義尚の連歌会が催され、明智頼宣(頼連に改名する)、越阿、細川彌九郎同座
【実一下】
1486
文明十八年
1486
文明十八年
3月27日
3月27日
明智頼連(玄宣)、宗祇らと連歌を詠む
【連目】
1486
文明十八年
9月30日
9月30日
明智頼連・政宣、宗祇らと連歌を詠む
【連目】
1487
文明十九年・長享元年
1487
文明十九年・長享元年
9月
9月
将軍義尚、六角征伐のため近江へ出陣。義材、美濃より参陣
【山田】
1487
文明十九年・長享元年
長享番帳(義尚に随行した幕府役人名簿)中の諸大名に土岐次郎政房、四番に土岐明智兵庫助、同左馬助政宣、土岐石谷兵部少輔、土岐飛騨(肥田)中務少輔直盛
【番帳】
1488
長享二年
1488
長享二年
4月25日
4月25日
明智政宣、宗祇・光信らと連歌を詠む
【連目】
1489
長享三年・延徳元年
1489
長享三年・延徳元年
3月26日
3月26日
将軍義尚、近江の陣中で没す
【山田】
1489
長享三年・延徳元年
4月14日
4月14日
足利義視・義材父子、上洛
【宣一】
1489
長享三年・延徳元年
7月28日
7月28日
明智入道(玄宣)・同右馬助(左馬助の誤記)、細川民部少輔・同宮内少輔らと連歌
【実二上】
1489
長享三年・延徳元年
12月26日
12月26日
明智玄宣・政宣、宗祇らと連歌を詠む
【連目】
1489
長享三年・延徳元年
明智兵庫入道(玄宣)、宗祇に連歌宗匠の後継に指名されるが辞退
【辞典】
1490
延徳二年
1490
延徳二年
1月 7日
1月7日
足利義政、没す
【山田】
1490
延徳二年
3月 5日
3月5日
明智中務少輔政宣、宗祇らと連歌を詠む
【連目】
1490
延徳二年
7月23日
7月23日
明智政宣、宗祇らと連歌を詠む
【連目】
1490
延徳二年
7月 5日
7月5日
足利義材、第十代将軍の宣下を受ける
【山田】
1491
延徳三年
1491
延徳三年
1月 7日
1月7日
足利義視、没す
【山田】
1491
延徳三年
4月21日
4月21日
将軍義材、六角攻めを命ず
【山田】
1492
延徳四年・明応元年
1492
延徳四年・明応元年
東山番帳中の国持衆に土岐左京大夫(成頼)、外様衆に土岐明智中務少輔(政宣)、 四番に土岐明智兵庫頭(玄宣)・土岐石谷兵部大輔・土岐肥田判官・土岐肥田中務少輔
【今谷】
1492
延徳四年・明応元年
12月14日
12月14日
将軍義材、六角攻めに勝利し京都へ凱旋
【山田】
1493
明応二年
1493
明応二年
4月22日
4月22日
細川政元、将軍義材を廃し、清晃(足利義高)を第十一代将軍に擁立
【山田】
1493
明応二年
6月29日
6月29日
足利義材、京都を脱出し越中へ逃れる
【山田】
1494
明応三年
1494
明応三年
9月21日
9月21日
足利義材、越中で正式に細川政元・将軍義高打倒の兵を挙げる
【山田】
1495
明応四年
1495
明応四年
1月 6日
1月6日
土岐兵庫頭明智入道玄宣、宗祇らと新撰菟玖波集/撰集/祈祷に参加し連歌を詠む 一月六日 玄宣、新撰菟玖波祈念百韻に参加し、『新撰菟玖波集』に九句入選
【連目】
【辞典】
1495
明応四年
3月28日
3月28日
幕府奉公人の下総守(飯尾爲頼)・前丹後守(松田長秀)、土岐明智兵部少輔頼定と同名兵庫頭入道玄宣の相論は知行を折中して和睦するよう命ず「土岐文書」
【岐四】
1495
明応四年
7月
7月
斎藤妙純、船田合戦で守護成頼・斎藤利藤方の石丸利光を破り、利光は近江へ逃亡
【勝俣】
1496
明応五年
1496
明応五年
5月11日
5月11日
玄宣明智入道、藤中納言入道・姉小路宰相などと連歌
【実三上】
1496
明応五年
5月
5月
石丸利光、土岐成頼の子元頼を大将に担ぎ、管領細川氏・近江六角氏・伊勢北畠氏などの援助を得て美濃へ侵攻。妙純、尾張織田氏・越前朝倉氏の援軍を得て勝利し利光・元頼は自刃。石谷兵部少輔らの土岐一族も元頼に殉じ、土岐氏は衰退
【勝俣】
1496
明応五年
8月15日
8月15日
明智玄宣、宗祇・光信らと連歌を詠む
【連目】
1496
明応五年
12月
12月
斎藤妙純、石丸利光に加担した六角氏を攻め、近江土一揆に敗れて自害し、斎藤氏も衰退
【勝俣】
1497
明応六年
1497
明応六年
4月 3日
4月3日
土岐成頼、没す
【勝俣】
1498
明応七年
1498
明応七年
9月
9月
足利義材、越中を去り越前朝倉貞景を頼る。このころ義尹へ改名
【山田】
1498
明応七年
閏10月 6日
閏10月6日
明智玄宣・政宣、宗祇らと連歌を詠む
【連目】
1498
明応七年
閏10月11日
閏10月11日
明智入道玄宣・明智中務少輔政宣、宗祇・宗長・玄清らと連歌
【実三下】
1499
明応八年
1499
明応八年
7月20日
7月20日
足利義尹、上洛を目指して越前を出陣
【山田】
1499
明応八年
11月22日
11月22日
足利義尹、坂本へ進軍するが六角氏に大敗する
【山田】
1499
明応八年
12月 晦日
12月晦日
足利義尹、周防の大内義興を頼る
【山田】
1500
明応九年
1500
明応九年
2月
2月
明智玄宣、細川家千句で連歌を詠む。以後名が見えない
【辞典】
1500
明応九年
7月 6日
7月6日
明智政宣、宗祇らと連歌を詠む
【連目】
1501
明応十年・文亀元年
1501
明応十年・文亀元年
この頃将軍義澄と細川政元の対立が始まる
【山田】
1502
文亀二年
1502
文亀二年
4月13日
4月13日
土岐明智上総守頼尚、譲状を認める。美濃土岐郡内の妻木村・笠原村・駄智村・ 細野村(駄智・細野両所は各半分)等を実子彦九郎(頼明)へ譲与する。兵部少輔頼典は嫡子であるが不孝を重ねたので義絶する。頼尚の遺す者は悉く彦九郎へ譲渡する。鹿苑院殿(足利義満)井勝定院殿(足利義持)御教書(頼尚童名長寿丸の時の安堵状)、重要な判物十六通を添えて譲状を渡す「土岐文書」
【岐四】
1502
文亀二年
9月15日
9月15日
宗祇、没
【実四上】
1505
永正二年
1505
永正二年
7月29日
7月29日
明智政宣、宗祇年忌の連歌を詠む
【実四上】
1507
永正四年
1507
永正四年
6月24日
6月24日
細川政元、養子の澄之に殺される
【山田】
1507
永正四年
8月 1日
8月1日
細川澄之、殺害され、細川澄元が台頭
【山田】
1508
永正五年
1508
永正五年
1月頃
1月頃
足利義尹、京都奪還を目指して大内義興の大艦隊と周防を出陣
【山田】
1508
永正五年
4月
4月
細川高国、澄元を追放し細川一門の惣領となる。将軍義澄、京都を去り近江へ退く
【山田】
1508
永正五年
5月 7日
5月7日
一色宮内少輔材延、土岐明智(頼明)へ足利義材の帰洛にあたり早々に参陣すべきことを返信する「土岐文書」
【岐四】
1508
永正五年
6月 8日
6月8日
足利義尹、大内義興・細川高国らと上洛
【山田】
1508
永正五年
7月 1日
7月1日
足利義尹、将軍に復位する
【山田】
1508
永正五年
7月24日
7月24日
明智政宣、宗祇追善和歌を詠む
【実五上】
1511
永正八年
1511
永正八年
8月14日
8月14日
足利義澄、流浪先の近江岡山で病死
【列伝】
1513
永正十年
1513
永正十年
3月18日
3月18日
足利義尹、大内義興・細川高国と対立し、京都から近江甲賀へ出奔
【山田】
1513
永正十年
5月 3日
5月3日
、足利義尹、大内義興・細川高国に迎えられて上洛
【山田】
1513
永正十年
11月 9日
11月9日
足利義尹、義稙に改名
【山田】
1515
永正十二年
1515
永正十二年
7月14日
7月14日
一色兵部大輔尹泰、土岐明智彦九郎(頼明)へ将軍復帰(足利義稙)にあたって 太刀を進上したことの礼を返信する「土岐文書」
【岐四】
1515
永正十二年
8月 7日
8月7日
一色材延、土岐明智彦九郎(頼明)へ将軍(足利義稙)入洛につき早々に上洛すべき旨を返信する「土岐文書」
【岐四】
1517
永正十四年
2歳
1517
永正十四年
12月
12月
土岐政房、土岐頼武を担ぐ斎藤新四郎(利良)と戦って敗れる
【宣二】
【横山】
2歳
1518
永正十五年
3歳
1518
永正十五年
8月10日
8月10日
斎藤利良、守護土岐次郎(頼武)を担ぎ土岐頼芸を担ぐ土岐政房・斎藤彦四郎と戦って敗れ、頼武と越前朝倉氏を頼る
【宣二】
【横山】
3歳
1518
永正十五年
12月26日
12月26日
足利義稙、朝倉弾正左衛門尉(孝景)へ越前に逗留している土岐次郎(頼武)を早々に参洛させるように命ず「彰考館文庫所蔵文書(室町御内書案)」
【岐四】
3歳
1519
永正十六年
4歳
1519
永正十六年
6月16日
6月16日
土岐政房没し、法要が行われる
【木下】
4歳
1519
永正十六年
9月下旬
9月下旬
斎藤利良、朝倉氏の合力を得て越前より美濃へ攻め込み合戦「東寺過去帳」
【大九九】
【横山】
4歳
1519
永正十六年
9月
9月
土岐頼武、朝倉氏の援護を得て美濃へ復帰し守護となる
【木下】
4歳
1519
永正十六年
11月
11月
細川澄元、阿波で挙兵し三好之長に率いられた細川澄元軍が京都に迫る
【山田】
4歳
1520
永正十七年
5歳
1520
永正十七年
2月
2月
細川高国、細川澄元軍に大敗し京都を脱出して近江六角氏を頼る。将軍義稙、細川澄元と同盟
【山田】
5歳
1520
永正十七年
5月11日
5月11日
細川高国、細川澄元軍に大勝し三好之長を斬って帰京を果たす。このころ澄元没す
【山田】
5歳
1520
永正十七年
土岐頼武、大桑城を築く
【横山】
5歳
1521
永正十八年・大永元年
6歳
1521
永正十八年・大永元年
2月 2日
2月2日
石河四郎右衛門尉知直、明智兵部大輔(定明)へ一色尹泰を通じて官途申請を将軍へ上申している旨を伝える「土岐文書」
【岐四】
6歳
1521
永正十八年・大永元年
3月 7日
3月7日
足利義稙、高国と対立し京都を出奔し、淡路島へ移る
【山田】
6歳
1521
永正十八年・大永元年
12月25日
12月25日
足利義晴(義澄の子)、細川高国に擁立されて十二代将軍となる
【山田】
6歳
1525
大永五年
10歳
1525
大永五年
8月 8日
8月8日
土岐頼武、長井氏に敗れ斎藤利良没。頼武も没したか越前へ逃れたとみられる「于恒宿禰記」
【木下】
10歳
1525
大永五年
この後土岐頼芸、守護に就任
【木下】
10歳
1526
大永六年
11歳
1526
大永六年
6月 4日
6月4日
明智政宣、宗長らの百韻に参加
【連辞】
11歳
1526
大永六年
9月
9月
明智政宣、故宗祇の句を発句として三吟を巻く。その後、東国へ赴く
【連辞】
11歳
1527
大永七年
12歳
1527
大永七年
2月
2月
細川高国、細川晴元方の三好元長らに敗れ、将軍義晴と近江坂本へ逃れる
【勝俣】
12歳
1527
大永七年
3月17日
3月17日
将軍義晴、土岐次郎(頼芸)へ近江から御内書で美濃動乱が収束していない認識を示す
【木下】
12歳
1528
大永八年・享禄元年
13歳
1528
大永八年・享禄元年
2月
2月
将軍義晴、土岐次郎(頼芸)へ長井新左衛門(道三の父)が押領した奉公衆佐竹常秋の知行地の返還を命ず
【岐四】
【勝俣】
13歳
1528
大永八年・享禄元年
5月
5月
将軍義晴、近江坂本へ動座、九月に高嶋郡朽木庄へ動座
【西島】
13歳
1531
享禄四年
16歳
1531
享禄四年
2月 1日
2月1日
将軍義晴、細川晴元に呼応した浅井氏に攻められ、朽木谷から逃れ、坂本へ移る 六月八日 細川高国、摂津尼崎広徳寺にて切腹
【西島】
【横山】
16歳
1531
享禄四年
6月
6月
美濃太守頼芸、細川高国の戦死を悼む「頌文雑句」
【横山】
16歳
1533
天文二年
18歳
1533
天文二年
斎藤道三、家督を継ぐ
【横山】
18歳
1534
天文三年
19歳
1534
天文三年
9月
9月
将軍義晴、細川晴元と和睦し京都へ戻る
【西島】
19歳
1535
天文四年
20歳
1535
天文四年
6月
6月
土岐頼芸、亡父政房の十七回忌を執り行う「仁岫録」
【木下】
20歳
1535
天文四年
8月17日
8月17日
斎藤道三、六角氏・朝倉氏が支援する土岐頼純と戦い勝利。頼純、越前へ逃れる
【横山】
20歳
1536
天文五年
21歳
1536
天文五年
7月
7月
土岐頼芸、美濃守に任官「後奈良天皇宸記」
【木下】
21歳
1536
天文五年
9月
9月
土岐頼純、六角氏・朝倉氏の支援で斎藤道三と戦う
【横山】
21歳
1537
天文六年
22歳
1537
天文六年
2月
2月
土岐頼芸・斎藤道三と土岐頼純・六角氏・朝倉氏和睦。その後、頼芸の娘が六角義賢に嫁ぐ
【横山】
22歳
1537
天文六年
この頃 土岐次郎(頼純)を美濃へ帰国させるにあたって六角定頼から朝倉孝景へ義俊を介して依頼「三宝院伝法灌頂密印」紙背文書
【木下】
22歳
1538
天文七年
23歳
1538
天文七年
8月
8月
土岐次郎(頼純)、越前から帰国し大桑城へ入る「鷲見文書」
【横山】
23歳
1541
天文十年
26歳
1541
天文十年
10月 晦日
10月晦日
将軍義晴、近江坂本へ移る
【西島】
26歳
1543
天文十二年
28歳
1543
天文十二年
?年末 土岐二郎(頼純)、斎藤道三と大桑で戦い敗れ、織田信秀を頼り尾張へ逃れる
【横山】
28歳
1544
天文十三年
29歳
1544
天文十三年
3月25日
3月25日
土岐頼純の母、尾張で父朝倉貞景三十三回忌の法要を催す「別本仁岫録」
【横山】
29歳
1544
天文十三年
* 8月22日
*8月22日
明智光秀、一色氏家臣とみられる前野丹後守へ次郎(土岐頼純)の越前亡命にあたって朝倉殿(孝景)が同心するとのことに満足している旨を伝える「木倉豊信氏蒐集文書」
【福二】
【藤田】
29歳
1544
天文十三年
9月22日
9月22日
土岐二郎(頼純)、越前朝倉氏・尾張織田氏の支援を得て美濃へ侵入するも道三に敗れ越前に逃れる「信長公記」
【横山】
29歳
1545
天文十四年
30歳
1545
天文十四年
12月
12月
足利義藤(義輝)、坂本において元服・将軍宣下
【西島】
30歳
1546
天文十五年
31歳
1546
天文十五年
9月
9月
土岐頼純、斎藤道三と和睦し帰国「永泉余滴」
【木下】
【横山】
31歳
1547
天文十六年
32歳
1547
天文十六年
11月17日
11月17日
土岐頼純、二十四歳で没す。斎藤道三による暗殺とみられる
【横山】
32歳
1549
天文十八年
34歳
1549
天文十八年
6月
6月
足利義晴・義輝、三好長慶に敗れた細川晴元と朽木谷へ逃れる。
34歳
1549
天文十八年
10月
10月
足利義晴、愛宕山北の地蔵山に中尾城を築城開始
【勝俣】
34歳
1550
天文十九年
35歳
1550
天文十九年
10月
10月
斎藤道三、土岐頼芸を追放
【木下】
【横山】
35歳
1551
天文二十年
36歳
1551
天文二十年
2月
2月
将軍義輝、朽木庄へ逃れ、天文二十一年正月まで滞在
【西島】
36歳
1552
天文二十一年
37歳
1552
天文二十一年
6月
6月
土岐頼芸を庇護していた六角氏、頼芸を追った斎藤道三を攻める
【勝俣】
37歳
1553
天文二十二年
38歳
1553
天文二十二年
8月
8月
将軍義輝、朽木庄へ逃れ、永禄元年(一五五八)三月まで滞在
【西島】
38歳
1554
天文二十三年
39歳
1554
天文二十三年
3月
3月
斎藤道三、隠居し家督を義龍へ譲る
【勝俣】
39歳
1556
弘治二年
41歳
1556
弘治二年
4月
4月
斎藤道三、義龍に攻められて敗死
【木下】
41歳
1556
弘治二年
斎藤道三、義龍に討たれる。義龍軍には揖斐因幡守・原紀伊守・舟木大学介・石谷近江守・明智十兵衛ら土岐一族が味方に加わる
【美濃】
41歳
1560
永禄三年
45歳
1560
永禄三年
7月21日
7月21日
斎藤義龍、六角氏と同盟を結ぼうとする。この時点で六角氏は土岐頼芸を保護、 朝倉氏は頼芸弟揖斐五郎光親を保護し土岐氏の領国回復を名目に美濃侵略を狙っていた
【岐四】
【勝俣】
45歳
1565
永禄八年
50歳
1565
永禄八年
7月28日
7月28日
覚慶(後の足利義昭)、朝倉義景の調略により奈良一乗院を脱出し甲賀和田惟政の元へ逃れる「上杉古文書」
【渡辺】
50歳
1565
永禄八年
8月14日
8月14日
朝倉義景の重臣前波吉継、和田惟政へ足利義昭を越前に迎える意思を返書「和田家文書」
【久保】
50歳
1565
永禄八年
11月21日
11月21日
足利義昭、近江野洲郡矢島へ移る
【久保】
50歳
1565
永禄八年
12月 5日
12月5日
織田信長、細川藤孝へ義昭上洛に供奉する意思を表明「高橋義彦氏所蔵文書」
【愛知】
50歳
1566
永禄九年
51歳
1566
永禄九年
3月10日
3月10日
足利義昭、信長と斎藤龍興の和睦を調整し、上使として細川藤孝を派遣したことを 上杉謙信へ報ずる「上杉古文書」
【渡辺】
51歳
1566
永禄九年
4月18日
4月18日
足利義昭、細川藤孝・和田惟政へ信長が上洛に加勢することを喜び、時期を確認するように命ず「和田家文書」
【愛知】
51歳
1566
永禄九年
浅井長政、高嶋郡の土豪饗庭氏を中心とする三坊(西林坊・定林坊・宝光坊)を味方に付けて幕府御家人朽木・田中氏の所領押領を図る「来迎寺文書」
【西島】
51歳
1566
永禄九年
4月18日
4月18日
浅井長政、西林坊・定林坊・宝光坊の忠節を褒め知行を宛がう
【浅井】
51歳
1566
永禄九年
* 5月19日
*5月19日
明智光秀、曾我助乗へ高嶋で饗庭三坊の城下に放火し、敵城三ヶ所落とした旨を義昭へ披露するように依頼「細川家文書」
【藤田】
51歳
1566
永禄九年
6月11日
6月11日
足利義昭、和田惟政へ信長の上洛を促すように命ず「和田家文書」
【愛知】
51歳
1566
永禄九年
7月13日
7月13日
足利義昭、若狭の武田彦五郎(信方)へ信長が斎藤龍興と和睦して来月出陣する旨を伝える「武家手鑑」
【愛知】
51歳
1566
永禄九年
8月28日
8月28日
足利義昭、近江矢島にて山城・伊賀の武将へ織田信長と上洛する旨の書状を記す「米田家文書」
【村井】
51歳
1566
永禄九年
8月29日
8月29日
足利義昭、三好三人衆と六角氏に追われて矢島を退座し若狭へ逃れる
【多一】
51歳
1566
永禄九年
9月 8日
9月8日
足利義昭、近江矢島から若狭を経て越前敦賀へ移る「上杉家文書」
【愛知】
51歳
1566
永禄九年
10月20日
10月20日
足利義昭側近の米田求政、『針薬方』を書写。その紙背に「右一部、明智十兵衛尉高嶋田中城籠城之時口伝也」という奥書のある沼田勘解由左衛門尉所持本を近江坂本で写し たと書かれている
【村井】
51歳
1566
永禄九年
8月
8月
「永禄六年諸役人附」後半部の足軽衆の末尾に明智
【番帳】
51歳
1568
永禄十一年
53歳
1568
永禄十一年
2月 8日
2月8日
足利義栄、将軍宣下を受ける
【晴右】
53歳
1568
永禄十一年
10月14日
10月14日
足利義昭、京都本圀寺へ入り、織田信長と上洛を果たす
【公記】
53歳
1568
永禄十一年
10月18日
10月18日
足利義昭、将軍宣下を受ける
【言四】
53歳
1568
永禄十一年
11月15日
11月15日
明智光秀、聖護院宮・飛鳥井雅敦・細川藤孝・紹巴らと連歌に参加
【連目】
53歳
1568
永禄十一年
この頃 武田信玄重臣の高坂弾正、「信玄が死ねば織田信長は徳川家康を殺す」と予測を述べ る。馬場美濃守・内藤修理もそれに同意する
【甲上】
53歳
1516
永正十三年
1歳
1516
永正十三年
光秀、明智光兼の子として美濃に生まれる
1歳
1525
大永五年
10歳
1525
大永五年
8月 8日
8月8日
土岐頼武、斎藤道三に敗れ斎藤利良没。頼武も没したか越前へ逃れたとみられる「于恒宿禰記」
【木下】
10歳
1525
大永五年
この後 土岐頼芸、守護に就任
【木下】
10歳
1535
天文四年
20歳
1535
天文四年
8月17日
8月17日
斎藤道三、六角氏・朝倉氏が支援する土岐頼純と戦い勝利。頼純、越前へ逃れる
【横山】
20歳
1536
天文五年
21歳
1536
天文五年
9月
9月
土岐頼純、六角・朝倉の支援で斎藤道三と戦う
【横山】
21歳
1537
天文六年
22歳
1537
天文六年
2月
2月
土岐頼芸・斎藤道三と土岐頼純・六角・朝倉和睦
【横山】
22歳
1537
天文六年
この頃 土岐次郎(頼純)を美濃へ帰国させるにあたって六角定頼から朝倉孝景へ義俊を介して依頼「三宝院伝法灌頂密印」紙背文書
【木下】
22歳
1538
天文七年
23歳
1538
天文七年
8月
8月
土岐次郎(頼純)、越前から帰国し大桑城へ入る「鷲見文書」
【横山】
23歳
1543
天文十二年
28歳
1543
天文十二年
?
?
?年末 土岐二郎(頼純)、斎藤道三と大桑で戦い敗れ、織田信秀を頼り尾張へ逃れる
【横山】
28歳
1544
天文十三年
29歳
1544
天文十三年
3月25日
3月25日
土岐頼純の母、尾張で父朝倉貞景三十三回忌の法要を催す「別本仁岫録」
【横山】
29歳
1544
天文十三年
* 8月22日
*8月22日
光秀、前野丹後守へ次郎(土岐頼純)の越前亡命にあたって朝倉殿(孝景)が同心するとのことに満足している旨を伝える「木倉豊信氏蒐集文書」(年未詳)
【福二】
【藤田】
29歳
1544
天文十三年
9月22日
9月22日
土岐二郎(頼純)、越前朝倉氏・尾張織田氏の支援を得て美濃へ侵入するも道三に敗れ越前に逃れる
【公記】
【横山】
29歳
1546
天文十五年
31歳
1546
天文十五年
9月
9月
土岐頼純、斎藤道三と和睦し帰国「永泉余滴」
【木下】
【横山】
31歳
1547
天文十六年
32歳
1547
天文十六年
11月17日
11月17日
土岐頼純、二十四歳で没す。斎藤道三による暗殺とみられる
【横山】
32歳
1550
天文十九年
35歳
1550
天文十九年
10月
10月
斎藤道三、土岐頼芸を追放
【木下】
【横山】
35歳
1552
天文二十一年
37歳
1552
天文二十一年
6月
6月
斎藤道三に追われた土岐頼芸を保護した六角氏、道三を攻める
【勝俣】
37歳
1554
天文二十三年
39歳
1554
天文二十三年
3月
3月
斎藤道三、隠居し家督を義龍へ譲る
【勝俣】
39歳
1555
弘治元年
40歳
1555
弘治元年
朝倉軍が加賀に討ち入る。黒坂備中守らが出陣。
【朝倉】
40歳
1556
弘治二年
41歳
1556
弘治二年
4月
4月
斎藤道三、義龍に攻められて敗死
【木下】
41歳
1556
弘治二年
斎藤道三、義龍に討たれる。義龍軍には揖斐因幡守・原紀伊守・舟木大学介・石谷近江守・明智十兵衛ら土岐一族三十二人が味方に加わる
【美濃】
41歳
1560
永禄三年
45歳
1560
永禄三年
7月21日
7月21日
斎藤義龍、六角氏と同盟を結ぼうとする。この時点で六角氏は頼芸を保護、朝倉氏は頼芸弟揖斐五郎光親を保護し土岐氏の領国回復を名目に美濃侵略を狙っていた
【岐四】
【勝俣】
45歳
1565
永禄八年
50歳
1565
永禄八年
7月28日
7月28日
覚慶(後の義昭)、朝倉義景の調略により奈良一乗院を脱出し甲賀和田惟政の元へ逃れる「上杉古文書」
【渡辺】
50歳
1565
永禄八年
8月14日
8月14日
朝倉義景の重臣前波吉継、和田惟政へ義昭を越前に迎える意思を返書「和田家文書」
【久保】
50歳
1565
永禄八年
11月21日
11月21日
義昭、近江野洲郡矢島へ移る
【久保】
50歳
1565
永禄八年
12月 5日
12月5日
信長、藤孝へ義昭上洛に供奉する意思を表明「高橋義彦氏所蔵文書」
【愛一】
50歳
1566
永禄九年
51歳
1566
永禄九年
3月10日
3月10日
義昭、信長と斎藤龍興の和睦を調整し、上使として藤孝を派遣したことを上杉謙信へ報ずる「上杉古文書」
【渡辺】
51歳
1566
永禄九年
4月18日
4月18日
義昭、藤孝・和田惟政へ信長が上洛に加勢することを喜び、時期を確認するように命ず「和田家文書」
【愛一】
51歳
1566
永禄九年
浅井長政、高嶋郡の土豪饗庭氏を中心とする三坊(西林坊・定林坊・宝光坊)を味方に付けて幕府御家人朽木・田中氏の所領押領を図る「来迎寺文書」
【西島】
51歳
1566
永禄九年
4月18日
4月18日
長政、西林坊・定林坊・宝光坊の忠節を褒め知行を宛がう
【浅井】
51歳
1566
永禄九年
* 5月19日
*5月19日
光秀、曽我助乗へ高嶋で饗庭三坊の城下に放火し、敵城三か所落とした旨を義昭へ披露するように依頼「細川家文書」(元亀三年)
【藤田】
51歳
1566
永禄九年
6月11日
6月11日
義昭、和田惟政へ信長の上洛を促すように命ず「和田家文書」
【愛一】
51歳
1566
永禄九年
7月13日
7月13日
義昭、若狭の武田彦五郎へ信長が斎藤龍興と和睦して来月出陣する旨を伝える「武家手鑑」
【愛一】
51歳
1566
永禄九年
8月28日
8月28日
義昭、近江矢島にて山城・伊賀の武将へ信長と上洛する旨の書状を記す「米田家文書」
【村井】
51歳
1566
永禄九年
8月29日
8月29日
義昭、三好三人衆と六角氏に追われて矢島を退座し若狭へ逃れる
【多一】
51歳
1566
永禄九年
9月 8日
9月8日
義昭、近江矢島から若狭を経て越前敦賀へ移る「上杉家文書」
【愛一】
51歳
1566
永禄九年
10月20日
10月20日
義昭側近の米田求政、『針薬方』を書写。その紙背に「右一部、明智十兵衛尉高嶋田中城籠城時之時口伝也」という奥書のある沼田勘解由左衛門尉所持本を近江坂本で写したと書かれている
【村井】
51歳
1566
永禄九年
8月
8月
「永禄六年諸役人附」後半部の足軽衆の末尾に「明智」と書かれている
【番帳】
51歳
1568
永禄十一年
53歳
1568
永禄十一年
2月 8日
2月8日
足利義栄、将軍宣下を受ける
【晴右】
53歳
1568
永禄十一年
3月 6日
3月6日
石谷頼辰、中沢光俊・松田藤弘から足利義栄の奉書を得る
【石谷】
53歳
1568
永禄十一年
7月25日
7月25日
信長、義昭を美濃立政寺に迎える
【公記】
53歳
1568
永禄十一年
9月30日
9月30日
信長・義昭、芥川城へ入城
【言四】
53歳
1568
永禄十一年
10月14日
10月14日
義昭、京都本圀寺へ入り、信長と上洛を果たす
【言四】
53歳
1568
永禄十一年
10月18日
10月18日
義昭、将軍宣下を受ける
【言四】
53歳
1568
永禄十一年
11月15日
11月15日
光秀、聖護院宮・飛鳥井雅敦・藤孝・紹巴らと連歌に参加
【連目】
53歳
1568
永禄十一年
この頃 武田信玄重臣の高坂弾正、信玄が死ねば信長は家康を殺すと予測を述べる。馬場美濃守・内藤修理もそれに同意する
【甲上】
53歳
1569
永禄十二年
54歳
1569
永禄十二年
1月 4日
1月4日
光秀、本圀寺で三好勢らに攻められ細川藤賢・織田左近・野村越中らと立て籠もる
【公記】
54歳
1569
永禄十二年
1月 5日
1月5日
三好日向守らが本圀寺を取り囲んで攻め、幕府足軽衆以下二十四名討死と聞く
【言四】
54歳
1569
永禄十二年
1月14日
1月14日
信長、殿中御掟を定める
【信上】
54歳
1569
永禄十二年
* 3月22日
*3月22日
秀吉・長秀・中川重政・光秀、山城国大住庄三ヶ村の名主百姓中へ宛てられた信長朱印状を受け曇華院に於ける一色藤長の違乱停止などを通達「曇華院殿古文書」(永禄十三)
【織上】
54歳
1569
永禄十二年
* 4月10日
*4月10日
教王護国寺、光秀が上意で拝領したと主張する八幡宮領山城久世荘押領停止を幕府に申請「東寺百合文書」(永禄十三)
【藤田】
54歳
1569
永禄十二年
4月14日
4月14日
秀吉・光秀、山城賀茂荘中へ義昭下知により命令が出されたことを通達「賀茂郷文書」
【織上】
【藤田】
54歳
1569
永禄十二年
4月15日
4月15日
言継、信長の所に若狭・丹波・播磨の衆が多数押しかけ、訴訟で取乱した状態と知る
【言四】
54歳
1569
永禄十二年
4月16日
4月16日
秀吉・長秀・中川重政・光秀、立入宗継へ信長の糺明により宇津頼重へ違乱停止命令が出されたことを通達「立入宗継文書」
【織上】
【藤田】
54歳
1569
永禄十二年
4月16日
4月16日
長秀・秀吉・中川重政・光秀、丹波新庄他名主百姓中へ宇津頼重へ違乱停止命令が出されたことを通達「諸古文状」
【秀吉】
54歳
1569
永禄十二年
4月16日
4月16日
長秀・秀吉・中川重政・光秀、広野孫三郎へ永禄九年十二月十五日付の武田義統御判形に任せて所領安堵するという信長朱印を発給すること、益々武田元明への忠勤に励むことを通達「慶應義塾大学図書館所蔵文書」
【織上】
【藤田】
54歳
1569
永禄十二年
4月16日
4月16日
秀吉・長秀・中川重政・光秀、梶又左衛門へ永禄九年十二月十三日付の武田義統御判形に任せて所領安堵するという信長朱印を発給すること、益々武田元明への忠勤に励むことを通達「大阪青山歴史文学博物館所蔵文書」
【藤田】
54歳
1569
永禄十二年
4月16日
4月16日
秀吉・長秀・中川重政・光秀、治部助へ永禄九年十二月十三日付の武田義統御判形に任せて所領安堵するという信長朱印を発給すること、益々武田元明への忠勤に励むことを通達
【秀吉】
54歳
1569
永禄十二年
4月18日
4月18日
長秀・秀吉・中川重政・光秀、宇津頼重へ信長が違乱を禁止する旨を通達「立入宗継文書」
【織上】
【藤田】
54歳
1569
永禄十二年
4月21日
4月21日
信長、東寺領並びに境内を安堵「東寺百合文書」
【織上】
54歳
1569
永禄十二年
6月20日
6月20日
言継、朝山日乗を訪問し東寺路次について質疑したところ、度々申し遣わしているが光秀より返事が無いとのこと
【言四】
54歳
1569
永禄十二年
6月21日
6月21日
光秀、阿弥陀寺清玉上人へ義昭の下知を伝える「阿弥陀寺文書」
【大二】
【藤田】
54歳
1569
永禄十二年
6月29日
6月29日
岐阜にて明智市尉、言継を訪問し愛洲薬一包を貰う
【言四】
54歳
1569
永禄十二年
7月 6日
7月6日
言継、朝山日乗が美濃から上洛、信長から伊勢に千石の知行を与えられたことを聞く
【言四】
54歳
1569
永禄十二年
7月10日
7月10日
言継、岐阜にて明智市尉と行き合い言経への書状・伝言を頼む
【言四】
54歳
1569
永禄十二年
7月12日
7月12日
言継、一条内基公事の件で朝山日乗・光秀へ依頼
【言四】
54歳
1569
永禄十二年
7月13日
7月13日
言継、元幕府奉公衆で牢人している石谷頼辰に岐阜で会う。同じく牢人している杉原與七郎(上総介)が信長の命により近所で生害と聞く
【言四】
54歳
1569
永禄十二年
7月16日
7月16日
石谷頼辰、言継を訪れ話す
【言四】
54歳
1569
永禄十二年
7月21日
7月21日
言継、大舘治部少輔の訪問を受け、杉原上総介生害を義昭が喜んでいると聞く
【言四】
54歳
1569
永禄十二年
10月
10月
信長、伊勢北畠氏を降し、上洛して義昭へ報告。天下の儀を委ねられる
【公記】
54歳
1569
永禄十二年
11月20日
11月20日
顕如、光秀へ義昭御内書を拝見したが三好方へ合力・助力は一切していないと回答「顕如上人御書札案留」
【大三】
54歳
1569
永禄十二年
12月11日
12月11日
光秀、賀茂郷へ義昭下知を通達「澤文書」
【藤田】
54歳
1570
永禄十三年・元亀元年
55歳
1570
永禄十三年・元亀元年
1月23日
1月23日
信長、朝山日乗・光秀へ全五ヶ条の条々を提示、義昭もこれに同意す 「成簣堂文庫所蔵文書」
【織上】
55歳
1570
永禄十三年・元亀元年
1月26日
1月26日
言継、幕府奉公衆への年頭挨拶廻りで道なりに竹内治部少輔・三淵大和守(晴員)・同彌四郎(藤英)・一色式部少輔(藤長)曽我兵庫頭(助乗)の次に光秀を訪問したが岐阜へ下って留守とのことだった
【言四】
55歳
1570
永禄十三年・元亀元年
* 2月29日
*2月29日
光秀・貞勝・朝山日乗、近衛屋敷門外・山城愛宕郡御霊辻子町人へ義昭御座所近辺への寄宿停止を命ずる「陽明文庫」(永禄十二)(永禄十三年)
【織補】
【藤田】
【谷信】
55歳
1570
永禄十三年・元亀元年
2月30日
2月30日
信長、上洛。公家衆・奉公衆が近江、堅田・坂本・山中などへ迎えに行った。言継、信長と同行して光秀邸に赴く
【言四】
55歳
1570
永禄十三年・元亀元年
3月 6日
3月6日
信長、朝山日乗・光秀に公家衆知行分の調査を行わせる
【言四】
55歳
1570
永禄十三年・元亀元年
3月21日
3月21日
光秀、藤孝・紹巴らと連歌を詠む
【連目】
55歳
1570
永禄十三年・元亀元年
* 4月19日
*4月19日
藤孝・光秀・三淵藤英・上野秀政、飯川信堅・曽我助乗へ義昭御内書を受け取ったこと、この表の儀は油断なくつとめていること、上山城での軍事行動も問題ないことを披露願うよう伝える「古証文」(元亀三カ)(元亀三以前)
【織補】
【藤田】
55歳
1570
永禄十三年・元亀元年
4月20日
4月20日
光秀、藤孝・飯川信堅・曽我助乗へ若狭熊川へ到着したこと、信長の越境を迎えるために武田家老中がまかり出ていること、越前口も近江北郡も異状ないことなど義昭に披露願う旨を伝える「細川家文書」
【藤田】
55歳
1570
永禄十三年・元亀元年
4月20日
4月20日
信長、京都より越前へ向けて出陣
【公記】
55歳
1570
永禄十三年・元亀元年
4月25日
4月25日
信長軍、敦賀手筒山城を攻め落とす
【公記】
55歳
1570
永禄十三年・元亀元年
4月26日
4月26日
信長軍、金ケ崎城攻めを行い、朝倉軍退城して撤退
【公記】
55歳
1570
永禄十三年・元亀元年
4月30日
4月30日
信長、浅井長政謀反のため越前から朽木越えで京都へ戻る。その後、光秀・長秀を若狭へ派遣し、武藤上野(上野介友益)から人質を執らせる
【公記】
55歳
1570
永禄十三年・元亀元年
5月 4日
5月 4日
一色藤長、波多野秀信へ越前では秀吉・光秀・池田勝正他を金ケ崎城へ残して一両日中に上洛する旨を伝える「武家雲箋」
【大四】
55歳
1570
永禄十三年・元亀元年
5月 9日
5月9日
光秀、今日出陣の旨を曽我助乗へ告げて用事を依頼する「反町氏寄贈文書」
【藤田】
55歳
1570
永禄十三年・元亀元年
5月 9日
5月9日
信長、京都を出立し、浅井攻めのため近江の要所を固めつつ岐阜へ戻る
【公記】
55歳
1570
永禄十三年・元亀元年
6月19日
6月19日
信長、浅井氏本拠の近江小谷城攻めに出陣
【公記】
55歳
1570
永禄十三年・元亀元年
6月28日
6月28日
信長、姉川で朝倉・浅井連合軍に勝利する
【公記】
55歳
1570
永禄十三年・元亀元年
7月 4日
7月4日
信長、四・五騎、上下三十人ばかりを率いて上洛。直ちに義昭のもとへ参上。言継も参上。近江北郡の様態について雑談。次いで光秀邸へ行った
【言四】
55歳
1570
永禄十三年・元亀元年
8月20日
8月20日
信長、摂津野田・福島に陣を構える三好勢を討つために岐阜を出陣
【公記】
55歳
1570
永禄十三年・元亀元年
8月26日
8月26日
信長、天王寺に陣を張る
【公記】
55歳
1570
永禄十三年・元亀元年
9月 3日
9月3日
義昭、摂津中島の細川典厩(藤賢)の城に動座
【公記】
55歳
1570
永禄十三年・元亀元年
9月13日
9月13日
石山本願寺が挙兵し、翌日にかけて信長軍と交戦
【公記】
55歳
1570
永禄十三年・元亀元年
9月20日
9月20日
朝倉・浅井勢が醍醐・山科を焼き払い、京都近くへ迫る
【公記】
55歳
1570
永禄十三年・元亀元年
9月21日
9月21日
光秀・貞勝・勝家ら上洛。義昭御所の御番のためという
【言四】
55歳
1570
永禄十三年・元亀元年
9月23日
9月23日
信長・義昭、京都へ戻る
【公記】
55歳
1570
永禄十三年・元亀元年
9月25日
9月25日
信長、比叡山の麓を取り囲ませ、穴太には簗田広正・河尻秀隆・佐々成政・塚本小大膳・光秀らを置く
【公記】
55歳
1570
永禄十三年・元亀元年
9月26日
9月26日
言継、坂本での戦況に変化の無いこと、仰木へ出陣した高倉永相・一色藤長・上野秀政・三淵秋豪・光秀・岩蔵の山本らが帰陣したと聞く
【言四】
55歳
1570
永禄十三年・元亀元年
11月13日
11月13日
光秀、兼見邸を訪問し石風呂を所望。光秀は勝軍山城に在城しているという
【兼一】
55歳
1570
永禄十三年・元亀元年
11月21日
11月21日
吉田兼右、信長を勝軍山城に訪問し、光秀陣所に宿泊
【兼一】
55歳
1570
永禄十三年・元亀元年
11月23日
11月23日
兼見、光秀の所望により石風呂を焼く
【兼一】
55歳
1571
元亀二年
56歳
1571
元亀二年
1月 6日
1月6日
兼見、藤孝父子・松井康之・観世与左衛門の訪問を受ける。光秀の使者の赤塚・寺内・寺本・赤塚新右衛門尉の訪問を受ける
【兼一】
56歳
1571
元亀二年
1月21日
1月21日
吉田兼右、光秀へ見舞いのため近江志賀へ赴き今夜宿泊する
【兼一】
56歳
1571
元亀二年
2月19日
2月19日
兼見、光秀の依頼により人足二十五人を派遣
【兼一】
56歳
1571
元亀二年
5月27日
5月27日
幕府奉公衆の上野秀政、荒川與三が喧嘩し手負七八人出た
【言四】
56歳
1571
元亀二年
6月12日
6月12日
信長、藤孝へ幕臣間に喧嘩が発生した件で義昭御内書が発給されたが、その存分の通りに御使両人と光秀に申し渡すことを義昭に達するよう披露を依頼「横畠文書」
【年譜】
56歳
1571
元亀二年
6月16日
6月16日
信長、光秀へ三好為三(政勝)に摂津榎並を給与したが、伊丹親興の所領が近いため、これを交換させることを諒承させることを命ず「福地源一郎氏所蔵文書」
【織上】
【谷織】
56歳
1571
元亀二年
7月 3日
7月3日
清原国賢、千秋輝季を伴い志賀城に登山、晩に光秀が京都から帰城したが対面できず
【元亀】
56歳
1571
元亀二年
7月 4日
7月4日
光秀、昨晩京から志賀城(宇佐山城)に戻ったが、再び京へ向かうので、国賢・輝季は大手口で挨拶した
【元亀】
56歳
1571
元亀二年
7月 5日
7月5日
信長、上野秀政・光秀へ曇華院殿領山城大住庄の年貢等の件で不法行為をするのは外聞も如何であるから義昭御耳に入れて処置をするよう命ず「曇華院文書」
【織上】
56歳
1571
元亀二年
8月 2日
8月2日
光秀、近江観音寺へ十八日に信長出陣を伝える「芦浦観音寺文書」
【大六】
【藤田】
56歳
1571
元亀二年
8月14日
8月14日
信長、藤孝へ義昭から指示された条々を諒承し、その条書の頭書も熟考して光秀に指令したので、この旨を義昭へ披露願いたいと伝える「革島文書」
【織補】
【大七】
56歳
1571
元亀二年
8月28日
8月28日
言継、幕府軍が摂津で松永久秀・三好三人衆に大敗し和田惟政が討死したこと、幕府は大騒動と聞く
【言四】
56歳
1571
元亀二年
この頃 光秀、曽我助乗へ直ちに義昭から暇を下すよう取成しを依頼する「MAO美術館所蔵」
【大七】
【藤田】
56歳
1571
元亀二年
9月 2日
9月2日
光秀、和田秀純に加勢の礼を述べ、仰木(近江志賀郡)をなで斬りにする旨を告げる「和田家文書」
【藤田】
56歳
1571
元亀二年
9月12日
9月12日
信長、比叡山焼討。その後、光秀に志賀郡を与え、光秀は坂本を居城とする
【公記】
56歳
1571
元亀二年
9月24日
9月24日
光秀、早旦に摂津高槻へ千ばかりの軍勢を率いて出陣
【言四】
56歳
1571
元亀二年
9月30日
9月30日
光秀・島田秀満・塙直政・松田秀雄、阿彌陀寺へ公武御用途を賦課。十月十五日から二十日以前に二条妙顕寺へ運上すべきを命令「阿彌陀寺文書」
【織上】
【藤田】
56歳
1571
元亀二年
10月 8日
10月8日
松田秀雄が方々への段別之配符状の助筆を通達し、言継は二十五通、言経は十七通を調え送った。総数は五・六百通とのこと。その内容は九月三十日付の光秀・島田秀満・塙直政・松田秀雄連署状であった
【言四】
56歳
1571
元亀二年
10月10日
10月10日
稲葉一鉄、大徳寺に対し貞勝・光秀の大徳寺領違亂は信長の誤解であり安心するように伝える「大徳寺文書」
【大七】
56歳
1571
元亀二年
10月15日
10月15日
光秀・島田秀満・塙直政・松田秀雄、洛中立売組中へ禁裏賄用としての米を京中へ貸し付けることなどを命ず「京都上京文書」
【織上】
【藤田】
56歳
1571
元亀二年
10月
10月
光秀が廬山寺を延暦寺の末寺と称して違亂したのを止めさせるように女房奉書が発行された「廬山寺文書」
【大七】
56歳
1571
元亀二年
11月28日
11月28日
吉田兼右、毛利輝元からの下向依頼を受けて出立。藤孝・三淵藤英・光秀・兼見らが吉田兼右の老体を案じて諌止するも、吉田兼右は出立したので東寺辺りまで見送る
【兼一】
56歳
1571
元亀二年
12月10日
12月10日
勧修寺晴豊、信長へ光秀が押領した三門跡領を還付させるように綸旨として命じる
【言四】
56歳
1571
元亀二年
12月20日
12月20日
光秀、曽我助乗へ義昭への取成しの礼として下京の地子銭二十一貫二百文を進上する「細川家文書」
【大七】
【藤田】
56歳
1571
元亀二年
12月29日
12月29日
言継、村井貞勝の訪問を受ける。これから信長の所で藤孝・光秀らを呼んで茶湯を催すとのこと。言継、光秀が不便というので二百疋を送付した
【言四】
56歳
1572
元亀三年
57歳
1572
元亀三年
1月19日
1月19日
兼見、光秀からの年頭賀使を受ける
【兼一】
57歳
1572
元亀三年
1月21日
1月21日
兼見、光秀礼問のため坂本へ下向。百疋持参
【兼一】
57歳
1572
元亀三年
閏1月 6日
閏1月6日
兼見、光秀の坂本普請を見舞う
【兼一】
57歳
1572
元亀三年
閏1月26日
閏1月26日
萬里小路惟房、光秀へ法證寺の押領を止めさせるよう命じる「京都御所東山御文庫記録」
【大七】
57歳
1572
元亀三年
2月25日
2月25日
兼見、光秀を見舞うため坂本へ下向。その際、光秀より信長の上洛につき内報あり
【兼一】
57歳
1572
元亀三年
3月11日
3月11日
信長、志賀郡へ出陣。次いで和邇に移陣し、木戸砦・田中砦を攻略し、光秀・中川重政・長秀に守備させる。信長は翌日上洛し妙覚寺に宿泊する
【公記】
57歳
1572
元亀三年
3月12日
3月12日
兼見、妙覚寺に寄宿している信長を訪問。光秀が奏者を務める。事がうまく運んで満足した「
【兼一】
57歳
1572
元亀三年
4月 3日
4月3日
兼見、父兼右が信長を訪問し面会し信長は機嫌良く、暫し雑談したこと、金子一枚を賜わったこと、光秀が馳走の取り成しをしたことを知る
【兼一】
57歳
1572
元亀三年
4月 4日
4月4日
勝家・佐久間信盛・一益・光秀、河内の片岡弥太郎へ来たる十四日河内出陣が決定したため出陣を厳命「根岸文書」
【織上】
【藤田】
57歳
1572
元亀三年
4月16日
4月16日
佐久間信盛・勝家・光秀・藤孝・三淵藤英・上野秀政・池田勝正・伊丹親興・和田惟長ら二万余の軍勢、河内へ出陣。松永久秀の軍勢を騎西城に囲む
【兼一】
57歳
1572
元亀三年
5月19日
5月19日
信長、岐阜へ戻る
【公記】
57歳
1572
元亀三年
6月 5日
6月5日
吉田兼右、坂本の光秀を訪問
【兼一】
57歳
1572
元亀三年
7月24日
7月24日
林与次左衛門(員清)・光秀・猪飼野甚介(昇貞)・山岡玉林(景猶)ら、信長の命を受けて囲舟を建造し、海津浦・塩津浦・与語入海・江北の敵地を焼き払い、竹生島に舟を寄せ火矢・大筒・鉄炮を以て一揆勢を殲滅
【公記】
57歳
1572
元亀三年
9月15日
9月15日
光秀、上洛。徳雲軒全宗邸へ逗留
【兼一】
57歳
1572
元亀三年
9月17日
9月17日
兼見、勝龍寺城の藤孝へ書状を送付。蓮養坊(佐竹出羽守)の知行に関して光秀への口入を依頼
【兼一】
57歳
1572
元亀三年
9月
9月
信長、義昭へ異見十七箇条を発行「尋憲記」
【織上】
57歳
1572
元亀三年
10月24日
10月24日
兼見、藤孝・三淵秋豪を訪問。藤孝・紹巴が、蓮養坊の知行山門領について光秀へ口入することになっていたが、未だ実行していないと聞く
【兼一】
57歳
1572
元亀三年
? 11月14日
?11月14日
光秀、和田秀純へ今堅田での雑説について加勢を得た礼を述べる「和田家文書」(元亀三カ)
【藤田】
57歳
1572
元亀三年
11月15日
11月15日
磯谷新右衛門尉久次の息子、元服。光秀の命名で彦四郎と名乗り、山岡景佐が烏帽子親となる
【兼一】
57歳
1572
元亀三年
* 11月19日
*11月19日
勝家、佐竹出羽守へ光秀(十兵衛)との儀について返報「尊経閣文庫所蔵文書」(年未詳)
【岐補】
57歳
1572
元亀三年
12月11日
12月11日
兼見、光秀より美濃の親類が山王社敷地に新城を築いて以来、不快に悩み祈念を依頼された旨申入れあり。兼見、光秀へ鎮札・地鎮を送付する旨を返答
【兼一】
57歳
1572
元亀三年
12月12日
12月12日
兼見、光秀へ与える山王社敷地の安鎮札を整える
【兼一】
57歳
1572
元亀三年
* 12月20日
*12月20日
藤孝、佐竹出羽守へ光秀(十兵衛)との儀について述べる「尊経閣文庫所蔵文書」(年未詳)
【岐補】
57歳
1572
元亀三年
12月20日
12月20日
光秀、南禅寺正因庵へ、青蓮院境内にある田畠の権利を認める「宮柊二記念館所蔵文書」
【藤田】
57歳
1572
元亀三年
12月22日
12月22日
兼見、光秀を見舞うため坂本へ下向。城中の天主以下の作事を見物し驚く
【兼一】
57歳
1572
元亀三年
12月22日
12月22日
家康、三方が原で武田信玄に敗れる
【公記】
57歳
1573
元亀四年・天正元年
58歳
1573
元亀四年・天正元年
2月 6日
2月6日
山本対馬守(秀勝)・渡辺宮内少輔(昌)・磯谷久次、光秀に背く
【兼一】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
2月11日
2月11日
兼見、光秀へ見舞の使者を派遣
【兼一】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
2月14日
2月14日
光秀、河嶋(革嶋)刑部丞へ木戸表での手柄を褒める「革嶋家文書」
【大一四】
【藤田】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
2月19日
2月19日
義昭、某へ山本・渡辺・磯谷以下悉く離反して光秀は正体が無いと伝える「牧田茂兵衛氏所蔵文書」
【福二】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
2月20日
2月20日
信長、義昭の内命により近江今堅田城に籠城した光浄院暹慶(山岡景友)・磯貝(磯谷)新右衛門(久次)・渡辺党らを攻撃するために勝家・光秀・長秀・蜂屋頼隆を派遣
【公記】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
* 2月24日
*2月24日
光秀(十兵衛)、奥村源内へ一報次第渡海すべきこと、山城守は明日未明にやって来ることなどを伝える「個人蔵」(年未詳)
【藤田】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
2月24日
2月24日
勝家・光秀・長秀・蜂屋頼隆、勢田を渡海して義昭方の石山城へ攻撃を開始する
【公記】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
2月24日
2月24日
光秀、河嶋(革嶋)市介へ今堅田の戦況を知らせる「革嶋家文書」
【大一四】
【藤田】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
2月26日
2月26日
勝家・光秀・長秀・蜂屋頼隆、石山城を攻略、破却す
【公記】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
2月29日
2月29日
光秀、今堅田城の防衛線を突破。志賀郡の過半を制圧す
【公記】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
2月29日
2月29日
光秀、今堅田城を攻め落とす。千秋輝季が討死し父月斎が愁嘆す
【兼一】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
3月29日
3月29日
上洛する信長を藤孝・荒木村重が逢坂で出迎え、信長に仕えた
【公記】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
3月30日
3月30日
兼見、山城賀茂に布陣している光秀を訪問
【兼一】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
4月 3日
4月3日
信長、洛中洛外に放火を始める。翌日、二条新御所を包囲し上京を焼き払った
【公記】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
4月 6日
4月6日
信長、義昭と和睦し、翌日京都から撤収する
【公記】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
4月28日
4月28日
光秀、大津の舟大工三郎左衛門へ忠節を賞し、地子・諸役・万雑公事を免除す「渡文書」
【織上】
【藤田】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
5月24日
5月24日
光秀、西教寺へ討死した千秋刑部(輝季)・井上勝介・藤田傳七ら十八名の命日につき寄進米を奉納「西教寺文書」
【大一四】
【藤田】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
* 6月17日
*6月17日
光秀、河市(革嶋市介)へ返書「革嶋家文書」(年未詳)
【藤田】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
6月28日
6月28日
兼見、光秀を坂本に訪問。光秀、天主の下立小屋敷に於いて連歌を興行。里村昌叱が同座
【兼一】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
7月 3日
7月3日
信長の建造させた大船が完成し、その大きさに上下の者みな仰天した
【公記】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
7月 5日
7月5日
義昭、槙島城に立て籠もり、信長へ敵対
【公記】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
7月 6日
7月6日
信長、大船で琵琶湖を渡り坂本に陣宿。翌日、妙覚寺に陣を据え二条新御所を制圧
【公記】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
7月14日
7月14日
勝家・秀吉・一益・長秀・松井友閑・前波七郎兵衛尉、兼見を訪問し光秀が信長へ吉田山に居館を構えることを進言した旨を伝達。信長は勝家らに吉田山の検分を命令するが築城には適さないことが判明、兼見は無事を悦ぶ
【兼一】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
7月16日
7月16日
信長、義昭の立て籠もる槇島城攻めを命ず。光秀も参陣する。翌日槙島城は陥落し、義昭は降伏し河内若江城へ送り届けられる
【公記】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
7月21日
7月21日
信長、京都へ凱旋。その後、光秀、信長の命令により山本対馬守の籠もる静原山城を攻撃。信長、村井貞勝に天下所司代命じる
【公記】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
7月23日
7月23日
光秀、山本対馬守を攻めるため手勢を率いて吉田神社に宿泊
【兼一】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
7月24日
7月24日
光秀、山本対馬守館攻撃のため出陣
【兼一】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
7月26日
7月26日
信長、近江高嶋へ大船で出陣。湖と陸とから木戸城・田中城を攻めさせたところ降伏して退散。両城を光秀に与える
【公記】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
8月12日
8月12日
信長、浅井氏の援軍として近江に出陣していた朝倉義景軍に攻撃を開始。翌日夜義景軍は越前へ撤退を開始する
【公記】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
8月18日
8月18日
朝倉義景、一乗谷を退く。その後、切腹。二十四日に首が信長のもとに届く
【公記】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
8月22日
8月22日
光秀、服部七兵衛尉へ竹の身上について尽力してくれた恩賞として百石をあてがう「寸金雑録」
【福二】
【藤田】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
8月27日
8月27日
信長、浅井長政を攻め、翌日滅ぼす
【公記】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
8月28日
8月28日
光秀・秀吉・一益、越前織田大明神領の知行安堵を通達「辻川家文書」
【福六】
【織補】
【藤田】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
9月 5日
9月5日
光秀・秀吉・一益、橘屋三郎五郎へ諸役以下の信長御朱印の添状を発す「橘栄一郎家文書」
【福三】
【藤田】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
9月 6日
9月6日
光秀・一益・秀吉、安居三河守へ発給された本知安堵の信長御朱印の添状を発す「横尾勇之助氏所蔵文書」
【織上】
【藤田】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
9月 7日
9月7日
越前の前波長俊、光秀・一益へ宝慶寺の件での取成しを依頼「宝慶寺文書」
【福井七】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
9月 9日
9月9日
光秀・秀吉・一益、宝慶寺へ知行安堵を通達「宝慶寺文書」
【福井七】
【藤田】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
9月18日
9月18日
一益・秀吉・光秀、越前徳山次郎右衛門へ扶持目録を与える「徳山氏系図」
【秀吉】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
9月19日
9月19日
光秀・秀吉・一益、越前三国湊瀧谷寺へ知行安堵を通達「瀧谷寺文書」
【福四】
【藤田】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
9月20日
9月20日
光秀・一益、越前北庄軽物商人中へ信長が橘屋三郎右衛門尉を軽物座長に指名したので承知すべきこと、二十三日以前に橘屋へ連絡することを通達「橘栄一郎家文書」
【福三】
【織上】
【藤田】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
9月25日
9月25日
光秀、野村七兵衛尉へ戦傷の見舞いを送る「野村家文書」
【福二】
【藤田】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
10月 1日
10月1日
三沢少兵衛秀次、越前称名寺佐々木蔵人へ信長の朱印状を発行して本知安堵する旨を通達「称名寺文書」
【福井七】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
10月 8日
10月8日
北伊勢出陣中の信長、東別所へ陣を進める。これによって近隣の敵が次々人質を出して信長に従う。その後、京都静原山に立て籠もった山本対馬守を光秀が計略で生害させ、首を東別所まで持ってきて進上。信長は二十五日に北伊勢を撤収
【公記】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
10月 9日
10月9日
光秀、河市(革嶋市介)へ昨日の合力の礼を伝える「革嶋家文書」
【藤田】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
11月22日
11月22日
光秀、山城実相院門跡領の安堵を通達「実相院文書」
【大一八】
【藤田】
58歳
1573
元亀四年・天正元年
12月 4日
12月4日
光秀、和田秀純へ本日見廻るつもりであったが信長の用事で京を離れる旨を伝える「和田家文書」
【藤田】
58歳
1574
天正二年
59歳
1574
天正二年
1月 1日
1月1日
信長、朝倉義景・浅井久政・長政の頭蓋骨の薄濃を肴に馬廻衆と酒宴を行う
【公記】
59歳
1574
天正二年
1月11日
1月11日
多聞院主英俊、多聞山城の留守番替えに光秀が来ると聞く
【多二】
59歳
1574
天正二年
1月15日
1月15日
大乗院尋憲、光秀へ音信する「尋憲記」
【大一九】
59歳
1574
天正二年
1月19日
1月19日
越前一向一揆蜂起。信長、秀吉・長秀らを引き連れて出陣
【公記】
59歳
1574
天正二年
1月24日
1月24日
光秀、多聞山城にて紹巴らと連歌会を催す「天理図書館所蔵連歌集」
【大二六】
【連目】
59歳
1574
天正二年
1月26日
1月26日
光秀、多聞山城にて紹巴らと連歌を詠む「大阪天満宮所蔵連歌集」
【大二六】
【連目】
59歳
1574
天正二年
1月27日
1月27日
英俊、光秀へ川西佐馬を礼に行かせる
【多二】
59歳
1574
天正二年
1月27日
1月27日
武田勝頼、美濃岩村へ出陣し明智城を包囲
【公記】
59歳
1574
天正二年
1月 晦日
1月晦日
光秀、石原勘左衛門を使いとして尋憲に法性五郎の長刀の借用を申し入れる「尋憲記」
【大一九】
59歳
1574
天正二年
2月 2日
2月2日
光秀、進藤兵庫助へ大乗院門跡の長刀を拝見し、大事な道具なので直ちに返上する旨を石原監物入道を使いとして通知「尋憲記」
【藤田】
59歳
1574
天正二年
2月 4日
2月4日
光秀、大和善法寺へ借銭の件で裁定を下す
【岐四】
【藤田】
59歳
1574
天正二年
2月 5日
2月5日
信長・信忠父子、明智城救援に出陣
【公記】
59歳
1574
天正二年
2月18日
2月18日
光秀、藤孝へ信長軍の状況について報告する「尋憲記」
【大二一】
59歳
1574
天正二年
2月24日
2月24日
信長・信忠、岐阜へ帰城。明智城は落城
【公記】
59歳
1574
天正二年
3月27日
3月27日
信長、多聞山城へ入る。翌日、東大寺から蘭奢待を取り寄せて切り取る
【公記】
59歳
1574
天正二年
4月 3日
4月3日
石山本願寺挙兵
【公記】
59歳
1574
天正二年
* 4月25日
*4月25日
光秀・秀吉・藤孝、勝家へ多聞山城の普請の労をねぎらう「個人蔵」(天正二カ三)
【藤田】
59歳
1574
天正二年
* 5月 4日
*5月4日
光秀、山城慈照寺光源院へ造営・勤行に励むよう伝える。なお原平内に伝えさせる「光源院文書」(元亀元~天正二)
【藤田】
59歳
1574
天正二年
7月 4日
7月4日
光秀、藤孝・紹巴らと連歌を詠む「松井文書」
【大二一】
【連目】
59歳
1574
天正二年
7月 6日
7月6日
三淵藤英・秋豪父子、坂本城にて切腹「年代記抄節」
【大二一】
59歳
1574
天正二年
? 7月 7日
?7月7日
光秀、佐竹秀慶へ帰参に対して領地を与えたことを通達「武家事紀」(天正二カ)
【愛一】
【藤田】
59歳
1574
天正二年
7月 8日
7月8日
光秀、伊藤宗十郎へ坂本での商買役については同所の舟奉行・町人中が管掌することを伝える「思文閣墨蹟資料」
【藤田】
59歳
1574
天正二年
7月13日
7月13日
信長父子、伊勢河内長島一向一揆攻めに出陣
【公記】
59歳
1574
天正二年
7月29日
7月29日
信長、光秀へ南方の戦況報告は詳細で眼前で見る心地がすること、光秀陣所は鳥羽近辺に設営し、油断無く守備しているとの報告を入手していること、長島一向一揆攻めは近日終結させて帰陣し、上洛する予定であることなどを通知「細川家文書」
【愛一】
【織上】
【細川】
59歳
1574
天正二年
8月 5日
8月5日
信長、藤孝へ一揆との戦況について大坂を根切の覚悟で臨むべきこと、詳細は光秀と相談するべきこと、長島城陥落後は直ちに上洛し石山本願寺を平定する予定であることなどを通知「細川家文書」
【愛一】
【細川】
59歳
1574
天正二年
8月13日
8月13日
信長、近江福正寺へ道場境内四壁の件は地子銭・諸役等を免許する旨、詳細は秀吉・光秀より伝達させると通達「福正寺文書」
【大二四】
59歳
1574
天正二年
8月17日
8月17日
信長、藤孝へ長島一向一揆の降伏を認めないこと、光秀と相談して油断無く遂行すべきことなどを伝える「細川家文書」
【愛一】
【細川】
59歳
1574
天正二年
9月18日
9月18日
佐久間信盛・塙直政・順慶・光秀・藤孝、河内へ進軍し飯盛城下に於いて三好軍・一向一揆を撃破「細川家文書」
【細川】
59歳
1574
天正二年
9月25日
9月25日
光秀、佐竹秀慶へ武功を褒め疵の養生に努めるように労う「武家事紀」
【藤田】
59歳
1574
天正二年
9月29日
9月29日
信長、長島一向一揆を殲滅し、岐阜へ帰陣
【公記】
59歳
1574
天正二年
* 10月14日
*10月14日
光秀・貞勝、無明庵のことは退蔵院住持亀年の譲状に任せる旨を通達「退蔵院文書」(年未詳)
【藤田】
【谷信】
59歳
1574
天正二年
10月20日
10月20日
光秀・塙直政・蜂屋頼隆・秀吉・長秀・柴田勝政・藤孝・佐久間信盛、根来寺へ昨日着陣し明日河内高屋表へ押し詰めるので参陣するように要請「大阪城天守閣所蔵文書」
【藤田】
59歳
1574
天正二年
10月29日
10月29日
長秀・塙直政・蜂屋頼隆・秀吉・柴田勝政・光秀・佐久間信盛・藤孝、河内誉田八幡へ禁制を発行「大阪城天守閣所蔵文書」
【藤田】
59歳
1574
天正二年
11月14日
11月14日
光秀、淡路入道へ使者を送り綿帽子などを送ってくれたことの礼を返信「光源院文書」
【藤田】
59歳
1574
天正二年
* 11月14日
*11月14日
光秀・貞勝、上賀茂惣中へ寺社領安堵の旨を伝える「賀茂別雷神社文書」(年未詳)
【織補】
【藤田】
59歳
1574
天正二年
閏11月 2日
閏11月2日
光秀、坂本にて藤孝・紹巴・宗及・自然丸らと連歌会を催す「白峯寺文書」
【大二六】
【連目】
59歳
1574
天正二年
* 12月16日
*12月16日
貞勝・光秀、山城天龍寺妙智院の策彦東堂(周良)へ年貢などの直納を承認し、小作権利者へその旨を伝えるように命ず「妙智院文書」(天正元年)
【織上】
【藤田】
【谷信】
59歳
1574
天正二年
* 12月16日
*12月16日
貞勝・光秀、山城西院の小作中へ土地台帳の通り妙智院策彦和尚に年貢などを納入することなどを命ず「妙智院文書」(天正元年)
【織上】
【藤田】
【谷信】
59歳
1574
天正二年
* 12月20日
*12月20日
貞勝・光秀、百姓中へ大徳寺領の納税を従来通りに行うべき旨を通達「真珠庵文書」(年未詳)
【藤田】
59歳
1574
天正二年
12月21日
12月21日
光秀・貞勝、山城賀茂社へ六郷などの所領を保証する「賀茂別雷神社文書」
【織上】
【藤田】
【谷信】
59歳
1574
天正二年
* 12月26日
*12月26日
女房奉書にて山城大原來迎院・勝林院の領地を光秀・貞勝に安堵せしむ「來迎院文書」(天正元年)
【大一九】
59歳
1574
天正二年
* 12月29日
*12月29日
貞勝・光秀、西九条名主百姓中へ若宮八幡の年貢地子銭について通達「若宮八幡宮文書」(天正元年)
【藤田】
59歳
1575
天正三年
60歳
1575
天正三年
1月10日
1月10日
信長、光秀・貞勝へ洛中洛外の寺社本所領の管理を徹底するように命ず「壬生文書」
【大二八】
60歳
1575
天正三年
2月 6日
2月6日
信長、貞勝・光秀・矢部家定を使いとして禁裏へ鶴十羽を献上「御湯殿上日記」
【大二八】
60歳
1575
天正三年
2月13日
2月13日
貞勝・光秀、山城清凉寺へ全三ヶ条の禁制を下す「清凉寺文書」
【織下】
【藤田】
60歳
1575
天正三年
* 3月28日
*3月28日
貞勝・光秀、山城法金剛院へ洞院門前屋敷に付随する田地・屋敷・畠などは自由に処置してよい旨を命ず「法金剛院文書」(永禄十二)(年未詳)(天正二年)
【織補】
【藤田】
【谷信】
60歳
1575
天正三年
4月 4日
4月4日
光秀、二千余の軍勢を率い河内へ出陣
【兼一】
60歳
1575
天正三年
4月14日
4月14日
信長、陣中見舞を送付してきた青蓮院尊朝法親王へ大坂陣中より礼状を発す。詳細は光秀に伝達させる「大賀文書」
【織下】
60歳
1575
天正三年
4月21日
4月21日
信長、河内を平定して京都へ帰陣。二十七日、坂本から光秀の舟で佐和山へ渡海しようとしたが強風のため陸路で佐和山へ至る
【公記】
60歳
1575
天正三年
5月 7日
5月7日
光秀、紹巴らと連歌を詠む
【奥田】
60歳
1575
天正三年
* 5月14日
*5月14日
武井夕庵・村井民部丞貞勝・光秀、山城天龍寺妙智院の策彦周良へ北山等持院の件について出頭すべきことを通達「天龍寺文書」(永禄十二カ)(年未詳)
【織補】
【藤田】
60歳
1575
天正三年
5月14日
5月14日
光秀、坂本にて島津家久・紹巴らを饗す「家久君上京日記」
【奥田】
60歳
1575
天正三年
5月15日
5月15日
光秀、坂本にて家久・紹巴らを饗し連歌を詠む「家久君上京日記」
【奥田】
60歳
1575
天正三年
5月21日
5月21日
信長、長篠の戦いで武田勝頼に大勝
【公記】
60歳
1575
天正三年
* 5月23日
*5月23日
光秀・貞勝、山城賀茂社中へ京中で定めた斗米によって税を受け取るように指示する「賀茂別雷神社文書」(永禄十二年~天正三年)(年未詳)
【織下】
【藤田】
60歳
1575
天正三年
5月24日
5月24日
兼見、坂本の光秀を訪問。長篠の戦いについての信長から光秀への書状を披見する
【兼一】
60歳
1575
天正三年
6月 7日
6月7日
信長、川勝大膳亮(継氏)へ内藤・宇津を討伐するために光秀を派遣するので協力を求める「記録御用所本古文書」
【亀岡】
【鈴木】
60歳
1575
天正三年
6月10日
6月10日
信長、小畠左馬助へ光秀を派遣した際に丹波の案内者となったことを賞し、あわせて丹後への出兵を命じる「小畠文書」
【亀岡】
【鈴木】
60歳
1575
天正三年
6月17日
6月17日
信長、小畠左馬助へ内藤・宇津を討伐するため光秀を派遣するので協力するよう命じる「小畠文書」
【織下】
【亀岡】
60歳
1575
天正三年
6月19日
6月19日
光秀、小畠左馬進へ知行を安堵し、忠節に励むように伝える「小畠文書」
【織下】
【藤田】
60歳
1575
天正三年
* 6月21日
*6月21日
光秀・貞勝、山城山崎惣中へ道路拡張について通達「離宮八幡宮文書」(年未詳)(永禄十三年)
【織補】
【藤田】
【谷信】
60歳
1575
天正三年
7月 3日
7月3日
信長、詔勅で官位を賜ったが辞退。代わりに家老衆に名字・官位を授ける。松井友閑は宮内卿法印、武井夕庵は二位法印、光秀は惟任日向守、簗田左衛門は別喜右近、長秀は惟住とする
【公記】
60歳
1575
天正三年
7月 7日
7月7日
原田直政・貞勝・光秀、壬生朝芳へ山城野中郷の畠についての決定を伝える「宮内庁書陵部所蔵口絵」
【織補】
【藤田】
【谷信】
60歳
1575
天正三年
7月14日
7月14日
光秀、高倉永相へ知行分の竹田半分と地子銭のことについて通達「高倉家旧蔵文書」
【織補】
【藤田】
60歳
1575
天正三年
* 7月24日
*7月24日
光秀、小畠左馬進へ宇津氏討伐のため普請道具を用意し人数を動員して着陣するよう命ず「小畠文書」(天正七年)(天正三年)
【亀岡】
【藤田】
60歳
1575
天正三年
8月 6日
8月6日
信長、北条河内守へ大坂方面の戦況報告を諒承。詳細は光秀に伝達させる
【織下】
60歳
1575
天正三年
8月12日
8月12日
信長、越前へ出陣
【公記】
60歳
1575
天正三年
8月14日
8月14日
越前出陣した信長への勅使として晴豊が越前へ下向。兼見が同行し坂本で光秀と面会し高嶋新城で宿泊
【兼一】
60歳
1575
天正三年
8月15日
8月15日
光秀ら三万余騎、越前へ乱入。光秀・秀吉、二、三百討取り、円強寺・若林長門父子の城へ乗り込む。夜になり光秀・秀吉、府中の町で加賀・越前の一揆二千余切り捨てる
【公記】
60歳
1575
天正三年
8月15日
8月15日
秀吉、去年木芽城を奪取された遺恨があるため光秀と相談し、この夜中に越前府中へ進撃。二手に分かれて敵兵を待ち伏せする「泉文書」
【年譜】
60歳
1575
天正三年
8月16日
8月16日
信長、越前木ノ芽峠へ出馬。光秀を浜手より府中へ向かわせる。信長は敵兵が府中へ流入するのを防ぐため待機。光秀・秀吉が府中へ侵入し敵兵を掃討し、越前は一国平均に属し、府中は死骸ばかりにて一円あき所ない状態となる「泉文書」
【年譜】
60歳
1575
天正三年
8月21日
8月21日
光秀、小畠左馬進へ越前豊原より戦傷を心配する書状を送る「小畠文書」
【亀岡】
【藤田】
60歳
1575
天正三年
8月23日
8月23日
稲葉一鉄父子・光秀・秀吉・藤孝・簗田広正、加賀まで討ち入る
【公記】
60歳
1575
天正三年
9月 2日
9月2日
信長、越前国分け。光秀に直ちに丹後へ出陣を命ず
【公記】
60歳
1575
天正三年
9月16日
9月16日
光秀、越前まで文を寄こした小畠左馬進へ返礼と戦傷の見舞いを送る「小畠文書」
【亀岡】
【藤田】
60歳
1575
天正三年
9月21日
9月21日
光秀、愛宕山威徳院へ丹後出陣にあたり祈念の礼に銀子五枚奉納を告げる「思文閣墨蹟資料」
【藤田】
60歳
1575
天正三年
9月25日
9月25日
光秀、愛宕山威徳院へ越前平定し坂本へ帰陣した旨と綿十把を奉納する旨を伝える「威徳院文書」
【織補】
【藤田】
60歳
1575
天正三年
9月27日
9月27日
光秀、大和の河瀬宗綱と今井郷惣中へ今井宗久の斡旋により武装解除を承認。また詳細は藤田伝五より伝達させる「称念寺文書」
【年譜】
60歳
1575
天正三年
? 10月 1日
?10月1日
信長、丹波の片岡藤五郎へ荻野直正討伐に派遣する光秀に協力するように命ず「新免文書」(天正三カ)
【亀岡】
【鈴木】
60歳
1575
天正三年
10月 2日
10月2日
光秀、近江小松庄へ鵜川で稲を刈って光秀に年貢を納入するように命ず「伊藤晋氏所蔵文書」
【藤田】
60歳
1575
天正三年
? 10月 4日
?10月4日
光秀、紹巴へ聖護院道澄の所に礼に参上したいが丹波へ至急行かねばならないので取成しを依頼「高徳院文書」(天正三カ)
【亀岡】
60歳
1575
天正三年
10月 8日
10月8日
信長、播磨・丹後方面より戦況を注進してきた藤孝へ宇喜多直家の端城を奪取し浦上宗景に守備させたこと、荒木村重が帰陣したこと、丹波・丹後平定については光秀からも詳細な報告がなされ喜悦の至りであること、十月十日の上洛予定を通知「細川家文書」
【細川】
【亀岡】
60歳
1575
天正三年
10月 9日
10月9日
信長、藤孝へ丹波方面の件で重ねて詳細な報告を賞し、先ほども光秀より注進があり藤孝からの報告通りであったこと、明日上洛する予定であることを通知「細川家文書」
【細川】
【亀岡】
60歳
1575
天正三年
11月21日
11月21日
光秀、小松庄へ滋賀郡・高嶋郡の境を定めたので違乱があれば注進するように命じる「伊藤晋氏所蔵文書」
【藤田】
60歳
1575
天正三年
11月24日
11月24日
八木豊信、吉川元春へ光秀が黒井城に荻野直正を包囲し、丹波衆の過半が光秀に一味していると報ず「吉川家文書」
【亀岡】
60歳
1575
天正三年
12月 2日
12月2日
光秀、在々所々の百姓へ徳政令を発行する「森守氏所蔵文書」
【亀岡】
【藤田】
60歳
1575
天正三年
12月27日
12月27日
掃部助(並河)、曾根六郎左衛門へ今度の徳政は光秀の花押があるので、もし違乱する者あれば連れてくるように命ず「思文閣墨蹟資料」
【亀岡】
60歳
1576
天正四年
61歳
1576
天正四年
1月15日
1月15日
言継、丹波で光秀が悉く敗北と聞く
【言四】
61歳
1576
天正四年
1月15日
1月15日
兼見、荻野直正の在城する丹波黒井城を昨冬以来光秀が取り詰めて在陣していたが波多野秀治が寝返って光秀敗戦と聞く
【兼一】
61歳
1576
天正四年
1月18日
1月18日
信澄、光秀赴援のために近江高嶋郡より上洛
【兼一】
61歳
1576
天正四年
? 1月18日
?1月18日
光秀、小畠左馬進へ指示を与える「小畠文書」(天正四カ)(年未詳)
【亀岡】
【藤田】
61歳
1576
天正四年
1月21日
1月21日
光秀、丹波より坂本へ帰還。兼見は白川において光秀を見舞う
【兼一】
61歳
1576
天正四年
1月28日
1月28日
英俊、光秀が丹波で仕損じて坂本へ順次退却したこと、また大坂でも敗北したと聞く
【多二】
61歳
1576
天正四年
1月29日
1月29日
信長、丹波の川勝兵衛大輔へ不利な状況下での忠節を賞し、近日中に上洛し逆徒等を討伐する旨を通達。詳細は光秀に伝達させる「記録御用所本古文書」
【亀岡】
【鈴木】
61歳
1576
天正四年
2月 2日
2月2日
光秀、荒木藤内へ丹波黒井城での手柄に対して感状を発行し高山次右衛門に伝えさせる「泉正寺文書」
【藤田】
61歳
1576
天正四年
2月16日
2月16日
兼見、坂本へ下向し光秀を訪問
【兼一】
61歳
1576
天正四年
2月18日
2月18日
光秀、丹波に下向。兼見、音信を携えた使者を派遣
【兼一】
61歳
1576
天正四年
2月20日
2月20日
光秀、曾根村(丹波印南郡)惣中へ氷上(丹波氷上郡)表での手柄を賞し、諸役などを免除する(三沢惣兵衛秀儀の添状あり)「思文閣墨蹟資料」
【亀岡】
【鈴木】
61歳
1576
天正四年
3月28日
3月28日
言経、信長が近々報恩寺に二条晴良を転居させるため光秀に普請奉行を申付けたと聞く
【言経】
61歳
1576
天正四年
? 4月13日
?4月13日
信長、矢野弥三郎へ知行を安堵するので光秀と相談して忠節に励むよう命じる「展観入札目録」(未詳)(天正四カ)
【亀岡】
【鈴木】
61歳
1576
天正四年
? 4月14日
?4月14日
光秀、矢野弥三郎へ信長朱印状の添状を発行「思文閣墨蹟資料」(未詳)(天正四カ)
【亀岡】
【鈴木】
61歳
1576
天正四年
4月14日
4月14日
信長、荒木村重・藤孝・光秀・原田直政に摂津大坂の石山本願寺攻めを命ず。光秀・藤孝、大坂の東南に砦を構えるように命じられる
【公記】
61歳
1576
天正四年
4月14日
4月14日
光秀、河内へ出陣。山城吉田郷付近で兼見は光秀を見送る
【兼一】
61歳
1576
天正四年
5月 3日
5月3日
原田直政ら本願寺勢に攻められ討死。佐久間信栄・光秀ら天王寺に立て籠もり包囲される
【公記】
61歳
1576
天正四年
5月 4日
5月4日
兼見、織田軍と本願寺勢の天王寺表における戦闘で原田直政が戦死した旨、光秀・荒木村重・三好康長が籠城するも苦戦を強いられており、明日信長が出馬するので、分国衆は残らず上洛するという報に接す
【兼一】
61歳
1576
天正四年
5月 7日
5月7日
信長、三千の兵力で本願寺勢一万五千に勝利する
【公記】
61歳
1576
天正四年
5月10日
5月10日
英俊、和泉が完全に順慶の領地となったことを信長の両使光秀・万見重元より通達を受けた旨を森弥四郎の書状で知る
【多二】
61歳
1576
天正四年
5月13日
5月13日
兼見、村井貞成と共に本陣所へ祗候。献上物は堀秀政が披露。次いで細川昭元・光秀・藤孝を訪問する
【兼一】
61歳
1576
天正四年
5月23日
5月23日
光秀、摂津の陣中に病み帰京。曲直瀬道三の治療を受ける
【兼一】
61歳
1576
天正四年
5月24日
5月24日
兼見、光秀室より光秀の病治癒の祈念を依頼される
【兼一】
61歳
1576
天正四年
5月26日
5月26日
信長、光秀への病状見舞に使者を派遣
【兼一】
61歳
1576
天正四年
5月 晦日
5月晦日
光秀が煩ったというので順慶より坊舎衆七人へ祈祷が依頼された
【多二】
61歳
1576
天正四年
6月12日
6月12日
言継、光秀が久しく風痢を煩い明暁死去と聞く
【言四】
61歳
1576
天正四年
* 6月13日
*6月13日
光秀、小畠左馬進へ所労見舞いの礼を返す「上田定緒氏所蔵文書」(年未詳)
【藤田】
61歳
1576
天正四年
7月14日
7月14日
兼見、坂本に光秀の病を見舞う
【兼一】
61歳
1576
天正四年
10月10日
10月10日
兼見、光秀室の所労快復の祈念を依頼される
【兼一】
61歳
1576
天正四年
10月24日
10月24日
光秀室、快方に向かう。兼見へ先日の祈念の礼が届く
【兼一】
61歳
1576
天正四年
10月27日
10月27日
兼見、在京中の光秀を訪問
【兼一】
61歳
1576
天正四年
11月 2日
11月2日
兼見、光秀室の病状を見舞い、光秀と面会
【兼一】
61歳
1576
天正四年
11月 3日
11月3日
光秀、津田備中守・津田利右衛門尉へ来年二月に大坂へ信長が出陣する旨を伝える「個人蔵」
【藤田】
61歳
1576
天正四年
11月 7日
11月7日
光秀正室煕子、坂本城で死去「西教寺古文書」
【西教】
61歳
1576
天正四年
? 12月 1日
?12月1日
信長、光秀へ桐野河内方の伊勢貞知分知行を細川信良女房衆に直務させるので取り計らうよう命じる「秋田藩採集文書」(天正四カ)
【亀岡】
【鈴木】
61歳
1576
天正四年
12月14日
12月14日
石谷頼辰、先年預け置いた茶臼を取りに言継を訪問
【言六】
61歳
1577
天正五年
62歳
1577
天正五年
2月10日
2月10日
信長、藤孝へ河内方面への出陣を命じ、光秀・荒木村重とも相談すべしと命ず「細川家文書」
【細川】
62歳
1577
天正五年
2月22日
2月22日
信長、雑賀攻め開始。光秀、藤孝と中筋道通りより討入る
【公記】
62歳
1577
天正五年
3月 1日
3月1日
信長、滝川・光秀・蜂屋・藤孝・順慶・若狭衆に鈴木孫一の城を攻めさせる
【公記】
62歳
1577
天正五年
3月15日
3月15日
信長、紀伊在陣中の藤孝・長秀・一益・光秀へ秀吉が帰還して戦況報告を受けたことなどを通達「細川家文書」
【織下】
【細川】
62歳
1577
天正五年
3月21日
3月21日
雑賀衆降伏を受けて、信長、佐久間信盛・光秀・長秀・秀吉・荒木村重を残し撤収
【公記】
62歳
1577
天正五年
4月 6日
4月6日
光秀、藤孝・紹巴・宗及・行祐らと連歌を詠む
【連目】
62歳
1577
天正五年
? 5月 4日
?5月4日
越前の堀江藤秀、瀧谷寺へ播磨は秀吉が拝領し近日出陣、また光秀から越前の面々へ飛脚が到来し信長が中国辺へ出陣するなどと伝える「瀧谷寺文書」(天正五カ)
【福四】
62歳
1577
天正五年
6月29日
6月29日
宗及、堺の商人・茶人若狭屋宗啓、明智少兵衛を招いて茶会
【自会】
62歳
1577
天正五年
8月 1日
8月1日
万見重元、和泉の淡輪大和守・淡輪徹斎へ光秀へ合流すべきことなどを通達「淡輪文書」
【年譜】
62歳
1577
天正五年
8月17日
8月17日
松永久秀、謀反を起し、大和信貴山城へ立て籠もる
【公記】
62歳
1577
天正五年
9月14日
9月14日
光秀、上洛し連歌を張行。兼見、光秀を訪問
【兼一】
62歳
1577
天正五年
9月15日
9月15日
兼見、在京中の光秀を施薬院全宗の宿所に訪問す
【兼一】
62歳
1577
天正五年
9月27日
9月27日
光秀、来迎寺へ寄進する「聖衆来迎寺文書」
【藤田】
62歳
1577
天正五年
10月 1日
10月1日
藤孝・光秀・順慶・山城衆、松永方の片岡城を攻め、藤孝の子与一郎(忠興)・頓五郎、光秀が活躍し信長より感状を賜る
【公記】
62歳
1577
天正五年
10月 1日
10月1日
兼見、松永久秀属城の大和片岡城が落城したこと、織田信忠が出陣し、光秀・藤孝の軍勢で死傷者が出たと聞く
【兼一】
62歳
1577
天正五年
10月 1日
10月1日
英俊、信貴山城への攻撃のために明智軍が行動を開始したこと、信忠も出撃すること、片岡城を攻略し、七〇人計りが無残討死したが、明智軍も大勢損ったことを聞く
【多二】
62歳
1577
天正五年
10月10日
10月10日
信忠・佐久間信盛・秀吉・光秀・長秀、信貴山城に攻め上がり松永久秀を自害させる
【公記】
62歳
1577
天正五年
10月20日
10月20日
信長、順慶へ光秀を丹波へ派遣することを通達。また順慶に石山本願寺攻めの付城である森口と森河内に勤番し、大坂への通路・夜番を油断無きように命ず「某氏所蔵文書」
【織下】
62歳
1577
天正五年
10月20日
10月20日
信長、美作の江見為久へ山中鹿之助(幸盛)の書状が到来したが、書かれていることが相違なければ江見為久に本領だけでなくその外の恩賞地を宛行うと通達。詳細は光秀に伝達させる「美作江見文書」
【織上】
62歳
1577
天正五年
10月29日
10月29日
光秀、丹波籾井城を攻める
【兼一】
62歳
1577
天正五年
11月17日
11月17日
光秀、某(宛名擦り消し)へ丹波多紀郡の陣への陣中見舞いの礼を述べる「熊本三宅文書」
【藤田】
62歳
1577
天正五年
12月 2日
12月2日
光秀、藤孝・紹巴らと連歌を詠む
【奥田】
62歳
1578
天正六年
63歳
1578
天正六年
1月 1日
1月1日
信長、信忠・藤孝・光秀ら十二人に朝の茶を振る舞う
【公記】
63歳
1578
天正六年
1月11日
1月11日
光秀、宗及を招き茶会
【他会】
63歳
1578
天正六年
1月29日
1月29日
光秀、伊藤民部丞らへ鵜川の田地の耕作を保障する「伊藤晋氏所蔵文書」
【藤田】
63歳
1578
天正六年
* 1月30日
*1月30日
光秀、長沢又五郎・小畠左馬進・森安村へ亀山城惣堀普請を命ず「小畠文書」(天正五カ)
【亀岡】
【鈴木】
63歳
1578
天正六年
* 3月 7日
*3月7日
光秀(日向守)、山内衆へ材木・人足の調達を命ず(年未詳)
【亀岡】
【藤田】
63歳
1578
天正六年
3月10日
3月10日
光秀、藤孝・紹巴・藤孝家臣の米田求政、利三、嫡男光慶と連歌会を催す
【連目】
63歳
1578
天正六年
* 3月13日
*3月13日
光秀、小畠越前守(左馬進)へ二十七日の出陣は延期できない旨を伝える「蜂須賀文書」(天正七)(年未詳)
【亀岡】
【藤田】
63歳
1578
天正六年
4月 3日
4月3日
信長、石山本願寺を攻撃中の光秀・藤孝へ全ての麦の刈り取りと大坂に籠城する男女へ赦免するので早々に退去することを促す旨を表示した立札を諸口に立てることを命令。また坊主以下の再起を図りそうな者は赦免ならずと命ず「細川家文書」
【織下】
【谷織】
63歳
1578
天正六年
4月 4日
4月4日
信忠を大将として光秀らの軍勢が大坂へ出陣し、五日・六日の両日、大坂へ攻め寄せ、一帯の麦畠をことごとく薙ぎ払って帰陣
【公記】
63歳
1578
天正六年
4月10日
4月10日
信長、一益・光秀・長秀を丹波へ派遣し荒木山城守の居城を攻めさせ降参・退城させる。城には光秀を入れ置く
【公記】
63歳
1578
天正六年
* 4月12日
*4月12日
光秀、小畠左馬進へ十四日に並河四郎左衛門尉に申付けたので、十三日には余部近所まで必ず来るように命ず「小畠文書」(年未詳)
【亀岡】
【藤田】
63歳
1578
天正六年
4月29日
4月29日
毛利勢が上月城を包囲した知らせを受けて信長が自ら出陣し毛利と決戦する旨を伝えると、佐久間・一益・蜂屋・光秀・長秀が敵城を偵察してからにすべきと反対。一益・長秀・光秀が出陣
【公記】
63歳
1578
天正六年
5月 1日
5月1日
信忠・信雄・信孝・藤孝らが尾張・美濃・伊勢の軍勢を引き連れて出陣
【公記】
63歳
1578
天正六年
5月 4日
5月4日
光秀、紹巴へ播磨生田・須磨・明石を通過し紹巴のことを思いだした旨を通知「竹内文平氏所蔵文書」
【大十一】
【藤田】
63歳
1578
天正六年
6月26日
6月26日
滝川・光秀・丹羽・秀吉・荒木村重の軍勢が出陣し、翌日、神吉城を取り囲む
【公記】
63歳
1578
天正六年
* 7月 4日
*7月4日
光秀(日向守)、野々口西蔵坊・小畠左馬進・中沢又五郎へ丹波河原尻村にある材木などを保津川端まで届けるように命ず「小畠文書」(年未詳)
【亀岡】
63歳
1578
天正六年
7月 7日
7月7日
松平家忠、上方の山岡半左衛門尉への使者が帰り、播磨神吉城を信忠以下一益・美濃三人衆・光秀・長秀が攻撃したが、多数の負傷者を出したと聞く
【家忠】
63歳
1578
天正六年
* 7月15日
*7月15日
光秀(惟日)、宗及へ陣中より書を送る「森川如春庵氏所蔵文書」(年未詳)
【藤田】
63歳
1578
天正六年
7月16日
7月16日
織田軍の攻撃で神吉城落城する
【公記】
63歳
1578
天正六年
* 7月24日
*7月24日
光秀、小畠左馬進へ亀山城普請を急いで行うように命ず「小畠文書」(年未詳)
【亀岡】
【藤田】
63歳
1578
天正六年
? 8月15日
?8月15日
光秀、小畠左馬進へ大村の田中方より人質を受け取り、余部まで連行するように命ず。津兵に伝達させる「小畠文書」(天正六)(天正六カ)(年未詳)
【亀岡】
【鈴木】
【藤田】
63歳
1578
天正六年
9月 7日
9月7日
兼見、光秀を坂本に訪問、連歌が張行される
【兼一】
63歳
1578
天正六年
9月10日
9月10日
光秀、木俣守勝へ播磨神吉城攻めの際の手柄を褒め賀茂庄五十石を与える「木俣清左衛門家文書」
【藤田】
63歳
1578
天正六年
9月11日
9月11日
兼見、坂本の光秀を訪問。光秀、兼見所持の茶碗を所望し、兼見は即時上洛し茶碗を光秀のもとへ贈る。入夜、光秀書状を携えた使者の礒谷小四郎が到来
【兼一】
63歳
1578
天正六年
9月13日
9月13日
光秀、津田加賀守へ十四日に亀山に着陣し、十八日には八上城攻めに向かうので人数を率いて出陣するよう命じ、委細を次右衛門に伝達させる
【亀岡】
【藤田】
【鈴木】
63歳
1578
天正六年
9月
9月
光秀、円通寺へ禁制を発行「円通寺文書」『亀岡』
【鈴木】
63歳
1578
天正六年
10月 1日
10月1日
信長、住吉より帰洛。途中しばらく休息をとって二条新御所へ帰る
【公記】
63歳
1578
天正六年
10月 1日
10月1日
夜四時(二十二時前後)、信長、河内より上洛
【晴豊】
63歳
1578
天正六年
10月21日
10月21日
荒木村重が謀反との知らせが方々よりあり、信長、光秀らを派遣して真意を確認するも出仕なく、村重討伐を決意
【公記】
63歳
1578
天正六年
10月25日
10月25日
信長、藤孝へ摂津の雑説(荒木村重の謀反)に関する様々な報告について、松井友閑・万見重元を派遣したこと、光秀に相談し、外聞然るべき様に気遣いするよう通達「細川家文書」
【織下】
【細川】
63歳
1578
天正六年
* 10月26日
*10月26日
信長、光秀に書状を送付した長宗我部元親へ阿波への在陣を賞してますますの忠節を促す。また嫡男に信の字を遣わして信親と名乗るよう通知。詳細は光秀に伝達させる「土佐国蠧簡集」(天正三)(天正六)
【織下】
【石谷】
63歳
1578
天正六年
11月 1日
11月1日
光秀、小畠越前守へ書状が今朝届いた旨、荒木村重謀反への対応の状況、明智秀満を亀山へ派遣し、自分も一両日中に行く旨、孫十郎は若年に付き諸事異見を頼みいる旨を返書「小畠文書」
【亀岡】
【藤田】
63歳
1578
天正六年
11月 3日
11月3日
光秀、佐竹秀慶へ十二日に信長が南方へ出陣の由につき亀山城の普請は延期する旨、十一日には河内に着く旨を通知「尊敬閣文庫所蔵文書」
【亀岡】
【藤田】
63歳
1578
天正六年
11月 3日
11月3日
信長、光秀・秀吉らに荒木村重の説得を試みさせるも翻意せず
【公記】
63歳
1578
天正六年
11月 6日
11月6日
信長、一益へ見舞として矢部家定・光秀を派遣し摂津有岡城の情報収集を指示。また織田信忠へも同様の指示を下したことを通達「森田博三氏所蔵文書」
【年譜】
63歳
1578
天正六年
11月 9日
11月9日
信長、村重討伐のため摂津へ出陣。翌日、一益・光秀・長秀・蜂屋らを村重居城へ差し向ける
【公記】
63歳
1578
天正六年
11月14日
11月14日
光秀ら諸勢、伊丹を攻めて刀根山に陣取る
【公記】
63歳
1578
天正六年
11月15日
11月15日
光秀、小畠越前守(左馬進)・彦介・波々伯部蔵介へ荒木勢に対応するため亀山近辺に在陣している諸勢を加勢させる旨を野々口西蔵坊が伝達すると返書「上越市所蔵文書」
【亀岡】
【藤田】
63歳
1578
天正六年
11月19日
11月19日
光秀、小畠越前守へ荒木村重謀反への対応状況、高山右近が出頭したこと、普請の道具を用意すべきことなどを通知「小畠文書」
【亀岡】
【藤田】
63歳
1578
天正六年
11月23日
11月23日
信長、一益・秀吉・光秀へ中国方面の戦況報告を諒承し、毛利氏への勅使下向は延引することを朝廷に上申することを命ず「立入宗継文書」
【織下】
63歳
1578
天正六年
? 11月24日
?11月24日
長宗我部元親家臣(中島)重房ら、利三・頼辰へ摂津表・紀州・大坂・雑賀の情報などについて連絡(天正六カ)
【石谷】
63歳
1578
天正六年
12月11日
12月11日
信長、村重攻めの陣を固め、秀吉に加えて佐久間・光秀・順慶を播磨へ派遣し三田城攻めの陣を整える。その後、光秀は丹波の波多野氏の八上城の封鎖を強化する
【公記】
63歳
1578
天正六年
12月16日
12月16日
長宗我部元親、石谷頼辰へ利三に依頼して信長に烏帽子親になってもらった喜びを伝える「石谷家文書」
【石谷】
63歳
1578
天正六年
12月20日
12月20日
光秀、小寺休夢斎へ摂津・播磨の戦況を返信「中島寛一郎氏所蔵文書」
【藤田】
63歳
1578
天正六年
12月22日
12月22日
光秀、奥村源内へ摂津の戦況を知らせ天王寺在番の労をねぎらう返書「御霊神社文書」
【福知山】
【亀岡】
【藤田】
63歳
1579
天正七年
64歳
1579
天正七年
1月 7日
1月7日
光秀、坂本城で宗及を招き茶会
【他会】
64歳
1579
天正七年
1月17日
1月17日
兼見、光秀を坂本に訪ねる
【兼一】
64歳
1579
天正七年
1月26日
1月26日
光秀、某(宛所欠)へ丹波籠山の合戦で明智越前守(左馬進)が討死したこと、油断なきことを伝える「泉正寺文書」
【藤田】
64歳
1579
天正七年
2月 6日
2月6日
光秀、明智伊勢千代丸・小畠一族へ小畠越前守討死後、子の伊勢千代丸幼少につき、森村左衛門尉に名代を命じ、一族と森村の誓詞提出を求める「小畠文書」
【亀岡】
【鈴木】
【藤田】
64歳
1579
天正七年
2月18日
2月18日
光秀、宮田村鍛冶次郎太郎・矢代村鍛冶与五郎へ諸役免除を通達「丹波下坂井村文書」
【亀岡】
【藤田】
64歳
1579
天正七年
2月18日
2月18日
光秀、関内蔵助へ八上城が近々落城する旨を伝える「楠匡央家文書」
【亀岡】
【藤田】
64歳
1579
天正七年
2月23日
2月23日
兼見、光秀在京というので訪問。逐電した小姓の与次について光秀へ訴訟し光秀もこれを了承
【兼一】
64歳
1579
天正七年
2月24日
2月24日
兼見、磯谷新介より逐電した小姓与次捜索のため吉田家人一人の同行を要請される
【兼一】
64歳
1579
天正七年
2月28日
2月28日
兼見、坂本に下向し亀山へ出陣する光秀と門外に於いて面会。逐電した小姓与次に関する報告を受ける
【兼一】
64歳
1579
天正七年
2月29日
2月29日
兼見、逐電した小姓与次探索のため亀山へ使者を派遣。入夜に光秀から在所代官に宛てた小姓与次探索についての書状が到来
【兼一】
64歳
1579
天正七年
3月 1日
3月1日
兼見、昨日到来した小姓与次探索に関する光秀書状を在所代官へ送付
【兼一】
64歳
1579
天正七年
3月 3日
3月3日
光秀、大芋甚兵衛尉へ岩伏での戦功を賞す「丹波志」
【亀岡】
【鈴木】
【藤田】
64歳
1579
天正七年
3月16日
3月16日
兼見、丹波に在陣中の光秀へ小姓与次の探索を謝する贈物を携えた使者を派遣
【兼一】
64歳
1579
天正七年
3月17日
3月17日
兼見、丹波より戻った使者より小姓与次に関する光秀返札を受ける
【兼一】
64歳
1579
天正七年
4月 4日
4月4日
光秀、和田弥十郎へ太刀・鯛を贈り、八上城は五百人餓死し、五日・十日の内には落城させる旨、詳細は同名(明智)少兵衛が申す旨を伝える「下条文書」
【亀岡】
【織補】
【藤田】
64歳
1579
天正七年
4月15日
4月15日
光秀、丹波より信長へ馬を進上。信長、これを光秀へ下し与える
【公記】
64歳
1579
天正七年
4月18日
4月18日
光秀妹の妻木、参宮せんとし月水(月経)のことにつき兼見に尋ねる
【兼一】
64歳
1579
天正七年
4月23日
4月23日
光秀、丹波より隼の雛を信長へ進上
【公記】
64歳
1579
天正七年
5月 6日
5月6日
光秀、田中□助・小畠助大夫へ八上城攻め落とす際の注意を兵に徹底する旨を命ず「小畠文書」
【亀岡】
【藤田】
64歳
1579
天正七年
5月18日
5月18日
兼見、光秀が攻める八上城が近々落城する旨を知る
【兼一】
64歳
1579
天正七年
6月 1日
6月1日
兼見、八上城が落城し、波多野兄弟がからめ捕られたことを知る
【兼一】
64歳
1579
天正七年
6月 4日
6月4日
光秀、波多野兄弟三人を調略をもって召し取り、この日、安土へ連行。三人は張付けにされる
【公記】
64歳
1579
天正七年
6月10日
6月10日
立入隆佐、波多野秀治兄弟を召し取って京都を通った光秀を美濃国住人土岐の随分衆なり、名誉の大将なりと讃える
【立入】
64歳
1579
天正七年
6月20日
6月20日
英俊、順慶が大和興福寺一乗院へ河原毛の大きな馬を進上したが、この馬は先頃、光秀が丹波へ出撃した際に乗っていた見事な馬と聞く
【多三】
64歳
1579
天正七年
6月22日
6月22日
兼見、光秀を見舞うため坂本へ下向
【兼一】
64歳
1579
天正七年
6月24日
6月24日
毛利良勝、光秀へ丹波は光秀御存分通りとなったことを喜び、大和薬師寺の陣取りの免除を依頼する「薬師寺文書」
【織下】
64歳
1579
天正七年
7月19日
7月19日
光秀、丹後へ進軍し、宇津頼重、丹波宇津城を退去。光秀、これを追撃させて多数討取る
【公記】
64歳
1579
天正七年
7月25日
7月25日
信長、長秀へ光秀が宇津城を攻略したが調儀を実行させていること、昨夜宇津頼重が逃散し丹波・若狭境の深山に隠れて西国への便船を求めていると推察されるので、若狭より西国へ向かう船は成敗すべきことを厳命す「溝口文書」
【年譜】
64歳
1579
天正七年
8月 9日
8月9日
光秀、赤井忠家の丹波黒井城を攻略。信長より名誉比類なき旨の感状賜る
【公記】
64歳
1579
天正七年
8月24日
8月24日
光秀、丹波氷上郡寺庵中らへ還住を命ず「富永広昭家文書」
【織下】
【亀岡】
【鈴木】
【藤田】
64歳
1579
天正七年
8月24日
8月24日
光秀、愛宕山威徳院法印へ丹波氷上郡への出陣祈願の礼に柏原二百石を奉納する旨を伝える「愛宕神社文書」
【亀岡】
【藤田】
64歳
1579
天正七年
9月23日
9月23日
光秀、某(宛所欠)へ丹波国領城を二十二日に落城させて三年間の鬱憤を果たした旨伝える「雨森善四郎氏所蔵文書」
【亀岡】
【藤田】
64歳
1579
天正七年
9月25日
9月25日
兼見、在洛中の光秀姉である妻木を訪問するが留守であった
【兼一】
64歳
1579
天正七年
10月11日
10月11日
兼見、光秀を見舞うため丹波へ下向、この日は本免に宿泊。また加伊原城普請の最中である光秀へ明日下着する旨を通知
【兼一】
64歳
1579
天正七年
10月12日
10月12日
兼見、本免を出発し加伊原城に到着。光秀と路次に於いて面会し城中を案内される。入夜に佐竹定実の宿所に宿泊
【兼一】
64歳
1579
天正七年
10月13日
10月13日
兼見、光秀へ暇乞をせずに上洛のところ、光秀、使者を派遣して兼見を留め面会。兼見、この日は本免に宿泊
【兼一】
64歳
1579
天正七年
10月24日
10月24日
光秀、安土城へ登城し丹波・丹後の平定を報告
【公記】
64歳
1579
天正七年
11月 5日
11月5日
英俊、信長が光秀を賞するために坂本へ出向くと聞く
【多三】
64歳
1579
天正七年
12月16日
12月16日
信長、荒木村重の一族三十七人を六条河原で処刑
【兼一】
64歳
1579
天正七年
12月25日
12月25日
兼見、光秀を坂本城に訪問して歳末を賀す。伊勢三郎が対座。その後帰洛
【兼一】
64歳
1580
天正八年
65歳
1580
天正八年
1月 9日
1月9日
光秀、宗及を招き茶会
【他会】
65歳
1580
天正八年
1月17日
1月17日
兼見、光秀を訪問するため坂本へ下向。その後、安土へ下向
【兼一】
65歳
1580
天正八年
1月23日
1月23日
光秀、紹巴・行祐・利三・光慶らと連歌会を催す
【連目】
65歳
1580
天正八年
1月24日
1月24日
時宗の同念上人、光秀へ順慶への紹介を依頼する使いを送る。光秀が美濃土岐氏の牢人のとき越前朝倉義景を頼って長崎称念寺門前に十年居住していて旧知の故である
【遊行】
65歳
1580
天正八年
2月 4日
2月4日
宗及、堅田の猪飼(明智半左衛門)、道設を招いて茶会
【自会】
65歳
1580
天正八年
2月13日
2月13日
光秀、丹波天寧寺へ諸式免除ならびに陣取・竹木伐採の停止を往古の通りに安堵「天寧寺文書」
【亀岡】
【鈴木】
【藤田】
65歳
1580
天正八年
2月14日
2月14日
英俊、遊行上人(同念)が昨日来所、三十六代目で六十三歳、光秀から順慶へ紹介があってもてなしたと聞く
【多三】
65歳
1580
天正八年
3月 6日
3月6日
宗及、利三、同じく光秀家臣の堀田助左衛門を招いて茶会
【自会】
65歳
1580
天正八年
閏3月13日
閏3月13日
光秀、坂本城の修築を開始
【兼一】
65歳
1580
天正八年
閏3月28日
閏3月28日
兼見、光秀を坂本城に訪問
【兼一】
65歳
1580
天正八年
4月 6日
4月6日
光秀、山城の柏木左九右衛門・河原村三郎次郎らへ赦免することを通達し、南山城賀茂荘の定請米千二百石と夫役を難渋しないことを命ず「南行雑録」一
【織下】
【藤田】
65歳
1580
天正八年
4月 9日
4月9日
大坂本願寺、信長と和睦し大坂を退去
【公記】
65歳
1580
天正八年
4月19日
4月19日
宗及、明智少兵衛、澤久太、永臨を招いて茶会
【自会】
65歳
1580
天正八年
6月26日
6月26日
長宗我部元親、光秀の執奏により信長へ鷹・砂糖を進上
【公記】
65歳
1580
天正八年
7月23日
7月23日
利三、門前地下中へ白毫寺へ還住の衆僧に人足役を免除する「白毫寺文書」
【亀岡】
【鈴木】
65歳
1580
天正八年
7月23日
7月23日
光秀、賀茂庄惣中へ年貢などを納めないと成敗する旨を命ず「須磨家所蔵文書」
【藤田】
65歳
1580
天正八年
7月28日
7月28日
英俊、光秀が寛一へ入魂の由を返事したと聞く
【多三】
65歳
1580
天正八年
7月
7月
光秀、丹波宮田市場へ喧嘩・口論の禁止、毎月の市の開催日の定を発布「丹波志」
【亀岡】
【鈴木】
【藤田】
65歳
1580
天正八年
8月 2日
8月2日
石山本願寺、信長と和睦し大坂を退去する
【公記】
65歳
1580
天正八年
? 8月 8日
?8月8日
光秀、西方寺へ丹後の寺領についての返報「安土城考古博物館所蔵文書」(天正八年カ九年)
【藤田】
65歳
1580
天正八年
8月12日
8月12日
信長、佐久間信盛父子を追放。その折檻状で佐久間父子の悪評は唐土・高麗・南蛮まで知れ渡ったと非難。丹波での光秀の働きを天下の面目をほどこしたと讃える
【公記】
65歳
1580
天正八年
8月13日
8月13日
信長、藤孝へ丹後入国を祝し、光秀からもその様子の報告を受けているので、今後は光秀と相談し、政道を油断無く執り行うこと、信長への見舞遅延は問題としないこと、状況変化があれば注進すべきことを命ず「細川家文書」
【織下】
【細川】
65歳
1580
天正八年
8月17日
8月17日
光秀・忠興・藤孝、丹後江尻村へ禁制を発行「成相寺文書」
【亀岡】
【藤田】
65歳
1580
天正八年
8月17日
8月17日
光秀、愛宕山威徳院法印へ丹波多紀郡内の二百石を奉納する「色々証文」
【亀岡】
【藤田】
65歳
1580
天正八年
8月18日
8月18日
英俊、修理反銭を徴集する件を光秀と順慶へ内々に申し入れていることを知る
【多三】
65歳
1580
天正八年
8月21日
8月21日
信長、藤孝へ丹波方面の報告を受け、藤孝の居城を宮津に構築することを諒承す。急ぎ宮津城普請に着工するよう光秀へも信長朱印を下したので相談の上での実行を命ず「細川家文書」
【織下】
【細川】
65歳
1580
天正八年
8月22日
8月22日
信長、藤孝・光秀へ二十日の注進状をこの日に披見し、丹波の土豪吉原西雲が出仕せず、野心を働いたので討ち果したことを賞す「細川家文書」
【織下】
【細川】
65歳
1580
天正八年
9月 9日
9月9日
光秀、井尻助大夫へ丹波船井郡で二五○石四斗を新恩として宛がう
【亀岡】
【鈴木】
【藤田】
65歳
1580
天正八年
9月21日
9月21日
宗及、坂本にて光秀、三宅彌平次(秀満)、明少(明智少兵衛)、斎藤(利三)と茶会
【他会】
65歳
1580
天正八年
9月25日
9月25日
光秀、興福寺吉祥院に到着
【多三】
65歳
1580
天正八年
9月26日
9月26日
光秀、興福寺東北院へ信長の朱印で通達された知行の指出のため出頭を命ず「永井円次郎氏所蔵文書」
【織下】
65歳
1580
天正八年
9月26日
9月26日
光秀・一益、白土へ知行の指出のため出頭を命ず「仲覚三氏所蔵文書」
【藤田】
65歳
1580
天正八年
9月26日
9月26日
興福寺衆徒中、大和指出に関する全五ヶ条の霊社起請文前書を信長からの上使として派遣された一益・光秀に宛てて提出
【多三】
65歳
1580
天正八年
9月28日
9月28日
光秀、某(宛所欠)へ大和指出についての糺明を命ず「保井文書」
【藤田】
65歳
1580
天正八年
10月23日
10月23日
英俊、十市新二郎が興福寺に到来し、近日中に一益・光秀が帰還するというので送るためと聞く
【多三】
65歳
1580
天正八年
10月23日
10月23日
英俊、光秀が興福寺の寺社領について少しも相違が無く、指出銭も不要であることを保障したと聞く
【多三】
65歳
1580
天正八年
10月28日
10月28日
英俊、戒重・岡弥二郎・大仏供・高田藤七郎が生害したので、一益は岡弥二郎のもとへ、順慶は高田藤七郎のもとへ、光秀は戒重と大仏供のもとへ下ったと聞く
【多三】
65歳
1580
天正八年
10月29日
10月29日
英俊、一益・光秀が二十八日の下向場所から興福寺へ戻ったと聞く
【多三】
65歳
1580
天正八年
10月
10月
大和興福寺衆徒、一益・光秀へ興福寺領の指出目録を提出「春日神社文書」
【織下】
65歳
1580
天正八年
10月
10月
大和法隆寺の興戒・暁宣、一益・光秀へ法隆寺領の指出目録を提出「法隆寺文書」
【織下】
65歳
1580
天正八年
10月
10月
大和多武峯、一益・光秀へ多武峯領の差出目録を提出「談山神社文書」
【年譜】
65歳
1580
天正八年
11月 2日
11月2日
英俊、一益・光秀がこの暁七つ時分に興福寺を発すること、指出徴収のための滞在は三十八日であったこと、この間の苦難は大変であったこと、藤田伝五が残留していることを聞く
【多三】
65歳
1580
天正八年
11月14日
11月14日
兼見、光秀を見舞うため坂本へ下向。門外で対面。磯谷新介が奏者を務める
【兼一】
65歳
1580
天正八年
12月10日
12月10日
宗及、明智掃部(並河易家)、明智半左衛門(猪飼秀貞)を招いて茶会
【自会】
65歳
1580
天正八年
12月19日
12月19日
順慶、坂本の光秀を訪問
【多三】
65歳
1580
天正八年
12月20日
12月20日
宗及、光秀・順慶と茶会、夜、利三の屋敷で茶器を拝見
【他会】
65歳
1580
天正八年
12月21日
12月21日
宗及、光秀の茶会に出席し茶堂を務める
【他会】
65歳
1580
天正八年
12月25日
12月25日
信長、長宗我部元親へ伊予鶏五居の贈呈を謝す。また隣国干戈の件は光秀より伝達することを通達「土佐国蠧簡集」
【織下】
65歳
1580
天正八年
12月 晦日
12月晦日
宗及、利三を招いて茶会
【自会】
65歳
1581
天正九年
66歳
1581
天正九年
1月 6日
1月6日
藤孝、兼見を訪問し坂本で光秀が連歌を張行することを知らせる
【兼一】
66歳
1581
天正九年
1月10日
1月10日
宗及、光秀、宗二(初めて同行)と茶会
【他会】
66歳
1581
天正九年
1月11日
1月11日
宗及、光秀・宗二と茶会
【他会】
66歳
1581
天正九年
1月13日
1月13日
兼見、坂本城の光秀を礼問し、磯谷新介が案内したが、光秀所労のため面会できず
【兼一】
66歳
1581
天正九年
* 1月13日
*1月13日
光秀、三上大藏大夫・古市修理進・赤塚勘兵衛・寺本橘大夫・中路新兵□・蜷川弥□□へ西国出陣につき国役として普請役と知行地の開墾を命ず「吉田文書」(天正八)(天正九カ十)
【織補】
【鈴木】
【藤田】
66歳
1581
天正九年
1月23日
1月23日
信長、光秀に京都での馬揃えの奉行を命じる
【公記】
66歳
1581
天正九年
1月23日
1月23日
信長、光秀へ先頃の安土に於ける爆竹、諸道具の製作がとても出来栄えが良く、予想外の音信は念入りで神妙であることを賞し、それならば、今度京都に於いて馬揃えを実施すべく詳細な指示を与える
【立入】
【織下】
66歳
1581
天正九年
1月25日
1月25日
兼見、入夜に光秀よりの書状を受け取る。今度信長京都に於いて馬揃を行う旨光秀に分国中に布達させ、公家陣参衆も参加すべしとのこと
【兼一】
66歳
1581
天正九年
1月26日
1月26日
兼見、早々に坂本へ下向。細川丹波守へ馬揃への参加免除を申請し、万一の際には信長への取り成しを依頼する
【兼一】
66歳
1581
天正九年
1月27日
1月27日
兼見、貞勝へ昨日光秀と相談した旨を伝え同心を得る
【兼一】
66歳
1581
天正九年
2月 1日
2月1日
兼見、京都へ行った際に川原で光秀と遭遇。光秀は坂本へ下向の途上というので、白川辺まで雑談しながら見送る
【兼一】
66歳
1581
天正九年
2月23日
2月23日
兼見、藤孝より書状を受ける。その内容は後刻、光秀・蜂屋頼隆・松井友閑が吉田の春日馬場に於いて騎乗する旨の通知であった。その後、光秀・松井友閑・藤孝が従者二百人余を率いて春日馬場に到来
【兼一】
66歳
1581
天正九年
2月24日
2月24日
兼見、昨日の礼に松井友閑・光秀を訪問。その後、藤孝を訪問
【兼一】
66歳
1581
天正九年
2月25日
2月25日
信長、イエズス会巡察師ヴァリニャーノ、宣教師オルガンティーノ、ルイス・フロイスを謁見し話を長時間聴く
【年報】
66歳
1581
天正九年
2月28日
2月28日
京都にて馬揃え。光秀、大和・上山城衆を従えて行進
【公記】
66歳
1581
天正九年
4月10日
4月10日
宗及、福知山にて明智彌平次の七五三膳(本膳七菜・二の膳五菜・三の膳三菜)の振舞いを受ける
【他会】
66歳
1581
天正九年
4月11日
4月11日
宗及、福知山をたち、光秀の供をして途中福寿院で七五三膳の振舞いを受ける
【他会】
66歳
1581
天正九年
4月12日
4月12日
宗及、光秀父子三人、藤孝父子三人、紹巴、宗二、道是と丹後宮津にて朝食の膳、その後、天橋立にて振舞いがあり、光秀・藤孝・紹巴で連歌を行った
【他会】
66歳
1581
天正九年
4月15日
4月15日
宗及、堅田にて明智半左衛門と茶会
【他会】
66歳
1581
天正九年
4月17日
4月17日
兼見、丹波宇津からの光秀書状を受け取る。宇津城の井戸を掘るために河原者を派遣するよう求められ、早速派遣を申付ける
【兼一】
66歳
1581
天正九年
4月18日
4月18日
光秀、瀬野右近・東沢加賀守へ亀山城普請のため動員した百姓に飯米を支給するよう命ず「片山丁宣家文書」
【亀岡】
【鈴木】
【藤田】
66歳
1581
天正九年
5月 3日
5月 3日
光秀、丹波国の安口村、西野々村の名主と百姓に御定書を下す
【速報】
1581
天正九年
5月16日
5月16日
妻木、所労により在京
【兼一】
66歳
1581
天正九年
5月21日
5月21日
光秀、嶋左近へ音信の礼を告げる「宮坂文書」
【大十一】
【藤田】
66歳
1581
天正九年
? 5月28日
?5月28日
光秀、福屋彦太郎へ昨年来伯耆羽衣石城に在城して粉骨の働きを賞し、委細を山田喜兵衛に伝えさせる「福屋金吾日記文書」(天正九カ)
【藤田】
66歳
1581
天正九年
6月 2日
6月2日
光秀、明智家中へ全一六ヶ条の軍法を発す「御霊神社文書」
【亀岡】
【鈴木】
【藤田】
66歳
1581
天正九年
6月12日
6月12日
信長、香宗我部親泰へ三好式部少輔と相談し誼を通じること、なお三好康長の添状を添える「香宗我部家伝証文」
【織下】
66歳
1581
天正九年
6月21日
6月21日
光秀、出野左衛門助・片山兵内へ破却命令に従わない和久左衛門大夫を成敗したことを伝え、在所へ逃亡した一類・被官を捕えるよう命ず。上林紀伊守に申し伝えさす「御霊神社文書」
【亀岡】
【鈴木】
【藤田】
66歳
1581
天正九年
8月 7日
8月7日
英俊、近日中に光秀が到来するということで騒ぎになったと聞く
【多三】
66歳
1581
天正九年
8月13日
8月13日
因幡鳥取に毛利勢が出陣するとの風説があり、信長、藤孝・光秀・池田恒興などへ出陣準備を命ず。藤孝・光秀は兵糧を大船に積ませ鳥取川へ停泊させた
【公記】
66歳
1581
天正九年
8月14日
8月14日
宗及、丹波周山城にて光秀に会う
【他会】
66歳
1581
天正九年
8月15日
8月15日
宗及、周山城にて月見、光秀と連歌を詠む
【他会】
66歳
1581
天正九年
8月19日
8月19日
光秀、郡山城普請の見舞のため、この朝早々に興福寺成身院に到来す。百名ばかりを随行
【多三】
66歳
1581
天正九年
8月20日
8月20日
信長、秀吉の注進状に応え、全三ヶ条の指示を下す。因幡鳥取城の攻城戦に、より一層の覚悟で臨むことを命令し、先書で通達した様に光秀・藤孝以下、摂州衆も準備させているので、秀吉からの要請が有り次第に出張させることなどや信長自身も出馬するので油断無く調儀を行うことを命令「沢田義厚氏所蔵文書」
【年譜】
66歳
1581
天正九年
8月20日
8月20日
この払暁に興福寺より郡山城に滞在する光秀へ御礼として摩尼(珠玉)が贈られた
【多三】
66歳
1581
天正九年
8月21日
8月21日
英俊、光秀がこの暁に郡山城より帰還したこと、八月七日か八日の頃に光秀の妹御ツマキが死去したこと、信長の一段のキヨシであり、光秀はとても落胆していることを聞く
【多三】
66歳
1581
天正九年
? 8月22日
?8月22日
光秀、佐竹出羽守(秀慶)へこれより因幡へ出陣する旨を返書「兼見卿記紙背文書」
【藤田】
66歳
1581
天正九年
8月23日
8月23日
信長、藤孝へ丹波方面に敵が侵攻してきたならば出陣すべき旨を命令したところ油断無く用意したことを諒承し、光秀へも詳細を指示したので準備に邁進するよう命ず。また丹波より賊船を因幡方面の味方諸城へ兵粮を搬入させ、敵船を撃退させることも重要であり、松井康之の折紙を披見することを通達。さらに南方への軍事行動の件も通達「細川家文書」
【細川】
66歳
1581
天正九年
8月27日
8月27日
英俊、光秀の仲介によって成立した順慶の養子の婚儀の祝言が行われること、藤田伝五が使いに来たことを聞く
【多三】
66歳
1581
天正九年
9月 4日
9月4日
信長、藤孝へ丹後の一色の知行出来分を光秀に預けることとしたので、相談すべきことを命ず「細川家文書」
【織下】
66歳
1581
天正九年
9月 7日
9月7日
信長、光秀へ丹後の一色知行の出来分前後合わせて二万石を今度の検地による員数で引き渡すことを命令。残りの分は藤孝に渡すべきことを通達「細川家文書」
【年譜】
66歳
1581
天正九年
9月10日
9月10日
信長、藤孝・光秀へ矢野知行の出目分を藤孝に遣わす「細川家文書」
【織下】
【細川】
66歳
1581
天正九年
9月24日
9月24日
信長、藤孝へ松井胃介(康之)・加悦勘十郎が出雲・伯耆境目で相働き敵船数艘切取、二十五人討取捕え、秀吉折紙到来し、粉骨比類なしと忠節を褒める「細川家文書」
【織下】
66歳
1581
天正九年
10月 6日
10月6日
明智秀満、天寧寺へ光秀判形による免許状を下す「天寧寺文書」
【亀岡】
【鈴木】
66歳
1581
天正九年
10月25日
10月25日
毛利勢が籠城していた鳥取城が降伏し開城
【公記】
66歳
1581
天正九年
11月19日
11月19日
光秀、紹巴らと五吟一日千句を詠む。光慶・梅松丸・亀菊ら各一句詠む
【連目】
66歳
1581
天正九年
12月 4日
12月4日
光秀、家中掟により、坂本・丹波往復の道筋、道中での織田家臣への挨拶、京都での乗馬・遊興の禁止などを定める「萬代家文書」
【山口】
【鈴木】
【藤田】
66歳
1581
天正九年
12月 4日
12月4日
光秀、宇津領年貢米の受取状を発行「中島寛一郎氏蔵文書」
【亀岡】
【藤田】
66歳
1582
天正十年
67歳
1582
天正十年
1月 4日
1月4日
晴豊、節分方違のために光秀配下の井上某を訪問
【晴豊】
67歳
1582
天正十年
1月 6日
1月6日
光秀、安土の信長に年始の礼
【蓮成】
67歳
1582
天正十年
1月 7日
1月7日
光秀、坂本城にて宗二・宗及と茶会。床の間に信長自筆の書が掛けられていた
【他会】
67歳
1582
天正十年
1月 8日
1月8日
藤孝・忠興、兼見を訪問し、直ちに坂本へ下向
【兼二別本】
67歳
1582
天正十年
1月 9日
1月9日
光秀、藤孝・紹巴・宗及・利三・光慶らと連歌を詠む
【連目】
67歳
1582
天正十年
1月11日
1月11日
利三、土佐の石谷光政へ信長の朱印状に長宗我部元親が従うように説得すべきこと、石谷頼辰を派遣することを伝える「石谷家文書」
【石谷】
67歳
1582
天正十年
この頃 光秀、長宗我部元親へ石谷頼辰を説得の使者として派遣したが、元親は信長の命令を拒否
【元親】
67歳
1582
天正十年
1月20日
1月20日
兼見、光秀を坂本城に礼問す。光秀には小天主に於いて対面し、茶湯や夕食で振る舞われた。種々雑談し、光秀は機嫌であった。奏者は佐竹秀慶の弟の佐竹弥吉であった
【兼二別本】
67歳
1582
天正十年
1月23日
1月23日
興福寺寺門、光秀へ五百疋、明智伝五へ百疋送る
【蓮成】
67歳
1582
天正十年
1月25日
1月25日
光秀、博多の商人・茶人の島井宗室、宗及と茶会
【他会】
67歳
1582
天正十年
1月28日
1月28日
光秀、坂本にて堺の商人・茶人の銭谷宗訥、宗二、宗及と茶会
【他会】
67歳
1582
天正十年
2月 1日
2月1日
木曽義昌、織田方へ寝返る
【公記】
67歳
1582
天正十年
2月 3日
2月3日
信長、家康は駿河から、北条氏政は関東から、金森長近は飛騨から、信長・信忠は伊那から攻め入るよう出陣命令を出す
【公記】
67歳
1582
天正十年
2月 9日
2月9日
信長、武田攻め出陣にあたり命令書を発行。順慶・忠興・光秀を同行すること、遠国につき人数少なく連れて行くよう準備を命ず。三好康長へは長宗我部征伐の先陣として四国への出陣を命ず
【公記】
【織下】
67歳
1582
天正十年
2月11日
2月11日
光秀、喜多村出羽守へ内治の容姿が出羽守に似ており、お目に懸けたいこと、武運あやからせたいことを告げる「喜多村家所蔵古文書」
【藤田】
67歳
1582
天正十年
2月
2月
武田勝頼へ光秀から「この二月に謀反する」と申し入れがあったがはかりごとと考えて味方しなかった
【甲下】
67歳
1582
天正十年
3月 2日
3月2日
家康、穴山梅雪へ味方するなら甲斐一国を与えると約す
【德川】
67歳
1582
天正十年
3月 3日
3月3日
英俊、この朝順慶とその与力衆が悉く出陣したこと、信長は九日に信濃へ出馬するので、光秀が五日に出陣し、光秀一手の衆が今日出陣することを知る
【多三】
67歳
1582
天正十年
3月 4日
3月4日
兼見、光秀へ使者を派遣し出陣見舞の軍陣祓・弓懸を送付
【兼二別本】
67歳
1582
天正十年
3月 4日
3月4日
明智勢が大事の陣というので信濃へ分かれて次々と出発。兵はしょんぼりとした様子だったと聞く
【晴豊】
67歳
1582
天正十年
3月 5日
3月5日
信長、信濃へ向けて出陣
【公記】
67歳
1582
天正十年
3月 5日
3月5日
成方院浄勝、安土より帰還し、その途上に兼見を訪問す。兼見、浄勝よりこの朝に信長は佐和山城を出陣したこと、出陣する軍勢は安土に至るまで続くほど多いこと、特に光秀の軍勢は人数多く奇麗であったことを知らされる
【兼二別本】
67歳
1582
天正十年
3月 8日
3月8日
信長、勝家へ越前のことは油断なく進めるべきこと、我々は五日に安土を出陣し本日犬山に着陣したこと、武田勝頼は先月二十八日に居城から逃走したこと、先手は早くも甲斐へ討ち入ったこと、我々の出陣は益がないがもともと関東見物したかったので良い機会であることなどを伝える「古今消息集」
【愛一】
【織下】
67歳
1582
天正十年
3月11日
3月11日
武田勝頼、討死
【公記】
67歳
1582
天正十年
3月22日
3月22日
この日、武田勝頼の首が京都に届き獄門に懸けられた
【兼二別本】
67歳
1582
天正十年
3月29日
3月29日
信長、諏訪にて甲斐・信濃・駿河・上野の知行割を通達
【公記】
67歳
1582
天正十年
4月 2日
4月2日
信長、諏訪を出立。駿河・遠江・三河を経て、安土へ帰陣する
【公記】
67歳
1582
天正十年
4月 7日
4月7日
英俊、武田攻めの軍勢が大和へ帰国、順慶は信長の御伴で帰国が少し遅れることを知る
【多三】
67歳
1582
天正十年
4月10日
4月10日
信長、甲府を発って帰路に着く(光秀・忠興・順慶ら同行)
【公記】
67歳
1582
天正十年
この頃 信長、甲州かしわ坂で近衛前久の同行を拒否して木曽路を帰るように言い渡す
【甲下】
67歳
1582
天正十年
4月13日
4月13日
信長、富士川・天神川・三保の松原などを越えて江尻城に宿泊
【公記】
67歳
1582
天正十年
4月14日
4月14日
信長、駿河府中・藤枝など経由して田中城に宿泊
【公記】
67歳
1582
天正十年
4月15日
4月15日
信長、大井川など経由して掛川に宿泊
【公記】
67歳
1582
天正十年
4月15日
4月15日
信長、藤孝へ武田氏の討伐は早々に落着し我ながら驚き入るばかりだと伝える「細川家文書」
【織下】
67歳
1582
天正十年
4月16日
4月16日
信長、高天神・天竜川など経由して浜松に宿泊、小姓衆・馬廻衆に暇を与え、弓衆・鉄砲衆のみ残した
【公記】
67歳
1582
天正十年
4月17日
4月17日
信長、浜名の橋を経由し吉田に宿泊
【公記】
67歳
1582
天正十年
4月18日
4月18日
信長、岡崎を経由して池鯉鮒に宿泊
【公記】
67歳
1582
天正十年
4月18日
4月18日
信長、岡崎着。安土への帰り道は、どこの宿泊においても光秀は老人ということで、信長の宿舎の近くに宿を仰せ付けられた
【当代】
67歳
1582
天正十年
4月21日
4月21日
信長、清洲、岐阜、佐和山を経由して安土帰陣
【公記】
67歳
1582
天正十年
4月24日
4月24日
信長、一色満信・藤孝へ中国進発はこの秋に予定していたが、今度備前児島にて小早川隆景を敗北させ、備中高松城に籠城したので秀吉が攻囲しているとの注進があったこと、重ねて一報が入り次第出勢するので準備に油断しないことを通達。詳細は光秀より伝達させる「細川家文書」
【織下】
【細川】
67歳
1582
天正十年
4月
4月
寛尊、信長の東国出馬について天皇の命により御祈祷の経文および陣中見舞品を携えて興福寺より派遣。信忠・信雄・光秀・一益・明智伝五・順慶・長谷川秀一らへ物が贈られた
【蓮成】
67歳
1582
天正十年
5月 7日
5月7日
信長、信孝へ讃岐は信孝に、阿波は三好康長に与え、土佐・伊予は信長が淡路に出陣してから言い渡す旨の朱印状を発す「寺尾菊子氏所蔵文書」
【織下】
67歳
1582
天正十年
5月11日
5月11日
家康、岡部正綱へ内書を与え、委細は榊原康政に伝えさせようと思ったが先発したので作左衛門(本多重次)が申すこと、この内書は隠すことを命ず「寛永諸家系図伝」
【德川】
67歳
1582
天正十年
5月11日
5月11日
信孝、四国攻めのため摂津住吉に着陣し、渡海の舟の調達を命ず
【公記】
67歳
1582
天正十年
この頃 利三、長宗我部征伐を気遣って明智謀反の戦いを差し急いだ
【元親】
67歳
1582
天正十年
この頃 信長、安土城の密室で光秀と二人で家康接待の相談をしていたが、好みに合わない要件で光秀が言葉を返したので怒って一度か二度光秀を足蹴にした
【日本】
67歳
1582
天正十年
5月13日
5月13日
藤孝、兼見邸に宿泊し、明日安土へ下向
【兼二】
67歳
1582
天正十年
5月14日
5月14日
藤孝、早朝安土へ下向。安土へ登城する家康の接待のため光秀は在庄を命じられた(注)正本では家康が安土逗留の間の用意・馳走で光秀は大変だったと追記
【兼二別本】
67歳
1582
天正十年
5月15日
5月15日
家康、安土へ参着。信長、接待を光秀に命じ、京都・堺にて珍物を調えおびただしき結構にて十七日まで三日間接待する
【公記】
67歳
1582
天正十年
5月17日
5月17日
信長、秀吉援軍として光秀・忠興・摂津衆を先陣として派遣する旨を命じ、直ちに暇をとらせる。光秀、安土より坂本へ帰城し、出陣準備
【公記】
67歳
1582
天正十年
5月17日
5月17日
英俊、順慶が夕刻に大和へ帰国し、二十日に西国へ出陣の用意をすること、家康と穴山梅雪が十五日に安土へ来て、贅を尽くしたもてなしが用意されたと知る
【多三】
67歳
1582
天正十年
5月18日
5月18日
松平家忠、安土へ飛脚を送る
【家忠】
67歳
1582
天正十年
5月19日
5月19日
家康、安土総見寺にて宗及の茶の振舞いを受け、能を見物
【他会】
67歳
1582
天正十年
5月20日
5月20日
信長、高雲寺御殿で家康・穴山梅雪・石川数正・酒井忠次ほかをもてなす
【公記】
67歳
1582
天正十年
5月21日
5月21日
長宗我部元親、利三へ信長の意向に従い信長が東国から帰陣したら同心したい旨を伝える(石谷家文書に残っているので利三には届かなかったとみられる)「石谷家文書」
【石谷】
67歳
1582
天正十年
5月21日
5月21日
信長、家康へ京都・大坂・奈良・堺見物を命ず。案内役として長谷川秀一を同行させる。家康、上洛
【公記】
67歳
1582
天正十年
5月24日
5月24日
光秀、愛宕山威徳院にて紹巴・行祐・光慶・東六郎行澄らと連歌会を催す
【連目】
67歳
1582
天正十年
5月24日
5月24日
松平家忠へ安土へ送った飛脚が戻り、二十一日に家康上洛が決まった旨を知る
【家忠】
67歳
1582
天正十年
5月26日
5月26日
松平家忠、家康より直接の書状を受け取る
【家忠】
67歳
1582
天正十年
5月27日
5月27日
信忠、森乱丸へ堺見物を取りやめて信長上洛を京で待つので早々に信長の許可を得て連絡を得たいこと、委細は使いの者が口上で申すこと、家康は明日大坂・堺へ下ることを伝える「小畠文書」
【織下】
67歳
1582
天正十年
5月28日
5月28日
英俊、信長が上洛すると知る
【多三】
67歳
1582
天正十年
5月28日
5月28日
松平家忠、安土へ飛脚を送る
【家忠】
67歳
1582
天正十年
5月29日
5月29日
信長、小姓衆二、三十人召し連れて上洛。一報あり次第中国出陣すべき旨お触れが出て、今回は御伴なし
【公記】
67歳
1582
天正十年
5月29日
5月29日
家康、堺に下る
【他会】
67歳
1582
天正十年
5月29日
5月29日
家康、堺見物のため穴山梅雪と堺に入る。信孝、三好康長の養子として渡海のため住吉に一宿
【石山】
67歳
1582
天正十年
5月29日
5月29日
信長未刻(午後二時前後)入洛。諸家の迎礼を辞退
【兼二別本】
67歳
1582
天正十年
5月29日
5月29日
信長、上洛
【日々】
67歳
1582
天正十年
6月 1日
6月1日
本能寺に公家衆が大挙参集する。数刻雑談する
【言経】
67歳
1582
天正十年
6月 1日
6月1日
兼見、神事のため本能寺へ参会せず
【兼二別本】
67歳
1582
天正十年
6月 1日
6月1日
晴豊、甘露寺と信長へ使い。公家衆が礼に来ていた。西国への軍勢派遣は四日とのこと。信忠などが来たが信長の見参はなかった
【日々】
67歳
1582
天正十年
6月 1日
6月1日
宗及、堺にて家康・穴山梅雪・長谷川秀一を招いて茶会
【自会】
67歳
1582
天正十年
6月 1日
6月1日
晩に茶湯、幸若舞、酒宴の家康接待があり、案内者として信忠から付けられた杉原殿、信長から付けられた長谷川秀一も同席した
【石山】
67歳
1582
天正十年
6月 1日
6月1日
光秀、夜に亀山にて逆心を企て、明智左馬助・明智次右衛門・藤田伝五・斎藤内蔵佐と談合。老の山から左へ下り、桂川を渡って明け方になった
【公記】
67歳
1582
天正十年
6月 1日
6月1日
光秀、夜半に亀山を発ち本能寺へ押し寄せる
【惟任】
67歳
1582
天正十年
6月 1日
6月1日
光秀の兵、秀吉援軍のため亀山城を出陣したが、途中で京へ行くと命じられて、信長の命令で家康を討ちに行くものとばかり思った
【本城】
67歳
1582
天正十年
6月 1日
6月1日
光秀、四人の部将に謀反を打ち明け、十分な武装をするように全軍に命じる。兵たちは信長の命令で家康を討ちに行くものと考えた
【年報】
67歳
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
明智勢、本能寺を取り囲み信長を討つ。信長、初めは弓を取って射たが、その後槍で戦い、肘に槍疵を被って引き退き、そばにつきそっていた女性たちを追い出し、御殿に火を懸け、殿中奥深く入り切腹。明智勢、引き続き二条新御所へ立て籠もった信忠を討つ。光秀、辰刻(午前八時前後)、信長父子以下を討ち果たし落人探索を指示。山岡美作(景隆)・対馬(景佐)兄弟が勢田の橋を焼き落としたので、光秀は坂本へ帰城。巳刻(午前十時前後)、安土へ光秀謀反が伝わる。夜になって山崎片家が自邸を焼き払い居城山崎城へ退去した
【公記】
67歳
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
明智弥平次光遠・明智勝兵衛・明智治右衛門・明智孫十郎・斎藤内蔵助利三を頭として取り巻いた。信長、弓を取り射伏せた後、十文字の鎌で戦い、数か所疵を負って引き退き、美女たちをことごとく刺し殺して自ら火を懸け切腹した
【惟任】
67歳
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
光秀、京都本能寺に於いて信長を焼き討ち。晴豊、二条新御所へ行ったが軍勢が取り巻いて入れず、明智家臣の井上に頼んだが無理だった。誠仁親王、供奉衆と共に漸く二条御所を脱出。夕方に屋敷共を見物。首・死人数限りなしという状態であった
【日々】
67歳
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
光秀、卯刻(午前六時前後)に本能寺の信長を謀叛により襲撃し信長は即時に討死す。信忠、二条新御所へ立て籠もった所へ明智軍が押し寄せ、討死。貞勝以下悉く討死。二条新御所の誠仁親王は辰刻(午前八時前後)に内裏へ移る。洛中騒動
【言経】
67歳
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
順慶、今朝上洛の途中、信長は急に西国出陣とて既に安土へ帰った由につき帰国した。信長、京都で生害、信忠も生害、光秀と信澄が申し合わせた(「これは嘘」と追記あり)。今暁のことが昼十時過ぎに伝わった
【多三】
67歳
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
光秀、早天に本能寺を襲撃。信長即時生害。信忠、二条新御所に立て籠もり生害す。貞勝親子三名、馬廻衆ら討死す。誠仁親王ら禁裏に避難。紹巴が輿を持ってきてお乗せした。本能寺・二条新御所等炎上、洛中・洛外驚騒。光秀は悉く討ち果たし未刻(午後二時前後)大津へ下る。兼見、粟田口で光秀と対面し在所の安全を頼んだ(注)正本では紹巴が輿を持ってきた話、兼見が光秀に対面した話を削除
【兼二別本】
67歳
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
寛尊、信長が本能寺で生害と聞く。光秀、未明に謀反を為して四方を取り囲み攻撃する。光秀は今度西国への暇乞に人数をお目に懸けると謀略を企てた。信忠の滞在する妙覚寺へ押し寄せ、信忠、既に本能寺落居という注進を受けて二条新御所に移る。明智軍、二条新御所を包囲。信忠、籠もった二条新御所内より誠仁親王を御所外への脱出させる。信忠軍、御所内より切って出て、三度も寄手を退散させるが、多勢に無勢で信忠らは討死す。これにより洛中洛外大騒動となる。この日中程に奈良へ注進があった
【蓮成】
67歳
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
信長、背に刺さった矢を抜き薙刀で戦ったが腕に弾創を受けて部屋に引き籠った。切腹したとも火を放って死んだともいう。信忠は親王の邸へ移り、親王は光秀の許可を得て内裏へ移った。信忠は一時間以上戦ったが明智軍が邸内に火を放ち焼死した。巡察師が信長に贈った黒人奴隷が信長の死後に信忠の邸で戦い、降伏し京都の教会へ身柄を預けられた
【年報】
67歳
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
朝、家康火急に上洛。二十九日に信長が上洛したと聞きあわてて上洛とのこと(これは信長自害を知って計略を言って上洛したと追記あり)
【石山】
67歳
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
家康、堺見物が終了した旨信長へ報告するため茶屋四郎次郎を使いとして一日に上洛させ、この日堺を出立し上洛。本多忠勝を先行させて上洛の途中に四郎次郎が京都から馬に乗って来て忠勝と枚方で行き合った。信長自害を知らされ二人は戻って飯盛山近辺で家康と出会って報告し、伊賀を越えて三河へ戻った「茶屋由緒記」
【大十一】
67歳
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
呉服師亀屋栄任、信長自害を家康に注進するため堺へ迎えに行った。その際、伊賀越えで三河に帰国とのことで栄任は京都に家康手勢が居るとのことで京都へ戻り密かに手勢を集め、近江信楽へ下って御供した「呉服師由緒記」
【大十一】
67歳
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
光秀、美濃野口城主西尾光教へ信長・信忠父子を討ち果たしたので大垣城を占拠するように命じ、委細は山田喜兵衛に伝えさす
【武家】
67歳
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
光秀、元親へ本能寺の変の成功を堺より上ノ坊に伝えさせる。
【元親記】
67歳
1582
天正十年
6月 3日
6月3日
光秀が丹波より夜襲をかけ、本能寺へ押し寄せ信長に腹を切らせた。信長は「城介(信忠)の別心(謀反)か」と聞くと森乱丸が「明智のようだ」と答えた
【三河】
67歳
1582
天正十年
6月 3日
6月3日
蒲生賢秀、信長の上臈衆らを連れて未刻(午後二時前後)に安土を発ち近江日野城へ退く
【公記】
67歳
1582
天正十年
6月 3日
6月3日
光秀、近江に進軍す
【兼二】
67歳
1582
天正十年
6月 3日
6月3日
洛中騒動斜めならずという状況であった
【言経】
67歳
1582
天正十年
6月 3日
6月3日
英俊、京都からの注進で信長は本能寺にて、信忠は二条新御所にて生害したこと、菅屋長頼・村井三名・福富秀勝、小姓衆五、六百名が生害したこと、光秀は坂本城へ入城して大津・松本・瀬田(勢田)に陣取ったこと、藤孝が生害したという風聞があること、この日に大和衆は悉く大安寺・辰市・東九条・法花寺周辺に陣取ったことを知る
【多三】
67歳
1582
天正十年
6月 3日
6月3日
光秀、大山崎へ禁制を発行「離宮八幡宮文書」
【藤田】
67歳
1582
天正十年
6月 3日
6月3日
松平家忠、京都の酒井忠次より家康の命令として西国へ出陣あると通知を受ける。酉刻(午後六時前後)に京都で光秀・信澄謀反により信長自害の旨大野より知らせを受ける
【家忠】
67歳
1582
天正十年
6月 3日
6月3日
信孝、今朝阿波へ渡海のところ、信長生害のため岸和田から摂津へ陣替え
【石山】
67歳
1582
天正十年
6月 4日
6月4日
光秀、近江をことごとく制圧す
【兼二】
67歳
1582
天正十年
6月 4日
6月4日
洛中騒動斜めならずという状況であった
【言経】
67歳
1582
天正十年
6月 4日
6月4日
英俊、順慶のもとへ南方衆と井戸一手衆が集結し、この日光秀のもとへ出陣すると聞く
【多三】
67歳
1582
天正十年
6月 4日
6月4日
家康、蒲生賢秀・氏郷へその城に堅固に立て籠もるとのことはもっともなことだ、光秀成敗は安心すべきと伝える「山中文書」
【愛一】
67歳
1582
天正十年
6月 4日
6月4日
斎藤玄蕃助利堯、美濃瑞龍寺・千手堂寺・崇福寺へ禁制を発行「瑞龍寺文書」「善福寺文書」「崇福寺文書」
【岐一】
67歳
1582
天正十年
6月 4日
6月4日
秀吉、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景に和睦の起請文を与える
【秀吉】
67歳
1582
天正十年
6月 4日
6月4日
家康、伊勢から大浜へ上がり岡崎に到着。松平家忠、迎えに行き、穴山梅雪が切腹したこと、信澄謀反は嘘であることを知る(こちらの手勢と雑兵共二百余で討たせたと追記あり)
【家忠】
67歳
1582
天正十年
この頃 家康は岡崎に戻ると早速依田信蕃に甲斐・信濃へ行き両国共家康の手に入るよう国衆を引き付けるように命じた
【依田】
67歳
1582
天正十年
6月 5日
6月5日
晴豊、光秀が安土へ到着し安土に留まっているとの連絡を受ける
【日々】
67歳
1582
天正十年
6月 5日
6月5日
兼見、光秀が蒲生賢秀より安土城を明け渡され入城したことを知る
【兼二】
67歳
1582
天正十年
6月 5日
6月5日
寛尊、光秀が安土城をはじめとする近江諸城を悉く掌握したと聞く。光秀へ経文・五百疋を、光秀家中の伝五・松田太郎左衛門の二名へも贈物と音信を送付
【蓮成】
67歳
1582
天正十年
6月 5日
6月5日
英俊、昨日山城へ出陣した軍勢が早々と大和に戻って来たこと、大坂で信澄が生害したこと、信澄は光秀の聟で一段逸物であったが信孝・長秀・蜂屋頼隆らの沙汰により自害したこと、伊賀は信雄の被官衆が開城したので無防備状況となり、牢人衆が入城したこと、四日に光秀が安土城に入城したこと、佐和山城には山崎片家が、長浜城へは利三が入城したこと、山城から帰陣した軍勢を順慶が率いて近江に移動し光秀と手を合わせ一味となったことを知る
【多三】
67歳
1582
天正十年
6月 5日
6月5日
秀吉、中川清秀へ福富秀勝の奮戦により信長・信忠は近江膳ヶ崎まで無事に難を逃れたこと、今、備前野殿まで到着し、今日備前沼を通る予定を報告「梅林寺文書」
【秀吉】
67歳
1582
天正十年
6月 5日
6月5日
信澄、大坂城中で信孝・長秀によって生害。首が堺の北の橋に掛けられた
【他会】
67歳
1582
天正十年
6月 5日
6月5日
松平家忠、岡崎城へ出仕したところ早々に帰って出陣準備せよと命じられる。伊勢・尾張より家康へ使者が来ており味方せよとのことであろうと思う
【家忠】
67歳
1582
天正十年
6月 6日
6月6日
兼見、晴豊より召喚状を受けて、即時晴豊に随行し禁裏の誠仁親王へ祗候し対面す。親王、直に兼見へ光秀への御使として下向し京都の治安維持を厳命する旨を命ず。兼見、親王の命を受けて明日早速出発することになり、緞子一巻を預かり禁裏を退出す(注)正本には光秀への命令の内容は記載されていない
【兼二別本】
67歳
1582
天正十年
6月 6日
6月6日
誠仁親王、兼見を召し安土の光秀へ勅使として派遣を命ず
【日々】
67歳
1582
天正十年
6月 6日
6月6日
光秀、近江多賀神社へ禁制を下す「多賀神社文書」
【大十一】
67歳
1582
天正十年
6月 6日
6月6日
光秀、賀茂別雷神社へ禁制を下す「賀茂別雷神社文書」
【大十一】
【藤田】
67歳
1582
天正十年
6月 6日
6月6日
秀吉、姫路城へ入城「松井家譜」
【大十一】
67歳
1582
天正十年
6月 6日
6月6日
秀吉、未刻(午後二時前後)、備中高松を撤収し備前沼に至る (注)日時は六月五日秀吉書状や六日杉若無心書状の記述に合わない
【惟任】
67歳
1582
天正十年
6月 6日
6月6日
小早川隆景、桂左太・岡宗左(毛利氏家臣)へ信長父子が一日討ち果て、二日に大坂で信孝が自害し、信澄・光秀・勝家が共謀して討ち果したと報ず「萩藩閥閲録」
【大十一】
67歳
1582
天正十年
6月 6日
6月6日
毛利輝元、満願寺へ信長親子三名が戦死した件は信澄に光秀・勝家が共謀して起こした事件であること、秀吉とは和談を締結した旨を報ず「毛利氏四代実録考証論断」
【大十一】
67歳
1582
天正十年
6月 6日
6月6日
家康、岡部正綱へ甲斐巨磨郡下山へ行き、城を普請すべきことを命ず。委細は左近左衛門が申す「寛永諸家系図伝」
【徳川】
67歳
1582
天正十年
6月 6日
6月6日
松平家忠、八日に東三河衆が岡崎へ来るので一報あり次第出陣ある旨を酒井忠次より知らされる
【家忠】
67歳
1582
天正十年
6月 7日
6月7日
兼見、御使として早々に安土へ向けて京都を出発。安土城に入城し光秀と対面、御使の趣旨を伝達し、朝廷より預かった巻物等を渡す。光秀は兼見へ今度の謀叛の存分を雑談し、蒲生賢秀が未だ出仕していないことを伝える。兼見、安土城を出て城下の町屋に宿泊す。錯乱していて不便であった(注)正本では兼見と光秀のやり取りを削除している
【兼二別本】
67歳
1582
天正十年
6月 7日
6月7日
光秀、摂津開運寺へ禁制を下す「渡辺重雄氏所蔵文書」
【藤田】
67歳
1582
天正十年
この頃 オルガンティーノ、光秀の小姓に高山右近宛てにポルトガル語で「光秀に絶対味方するな」と書いた書状を偽って渡す
【日本】
67歳
1582
天正十年
6月 8日
6月8日
兼見、上洛するため早天に安土を発足す。光秀上洛のため、明日の摂津への軍事行動に備え明智軍は安土城を出動。先勢は山科・大津に布陣していた。兼見、吉田郷に帰宅し休息を取った後、誠仁親王に伺候して直接委細を上奏す(注)正本では、兼見が誠仁親王へ光秀との談合内容を上奏したことを削除
【兼二別本】
67歳
1582
天正十年
6月 8日
6月8日
敵の軍勢が非常な速さで接近しつつあるとの伝言が京都から飛脚によって届けられ、光秀は直ちに摂津・河内へと引き返すことにした
【日本】
67歳
1582
天正十年
6月 8日
6月8日
兼見、安土より上洛し、光秀よりの朝廷への御礼申入の意向などを上奏
【日々】
67歳
1582
天正十年
6月 8日
6月8日
秀吉家臣杉若無心、藤孝の家老松井康之へ秀吉が六日に姫路入城したこと、九日に出陣することを通達「松井家譜」
【大十一】
67歳
1582
天正十年
6月 8日
6月8日
毛利輝元、村上元吉へ秀吉と和睦して両軍撤退したこと、信長父子三人が京都で自害したこと、不慮の吉事とはこのことと伝える「村上文書」
【大十一】
67歳
1582
天正十年
6月 8日
6月8日
順慶、伊賀の喜多村出羽守へ家康の伊賀越えへの協力を賞す
【三宅】
67歳
1582
天正十年
6月 9日
6月9日
兼見、早々に光秀から自筆の到来予告状を受ける。光秀、未刻(午後二時前後)に上洛す。兼見、光秀を迎える為に京都白川まで出向く。公家衆・摂家・清花が悉く迎え出ており、兼見はこの旨を光秀に通知したところ、光秀は無用であると辞退。光秀、両御所(正親町天皇・誠仁親王)へ銀子五百枚、京都五山と京都大徳寺へ銀子百枚ずつ、兼見へ銀子五十枚を進上。光秀、兼見邸小座敷に暫く逗留し方々注進を受けて手配する。兼見、光秀へ夕食を進上。紹巴・昌叱・心前が相伴した。光秀、夕食後に京都下鳥羽に出陣。兼見は誠仁親王と対面し、委細申入れた。光秀への奉書が認められたので、兼見はその奉書を携えて即時下鳥羽の光秀陣所へ下向し、銀子の御礼と奉書を光秀へ示した(注)正本では光秀が両御所へ銀子を進上した件、兼見が下鳥羽の光秀陣所へ行った件を削除
【兼二別本】
67歳
1582
天正十年
6月 9日
6月9日
晴豊、光秀が河内へ軍勢を派遣したと聞く。光秀、兼見を来訪し禁裏銀子五百枚を両御所へ進上。朝廷は光秀へ京都の治安維持をかたく申付け、文にて光秀の銀子進上を賞す。また朝廷は兼見を下鳥羽南殿寺の光秀本陣へ派遣する
【日々】
67歳
1582
天正十年
6月 9日
6月9日
英俊、河内へ筒井軍が出撃する予定であったが俄かに延引したこと、郡山城に兵粮が搬入されたことを知る。どのように考えが変わったのか不審に思う
【多三】
67歳
1582
天正十年
6月 9日
6月9日
秀吉、信孝へ明石に着陣、明後日尼崎へ着く予定を伝える「坂井正秋所蔵文書」
【秀吉】
67歳
1582
天正十年
6月 9日
6月9日
光秀、京都大徳寺及び門前町に禁制を下す「大徳寺文書」
【大十一】
【藤田】
67歳
1582
天正十年
6月 9日
6月9日
光秀、藤孝・忠興父子へ軍勢の派遣を要請。五十日、百日の内に近国を固めた後には十五郎(光慶)、与一郎(忠興)に政権を引き渡す所存と伝える「細川家文書」
【大十一】
【亀岡】
【藤田】
67歳
1582
天正十年
6月 9日
6月9日
松平家忠、西陣の出陣少し延期の命令を受ける。水野忠重が京都に隠れていて帰ってきたことを知る
【家忠】
67歳
1582
天正十年
この頃 寛尊、秀吉が毛利と和睦して近日上洛するという噂が頻繁であること、大坂では信澄と信孝が談合したが人数がそろわないこと、光秀よりの合力要請の使者が切々と到来し、五日より伝五が逗留すること、順慶より秀吉へ使者が派遣され入魂となったという噂があること、光秀が京都山崎八幡の洞ヶ峠に着陣したことを聞く
【蓮成】
67歳
1582
天正十年
6月10日
6月10日
英俊、先日山城へ出撃した筒井軍が大和へ帰還したことを知り、秀吉が近日中に上洛することが決定したので順慶が覚悟替したとみる
【多三】
67歳
1582
天正十年
6月10日
6月10日
兼見、光秀が摂津へ向けて軍事行動を起こしたという情報に接す(注)正本では摂津を河内と書き換え
【兼二別本】
67歳
1582
天正十年
6月10日
6月10日
毛利輝元、福井十郎兵衛へ秀吉と和睦したこと、信長父子三人を光秀が討ち果したことを伝える
【大十一】
67歳
1582
天正十年
6月10日
6月10日
毛利輝元、岡宗左衛門へ信長父子三人討ち果たしたことは予想外のことで大利を得たと伝える「毛利氏四代実録考証論断」
【大十一】
67歳
1582
天正十年
6月10日
6月10日
秀吉、中川清秀へ明日摂津西宮辺りまで行って着陣の予定を告げる「福井市愛宕坂茶道美術館所蔵文書」
【秀吉】
67歳
1582
天正十年
6月10日
6月10日
松平家忠、十二日に出陣の旨酒井忠次より知らされる
【家忠】
67歳
1582
天正十年
* 6月10日
*6月10日
長宗我部元親家臣中与一兵衛(中島重房?)、石谷頼辰の堺からの書状に返書。早々に御上洛があるのは目出度い、元親の身上にもかかわることであろうか、追々慶事を申し上げることを披露願いたいと告げる(年未詳)
【石谷】
67歳
1582
天正十年
6月10日
6月10日
家康、本多信俊を織田信忠家臣の甲斐城主河尻秀隆のもとへ送り込む
【当代】
67歳
1582
天正十年
6月11日
6月11日
光秀、摂津より下鳥羽の本陣に戻り淀城普請に着手す
【兼二別本】
67歳
1582
天正十年
6月11日
6月11日
英俊、藤田伝五が光秀の命を受けて順慶を訪問し合力の説得をするも同心を得られず、木津まで引き返したが順慶より呼び戻されたこと、順慶は既に秀吉へ村田某・今中某を使者として派遣し、合力の誓紙を提出したことを知る
【多三】
67歳
1582
天正十年
6月11日
6月11日
秀吉、松井友閑へ一昨日明石を出発し、淡路洲本城を攻め落としたこと、夜中に兵庫まで着陣すること、直ちに尼崎まで打ち出すつもりであることを告げる「萩野由之氏所蔵文書」
【秀吉】
67歳
1582
天正十年
6月11日
6月11日
松平家忠、人足を出したが出陣は十四日まで延期の知らせがあり呼び戻す
【家忠】
67歳
1582
天正十年
6月12日
6月12日
光秀、紀伊雑賀五郷土橋平次へ高野山・根来寺・雑賀衆らが相談し和泉・河内へ出撃することを督促、近江・美濃はことごとく平定したこと、義昭上洛の要請は承諾する旨を返書「森文書」
【岐補】
【織下】
【藤田】
67歳
1582
天正十年
6月12日
6月12日
家康、甲賀の和田八郎(定教)へ今度の忠節を讃えて誓書を与える
【德川】
67歳
1582
天正十年
6月12日
6月12日
家康、曾根昌世・岡部正綱に命じて甲斐山梨郡の地を加賀美右衛門へ与える「古今消息集」
【大十一】
【德川】
67歳
1582
天正十年
6月12日
6月12日
世上雑説が飛び交う状況である
【日々】
67歳
1582
天正十年
6月12日
6月12日
兼見、光秀の敵が山崎より出勢し、勝龍寺城の西辺りに於いて足軽勢が遭遇し鉄放戦があったこと、近辺に放火したことを知る
【兼二】
67歳
1582
天正十年
6月12日
6月12日
英俊、秀吉が既に摂津まで猛勢にて迫っていること、また家康が既に安土に着陣したと聞く。明智軍が石清水八幡宮・山崎周辺に布陣していたが、淀周辺まで撤退したと聞く。昨日順慶が郡山城で国中の与力を集結させて血判起請を提出させたと聞く
【多三】
67歳
1582
天正十年
6月12日
6月12日
寛尊、大坂にて信澄が生害したことを知る。その理由は惟任縁辺の故か謀反御存知かというものであった
【蓮成】
67歳
1582
天正十年
6月12日
6月12日
秀吉、摂津富田に着陣
【他会】
67歳
1582
天正十年
6月13日
6月13日
早天に光秀の陣所が敗軍したと聞く。京中は錯乱状態
【日々】
67歳
1582
天正十年
6月13日
6月13日
光秀、山崎において合戦し即時敗北。伊勢貞興以下三十余人討死。信孝・秀吉ら、南方より進軍し明智軍と合戦す。二条屋敷放火。首本能寺に曝される
【言経】
67歳
1582
天正十年
6月13日
6月13日
宗及、光秀が山崎の戦いで敗れ、勝龍寺城に逃げ込んだが、夜に抜け出し途中で討ち取られたと聞く
【他会】
67歳
1582
天正十年
6月13日
6月13日
英俊、勝龍寺城落城、光秀は坂本退くと聞く
【多三】
67歳
1582
天正十年
6月13日
6月13日
摂津衆三人は秀吉が三レグワ(十五キロ)ほどの所まで来ていることを知り、中川清秀が山の手、池田恒興が淀川沿い、高山右近が中央の山崎村へ進軍した。明智軍は八千ないし一万、羽柴軍は二万以上、高山右近は一千に満たない軍勢。右近は光秀が村の門まで進軍してきたため秀吉軍の到着を待てずに門を開けて明智軍を攻撃し二百を討った。清秀・恒興軍も参戦して明智軍は逃げ始めた。これがきっかけとなって正午に明智軍は敗退。敗軍は午後二時に京を通り、通過に二時間要したが、盗賊らに襲われて坂本に着けなかった者が多かった。光秀は午後勝竜寺城へ入り、羽柴軍は全軍で取り囲み、都に聞こえるほど終夜銃を撃った。光秀は宵の口に坂本に向かって逃げ、農夫らに殺されて首を切られた
【年報】
67歳
1582
天正十年
6月13日
6月13日
この申刻(午後四時前後)より京都山崎に於いて鉄放の音が数刻にわたり止まなかった。兼見、京都五条口より落武者たちが愛宕郡白川一乗寺周辺へ逃走し途中にて一揆に遭遇した模様で或者討捕、或者剥取のこと、京都からの通知により山崎表に於いて合戦があり光秀が敗軍して勝龍寺城に入ったこと、明智軍の戦死者は数知れないことを知る。兼見、堅く自宅の門を閉ざし門内に於いて用心していたが、吉田郷へは落人が一人も到来しなかった。山崎合戦での南方の諸勢とは神戸信孝・秀吉・池田恒興・長秀・蜂屋頼隆・堀秀政・矢部家定・中川清秀・多羅尾光俊らで、二万余の軍勢で勝龍寺城を包囲したことを知る
【兼二】
67歳
1582
天正十年
6月13日
6月13日
秀吉、浅野長政へ戦況を報ず。晩に山崎に陣取り、高山右近・中川瀬兵衛・久太郎(堀秀政)勢へ明智軍段々に人数をそろえて切りかかる所、道筋は右近・瀬兵衛・久太郎切り崩し、南から池田紀伊守・秀吉、山手は羽柴秀長・黒田官兵衛切り崩し、勝竜寺城を取り囲んだ「浅野家文書」「金井文書」
【大十一】
【愛二】
67歳
1582
天正十年
6月13日
6月13日
秀吉・長秀、順慶へ明日山城西岡へ陣替えするので山城へ出陣すべき旨を伝える「名張藤堂家文書」
【秀吉】
67歳
1582
天正十年
6月13日
6月13日
松平家忠、西陣出陣のために岡崎城へ出仕
【家忠】
67歳
1582
天正十年
6月13日
6月13日
光秀、山崎の戦いで敗北。坂本城へ向かう途中の山科にて百姓等に打ち殺される。歳は67であった
【当代】
67歳
1582
天正十年
6月14日
6月14日
信孝・秀吉、青龍寺(勝龍寺)表で明智軍を討ち果たし、上洛
【日々】
67歳
1582
天正十年
6月14日
6月14日
光秀、昨夜勝龍寺城を退散す。津田越前入道、兼見を訪問。この度光秀が兼見邸に到来し、禁裏と京都五山へ銀子配分した件が織田側で執沙汰され曲事とされているので織田三七郎御使として糺明のために到来したという。禁裏へ参内し誠仁親王と対面し、親王へ詳細を上奏した。親王、信孝陣所へ御使を派遣す。施薬院全宗に相談したところ秀吉へ早速事情を申し入れるべきであるとのことであった。全宗使者・兼見使者、桑原貞也のもとへ派遣。兼見、使者より桑原貞也の返事を受けた。その内容とは、津田越前入道は信孝が派遣したのではなく信孝へ問い合わせたところ、津田越前入道の件は無御存知きことで、津田越前入道に問責の使者を派遣したところ、この朝より外出し行方不明とのこと。もし再度津田越前入道が到来した場合には留めて織田側に注進すべきという存分を受けて兼見は安堵した
【兼二】
67歳
1582
天正十年
6月14日
6月14日
英俊、井戸良弘が裏帰って山城槙島城を順慶に渡すため早旦に井戸重郎と一手衆を退城させたこと、越智・楢原・万歳以下悉く出立したこと、明日順慶の出京が決定したと聞く
【多三】
67歳
1582
天正十年
6月14日
6月14日
寛尊、摂津衆・池田恒興・秀吉が上洛し京都山崎に於いて合戦があったこと、明智軍が敗軍し即時落居したこと、勝龍寺城も陥落したこと、秀吉の軍勢が京着したことを知る。光秀が醍醐で生害し伝五も腹切したことを知る。数万人が戦死し、山崎から醍醐周辺まではあちこちに屍が散乱しており数は不明であることを知る
【蓮成】
67歳
1582
天正十年
6月14日
6月14日
光秀の首が本能寺に届いた。首三千が曝された
【他会】
67歳
1582
天正十年
6月14日
6月14日
家康、美濃の吉村又吉郎(氏吉・脇田城主)へ信長の弔いのため上洛するので今日鳴海まで出陣したので協力するよう求める「吉村文書」
【德川】
67歳
1582
天正十年
6月14日
6月14日
家康、佐藤六左衛門尉(秀方・鉈尾山城主)へ光秀を討ち果たす覚悟につき、日根野弘就・金森長近と共に上洛に協力すべきを命ず「譜牒余録」
【德川】
67歳
1582
天正十年
6月14日
6月14日
本多忠勝、高木権右衛門(貞利・今尾城主)へ家康が京都へ攻め上る意思がある旨を通知(光秀討ちは記していない)「高木文書」
【德川】
67歳
1582
天正十年
6月14日
6月14日
伊勢から白子まで家康の御供をした伊賀者が尾張鳴海にて家康に召抱えられた「伊賀者由緒記」
【大十一】
67歳
1582
天正十年
6月14日
6月14日
松平家忠、尾張鳴海まで出陣
【家忠】
67歳
1582
天正十年
6月14日
6月14日
明智秀満、安土城を退去し、明智の婦女子らのいる坂本城へ入る。信雄、安土城の天主に放火させ、市にも火をつけるように命ず。秀吉軍が坂本城に到着するが、既に多数の者が城から逃亡していた
【年報】
67歳
1582
天正十年
6月14日
6月14日
河尻秀隆、家康から派遣された本多信俊を殺害
【三河】
67歳
1582
天正十年
6月15日
6月15日
兼見、安土城が焼失し安土山下からの類火と聞く。神戸信孝へ御礼の為に吉田兼治を派遣。光秀が京都醍醐周辺にて一揆に討ち取られたこと、光秀の首級は村井清三が神戸信孝のもとへ持参したこと、高山次右衛門が坂本城天主に放火して切腹したと聞く
【兼二】
67歳
1582
天正十年
6月15日
6月15日
晴豊、勧修寺家領の百姓が光秀の首を届け出たこと、本能寺に光秀むくろと首が晒され見物数知れず、三千程の首があることを聞く
【日々】
67歳
1582
天正十年
6月15日
6月15日
英俊、十二日に明智軍が千余人損傷し、わずか三十余名が坂本へ帰ったこと、昨日より秀吉が大津まで進撃したこと、今日比叡山の東の方が大焼というので坂本城が焼けたこと、今朝順慶自身が千余の軍勢を率いて出陣したこと、秀吉は順慶の行動を曲事としたこと、先日の合戦にて光秀の討死は確実であろうことを聞く
【多三】
67歳
1582
天正十年
6月15日
6月15日
言経、光秀が醍醐の辺りで郷人一揆に討たれ、首が本能寺に届けられたことを知る
【言経】
67歳
1582
天正十年
6月15日
6月15日
北条氏政、幸田某をして渡邊庄左衛門尉を甲斐へ派遣し工作を命ず「諸国古文書抄」
【德川】
67歳
1582
天正十年
6月15日
6月15日
松平家忠、旗本へ出向いたところ光秀が京都で信孝・秀吉・長秀・池田恒興に討ち取られたことを伊勢織田家より注進があったことを聞く
【家忠】
67歳
1582
天正十年
6月15日
6月15日
明智秀満、一族の婦女・小児を殺し、坂本城に放火して切腹。明智の二子(長子は十三歳)は死んだというが逃げたという者もある
【年報】
67歳
1582
天正十年
6月16日
6月16日
兼見、神戸信孝・其外諸勢が安土城に下向したこと、光秀の首・胴体が本能寺に曝されたことを知る
【兼二】
67歳
1582
天正十年
6月16日
6月16日
松平家忠、明日津嶋へ進軍すると知らされる
【家忠】
67歳
1582
天正十年
6月17日
6月17日
宗及、利三が車ざた(合議による裁定)の上、即、首を斬られたことを知る
【他会】
67歳
1582
天正十年
6月17日
6月17日
言経、今度謀叛随一の利三が近江堅田に牢籠しているところを捕獲され、洛中を車にて引き回され六条河原で誅されたことを知る
【言経】
67歳
1582
天正十年
6月17日
6月17日
早天に信長討ち談合衆の利三が生け捕られて車にて京都町中を引き回された。晴豊は見物したが、見物人は予想以上に多かった
【日々】
67歳
1582
天正十年
6月17日
6月17日
英俊、光秀が十二日に勝龍寺城を逃れ出て、山科で一揆に叩き殺され、首も胴も京都へ運ばれたことを知る。光秀は細川兵部大夫の中間であったのを取り立てられ、信長の厚恩により召抱えられたが、大恩を忘れたので天命であった。利三が生け捕られて安土に送られたと聞く
【多三】
67歳
1582
天正十年
6月17日
6月17日
家康、曾根昌世・岡部正綱らをして窪田助丞(正勝)へ甲斐北巨摩郡を安堵する「古文書」
【大十一】
【德川】
67歳
1582
天正十年
6月17日
6月17日
美濃の遠藤秀繕、安養寺へ本能寺の変後の諸状況を報告、安土は光秀の子の自然が立て籠もっているなど「安養寺文書」
【愛一】
【岐一】
67歳
1582
天正十年
6月17日
6月17日
酒井忠次の手勢が津嶋へ陣替えした
【家忠】
67歳
1582
天正十年
6月18日
6月18日
兼見、利三が捕獲されて上洛し洛中を車に乗せられて引き回され六条河原にて刎首されたこと、光秀と同様に本能寺に曝されたこと、堅田の猪飼野半左衛門が捕縛したことを知る
【兼二】
67歳
1582
天正十年
6月18日
6月18日
英俊、本能寺に光秀を始め首三千程が曝され、十七日に利三が京都を引き回されて斬首されたと聞く
【多三】
67歳
1582
天正十年
6月18日
6月18日
光秀伯父の妻木藤右衛門、近江坂本西教寺にて自害「寛永諸家系図伝」「寛政重修諸家譜」
【大十一】
67歳
1582
天正十年
6月18日
6月18日
甲斐の国衆一揆、河尻秀隆を殺し織田軍三千人を討ち取る。甲斐織田軍は崩壊
【三河】
67歳
1582
天正十年
6月19日
6月19日
秀吉、高木彦左衛門(貞久)へ十三日に明智と一戦し悉く討ち果たし首三千余討取ったこと、光秀は山科藪中に隠れていたところを百姓が首を切り捨て置いたのを見つけたこと、利三は二人の子と逃げる途中を郷人が子の首を切り利三を生け捕り、車で引きまわしの上、首を切ったこと、坂本城では光秀の子二人と明智彌平次(秀満)が切腹し天主が焼け落ちて死んだこと、近江の光秀加担者は首を切るか助命して召抱えるかしたこと、明日美濃へ入る予定であることを告げる「高木文書」
【大十一】
67歳
1582
天正十年
6月19日
6月19日
松平家忠、秀吉より上方のことは片付いたので早々に帰陣せよと申入れがあったため、津嶋から鳴海まで帰った
【家忠】
67歳
1582
天正十年
6月21日
6月21日
家康、遠江州・東三河衆を引き連れて三河へ帰陣
【家忠】
67歳
1582
天正十年
6月22日
6月22日
兼見、信孝の諸勢が美濃へ下向することを知る
【兼二】
67歳
1582
天正十年
6月23日
6月23日
兼見、二十二日より桑原貞也・村井清三が奉行となって粟田口の東に光秀・利三の首塚を昨日から築造していることを知る
【兼二】
67歳
1582
天正十年
6月25日
6月25日
秀吉、高田長左衛門へ尾張・美濃における光秀残党掃討終了したこと、近日中に上洛し信長の葬儀の執行することを通達「古今消息集六」
【愛一】
67歳
1582
天正十年
6月26日
6月26日
秀吉、一益へ山崎での合戦、光秀の死、坂本城の落城、利三捕縛、近江平定(以上は六月十九日付け高木彦左衛門宛書状とほぼ同文)、阿閉父子三人及び一類女子共首を刎ねたこと、尾張を平定して清須城に逗留していることを告げる「大阪城天守閣所蔵文書」
【秀吉】
67歳
1582
天正十年
6月28日
6月28日
晴豊、明智秀満の親が生け捕りにされたと聞く
【日々】
67歳
1582
天正十年
6月29日
6月29日
晴豊、秀満の女房衆「北□の姉」が生け捕りにされたと聞き引き取ることにする。継子二人は親元に引き取らせることにする
【日々】
67歳
1582
天正十年
6月29日
6月29日
兼見、福知山城に在城していた明智秀満の親が捕獲され上洛したことを知る
【兼二】
67歳
1582
天正十年
7月 2日
7月2日
言経、粟田口に光秀の首と胴がつながれ張付けにされたこと、利三も同様にされたこと、その他首三千余の首塚を同所に築いたこと、今日明智秀満の父六十三歳が召し取られ同所に張付けにされたことを知る
【言経】
67歳
1582
天正十年
7月 2日
7月2日
兼見、明智秀満の親が粟田口で張付けにされたことを知る
【兼二】
67歳
1582
天正十年
7月11日
7月11日
秀吉、藤孝・忠興へ信長不慮の事態に対して比類無き覚悟頼もしく、身上見放すことはない旨の起請文を提出「細川家文書」
【大十二】
【秀吉】
【細川】
67歳
1582
天正十年
7月11日
7月11日
秀吉、松井康之へ忠興への加増分の三分の一の領地を与える旨を命ず「細川家文書」
【大十二】
【秀吉】
【細川】
67歳
1582
天正十年
7月11日
7月11日
秀吉、鍋島直茂へ本能寺の変により毛利氏と和睦締結したこと、明智与党全滅磔刑に処したこと、国々へ従来の如く静謐を申し付けて九日に上洛したこと、近日中の姫路帰城を通知。南蛮帽子の贈答を謝す「鍋島家文書」
【大十二】
67歳
1582
天正十年
7月24日
7月24日
兼見、秀吉が丹波亀山へ下向と聞く
【兼二】
67歳
1582
天正十年
8月 3日
8月3日
宗及、明智掃部、道設を招いて茶会
【自会】
67歳
1582
天正十年
8月13日
8月13日
秀吉、浅野長吉・杉原家次を京都奉行に任命
【兼二】
67歳
1582
天正十年
10月15日
10月15日
秀吉、大徳寺において信長の葬儀を執り行う
【兼二】
【言経】
【惟任】
67歳
1582
天正十年
11月 1日
11月1日
秀吉、石川数正へ勝家・信孝の謀反への対応を家康へ説明するよう返報
【秀吉】
67歳
1582
天正十年
12月 4日
12月4日
前の美濃守護土岐頼芸、武田滅亡後に頼った稲葉一鉄の領地美濃岐礼村で没す「稲葉家譜」
【大十二】
67歳
1583
天正十一年
67歳
1583
天正十一年
1月20日
1月20日
利三の子斎藤利宗、石谷頼辰へ長宗我部元親が利三の妻と子を稲葉一鉄のもとから引取るとのことだが稲葉一鉄の意向によると伝える「石谷家文書」
【石谷】
67歳
1583
天正十一年
2月 5日
2月5日
兼見、信長末子で秀吉の養子となっていた秀勝の病気平癒を祈祷。秀勝は亀山城におり、昨冬の出陣以来患っている
【兼見五】
67歳
1583
天正十一年
2月26日
2月26日
宗及、若狭屋宗啓を招いて茶会、用いた珠徳の茶杓は以前光秀へ貸したものが宗啓に返却され、堺へ来る際に持参したもの
【自会】
67歳
1583
天正十一年
3月15日
3月15日
稲葉一鉄、石谷頼辰へ利三の妻と連れ子六七人を匿っているが見捨て難く自分の側に置くと告げる「石谷家文書」
【石谷】
67歳
1583
天正十一年
3月18日
3月18日
斎藤利宗、石谷頼辰へ稲葉一鉄が見捨て難いと言って土佐行きを許さないと伝える「石谷家文書」
【石谷】
67歳
1583
天正十一年
4月24日
4月24日
秀吉、北ノ庄で勝家を滅ぼす
【惟任】
【秀吉】
67歳
1583
天正十一年
6月 4日
6月4日
木俣守勝、石谷頼辰へ長宗我部元親が徳川家康に忠節を尽くすように求める「石谷家文書」
【石谷】
67歳
1583
天正十一年
6月 9日
6月9日
明智與三兵衛三存、某(宛所欠)へまくわ瓜一籠の礼を述べる「常在寺文書」
【岐一】
67歳
1587
天正十五年
67歳
1587
天正十五年
1月22日
1月22日
元親、斎藤利宗へ戸次川で頼辰が討死したこと、藤堂高虎が上洛のため土佐に宿泊するので、利宗の母への取り持ちを依頼。津戸右衛門は異議無い旨を伝える
【石谷】
67歳
1587
年未詳
67歳
1587
年未詳
? 3月19日
?3月19日
光秀、児玉作右衛門へ二十二日に山田孫六を派遣すること、平左衛門からの返事は彌平次(明智秀満)によく聞くことを告げる「保阪潤治氏所蔵文書」(年未詳)
【大十一】
【藤田】
67歳
1587
年未詳
? 6月11日
?6月11日
光秀、大中寺へ近江佐川・衣川・穴太の人足が来ないことへの処置を命ずる「真田家文書」(年未詳)
【藤田】
67歳
1587
年未詳
? 6月29日
?6月29日
光秀、某(一文字目は三)へ帰陣するが家中の者どもの疲労が激しいこと、息子が成人の後は長久に奉公すべきように思うこと、なおこの書は悪筆につき他に見せぬように伝える「前田家所蔵文書」(年未詳)
【大十一】
【藤田】
67歳
1587
年未詳
? 8月23日
?8月23日
光秀、山城山科西野村へ公の物は本願寺に運上すべき旨を申付ける「荻野研究室収集文書」(永禄十一~元亀元、あるいは天正八以降)
【藤田】
67歳
1587
年未詳
? 8月27日
?8月27日
光秀、某(宛名紛失)へ藤堂兵庫知行分は御料所として代官に尼子殿が仰せ付けられたので年貢・公事など相違ないように命ず「古今消息集」(年未詳)
【織下】
【藤田】
67歳
1587
年未詳
? 9月15日
?9月15日
光秀、村上紀伊入道へ贈り物の礼を述べる「五苗財団文書」(年未詳)(年未詳)
【亀岡】
【藤田】
67歳
1587
年未詳
? 12月16日
?12月16日
光秀、西某へ今後も忠節が肝要の旨を伝える「南行雑録」(年未詳)
【藤田】
67歳
1587
年未詳
67歳
1587
年未詳
? 2月17日
?2月17日
光秀(十兵衛)、松永久秀へ直接会って話したいが、はやりの咳を患っているので治り次第連絡する旨を返信する「大方家文書」(年未詳)
【藤田】
67歳
1587
年未詳
? 3月28日
?3月28日
光秀(十兵衛)、山城東寺へ乱妨狼藉停止の朱印が発行されているので従わない者がいれば注進すべき旨を通達「東寺文書」(年未詳)
【藤田】
67歳
1587
年未詳
? 4月 2日
?4月2日
光秀(十兵衛)・藤孝、山城天龍寺へ違亂あっても許容してはならない旨を通達「天龍寺文書」(天正三年七月まで)
【織補】
【藤田】
67歳
1587
年未詳
? 4月 6日
?4月6日
光秀(十兵衛)、河井右近助へ坂本の者どもの山田宿の手配を申付ける「輯古帖」(元亀三年から天正三年七月まで)
【大十一】
【藤田】
67歳
1587
年未詳
? 6月14日
?6月14日
光秀(十兵衛)、奥村源内へ近江の四村の舟役について依頼する「益田家文書」(天正三年以前)
【藤田】
67歳
1587
年未詳
? 7月26日
?7月26日
光秀(十兵衛)、河井右近丞へこちらの望みが叶うならば大神楽を催す旨を伝える「輯古帖」(年未詳)
【大十一】
【藤田】
67歳
1587
年未詳
? 12月14日
?12月14日
光秀(十兵衛)、光明寺へ寺領についての裁定を通達「粟生光明寺略記」(年未詳)
【藤田】
67歳
1587
年未詳
?
?
?記載なし 光秀(明智)、書状で委細拝見し依頼を心得た旨を返書(かな文)「宝鏡寺文書」(天正三以前)
【藤田】
67歳
1587
年未詳
67歳
1587
年未詳
? 1月25日
?1月25日
光秀(惟日)、野与兵へ(前欠)返書を与える「岡本文書」(年未詳)
【藤田】
67歳
1587
年未詳
? 4月21日
?4月21日
光秀(日向守)、古賀山舟斎へ書物品々が二十三日に届くのを楽しみにしていることを伝える「今枝氏古文書」(年未詳)
【藤田】
67歳
1587
年未詳
? 12月24日
?12月24日
光秀(日向守)、岡本主馬助・岡本新三郎・岡本甚助・岡本綾次郎へ有吉平吉身上について通達「大阪天守閣所蔵文書」(年未詳)
【藤田】
67歳
1587
年未詳
? 9月21日
?9月21日
明智与三兵衛子愛・同藤左衛門行隆、村山宮内少輔へ今度東筋出陣につき中嶋喜兵衛を使いにもらい委細承知した、御用の儀は疎略にしない旨を返書「村山文書」(年未詳)
【岐一】
67歳
1587
年未詳
? 11月11日
?11月11日
光秀、某(宛所欠)へもらった書状を読んだこと、来春までに必ず工夫して報告すべき旨を返信す「中野文書」(天正六~九年カ)
【藤田】
67歳
1587
年未詳
? 11月20日
?11月20日
信長、藤孝へ度々の注進感悦、よく惟任(光秀)と相談せよと指示「細川家文書」(天正六年十一月三十日)(年未詳)
【織下】
【細川】
【藤田】
67歳
1587
年未詳
? 12月20日
?12月20日
光秀、伊藤同名中へ鵜川の年貢米のことで通達「伊藤晋氏所蔵文書」(天正七~九カ)
【藤田】
67歳
1582
天正十年
0年目
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
明智勢、本能寺を取り囲み信長を討つ。信長、初めは弓を取って射たが、その後槍で戦い、肘に槍疵を被って引き退き、そばにつきそっていた女性たちを追い出し、御殿に火を懸け、殿中奥深く入り切腹。明智勢、引き続き二条新御所へ立て籠もった信忠を討つ。光秀、 辰刻(午前八時前後)、信長父子以下を討ち果たし落人探索を指示。山岡美作(景隆)・対馬 (景佐)兄弟が勢田の橋を焼き落としたので、光秀は坂本へ帰城。巳刻(午前十時前後)、安土へ光秀謀反が伝わる。夜になって山崎片家が自邸を焼き払い居城山崎城へ退去した
【公記】
0年目
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
明智彌平次光遠(秀満)・明智勝兵衛・明智治右衛門・明智孫十郎・斎藤内蔵助利三を頭として取り巻いた。信長、弓を取り射伏せた後、十文字の鎌で戦い、数ヶ所疵を負って引き退き、美女たちをことごとく刺し殺して自ら火を懸け切腹した
【惟任】
0年目
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
光秀、京都本能寺に於いて信長を焼き討ち。晴豊、二条新御所へ行ったが軍勢が取り巻いて入れず、明智家臣の井上に頼んだが無理だった。誠仁親王、供奉衆と共に漸く二条御所を脱出。夕方に屋敷共を見物。首・死人数限りなしという状態であった
【日々】
0年目
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
光秀、卯刻 (午前六時前後)に本能寺の信長を謀反により襲撃し信長は即時に討死す。信忠、二条新御所へ立て籠もった所へ明智軍が押し寄せ、討死。貞勝以下悉く討死。二条新御所の誠仁親王は辰刻(午前八時前後)に内裏へ移る。洛中騒動
【言経】
0年目
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
順慶、今朝上洛の途中、信長は急に西国出陣とて既に安土へ帰った由につき帰国した。信長、京都で生害、信忠る生害、光秀と信澄が申し合わせた(「これは嘘」と追記あり)。今暁のことが昼十時過ぎに伝わった
【多三】
0年目
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
光秀、早天に本能寺を襲撃。信長即時生害。信忠、二条新御所に立て籠もり生害す。貞勝親子三名、馬廻衆ら討死す。誠仁親王ら禁裏に避難。紹巴が輿を持ってきてお乗せした。本能寺・二条新御所等炎上、洛中・洛外驚騒。光秀は悉く討ち果たし未刻(午後二時前後) 大津へ下る。兼見、粟田口で光秀と対面し在所の安全を頼んだ(注)正本では紹巴が輿を持ってきた話、兼見が光秀に対面した話を削除
【兼二別本】
0年目
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
寛尊、信長が本能寺で生害と聞く。光秀、未明に謀反を為して四方を取り囲み攻撃する。光秀は今度西国への暇乞に人数をお目に懸けると謀略を企てた。信忠の滞在する妙覚寺へ押し寄せ、信忠、既に本能寺落居という注進を受けて二条新御所に移る。明智軍、二条新御所を包囲。信忠、籠もった二条新御所内より誠仁親王を御所外へ脱出させる。信忠軍、御所内より切って出て、三度も寄手を退散させるが、多勢に無勢で信忠らは討死す。これにより洛中洛外大騒動となる。この日中程に奈良へ注進があった
【蓮成】
0年目
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
信長、背に刺さった矢を抜き薙刀で戦ったが腕に弾創を受けて部屋に引き籠もった。切腹したとも火を放って死んだともいう。信忠は親王の邸へ移り、親王は光秀の許可を得て内裏へ移った。信忠は一時間以上戦ったが明智軍が邸内に火を放ち焼死した。巡察師が信長に贈った黒人奴隷が信長の死後に信忠の邸で戦い、降伏し京都の教会へ身柄を預けられた
【年報】
0年目
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
朝、家康火急に上洛。二十九日に信長が上洛したと聞きあわてて上洛とのこと(これは信長自害を知って計略を言って上洛したと追記あり)
【石山】
0年目
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
家康、堺見物が終了した旨信長へ報告するため茶屋四郎次郎を使いとして一日に上洛させ、この日堺を出立し上洛。本多忠勝を先行させて上洛の途中に四郎次郎が京都から馬に乗って来て忠勝と枚方で行き合った。信長自害を知らされ二人は戻って飯盛山近辺で家康と出会って報告し、伊賀を越えて三河へ戻った「茶屋由緒記」
【大十一】
0年目
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
呉服師亀屋栄任、信長自害を家康に注進するため堺へ迎えに行った。その際、伊賀 越えで三河に帰国とのことで栄任は京都に家康手勢が居るとのことで京都へ戻り密かに手勢を集め、近江信楽へ下って御供した「呉服師由緒記」
【大十一】
0年目
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
光秀、美濃野口城主西尾光教へ信長・信忠父子を討ち果たしたので大垣城を占拠するように命じ、委細は山田喜兵衛に伝えさす
【武家】
0年目
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
光秀、元親へ本能寺の変の成功を堺より上ノ坊に伝えさせる
【元親】
0年目
1582
天正十年
6月 3日
6月3日
光秀が丹波より夜襲をかけ、本能寺へ押し寄せ信長に腹を切らせた。信長は「城介 (信忠)の別心(謀反)か」と聞くと森乱丸が「明智のようだ」と答えた
【三河】
0年目
1582
天正十年
6月 3日
6月3日
蒲生賢秀、信長の上臈衆らを連れて未刻(午後二時前後)に安土を発ち近江日野城 へ退く
【公記】
0年目
1582
天正十年
6月 3日
6月3日
光秀、近江に進軍す
【兼二】
0年目
1582
天正十年
6月 3日
6月3日
洛中騒動斜めならずという状況であった
【言経】
0年目
1582
天正十年
6月 3日
6月3日
英俊、京都からの注進で信長は本能寺にて、信忠は二条新御所にて生害したこと、菅屋長頼・村井三名・福富秀勝、小姓衆五、六百名が生害したこと、光秀は坂本城へ入城して大津・松本・瀬田(勢田)に陣取ったこと、藤孝が生害したという風聞があること、この日に大和衆は悉く大安寺・辰市・東九条・法花寺周辺に陣取ったことを知る
【多三】
0年目
1582
天正十年
6月 3日
6月3日
光秀、大山崎へ禁制を発行「離宮八幡宮文書」
【藤田】
0年目
1582
天正十年
6月 3日
6月3日
松平家忠、京都の酒井忠次より家康の命令として西国へ出陣あると通知を受ける。 酉刻(午後六時前後)に京都で光秀・信澄謀反により信長自害の旨大野より知らせを受ける
【家忠】
0年目
1582
天正十年
6月 3日
6月3日
信孝、今朝阿波へ渡海のところ、信長生害のため岸和田から摂津へ陣替え
【石山】
0年目
1582
天正十年
6月 4日
6月4日
光秀、近江をことごとく制圧す
【兼二】
0年目
1582
天正十年
6月 4日
6月4日
洛中騒動斜めならずという状況であった
【言経】
0年目
1582
天正十年
6月 4日
6月4日
英俊、順慶のもとへ南方衆と井戸一手衆が集結し、この日光秀のもとへ出陣すると聞く
【多三】
0年目
1582
天正十年
6月 4日
6月4日
家康、蒲生賢秀・氏郷へその城に堅固に立て籠もるとのことはもっともなことだ、 光秀成敗は安心すべきと伝える「山中文書」
【愛一】
0年目
1582
天正十年
6月 4日
6月4日
斎藤玄蕃助利堯、美濃瑞龍寺・千手堂寺・崇福寺へ禁制を発行「瑞龍寺文書」「善福寺文書」「崇福寺文書」
【岐一】
0年目
1582
天正十年
6月 4日
6月4日
秀吉、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景に和睦の起請文を与える
【秀吉】
0年目
1582
天正十年
6月 4日
6月4日
家康、伊勢から大浜へ上がり岡崎に到着。松平家忠、迎えに行き、穴山梅雪が切腹したこと、信澄謀反は嘘であることを知る(こちらの手勢と雑兵共二百余で討たせたと追記あり)
【家忠】
0年目
1582
天正十年
6月 4日
6月4日
徳川家康、三河岡崎に帰着し、直ちに武田家遺臣を甲斐へ派遣して工作を開始
【明智】
0年目
1582
天正十年
6月 5日
6月5日
晴豊、光秀が安土へ到着し安土に留まっているとの連絡を受ける
【日々】
0年目
1582
天正十年
6月 5日
6月5日
兼見、光秀が蒲生賢秀より安土城を明け渡され入城したことを知る
【兼二】
0年目
1582
天正十年
6月 5日
6月5日
寛尊、光秀が安土城をはじめとする近江諸城を悉く掌握したと聞く。光秀へ経文・ 五百疋を、光秀家中の伝五・松田太郎左衛門の二名へも贈物と音信を送付
【蓮成】
0年目
1582
天正十年
6月 5日
6月5日
英俊、昨日山城へ出陣した軍勢が早々と大和に戻って来たこと、大坂で信澄が生害したこと、信澄は光秀の聟で一段逸物であったが信孝・長秀・蜂屋頼隆らの沙汰により自害したこと、伊賀は信雄の被官衆が開城したので無防備状況となり、牢人衆が入城したこと、四日に光秀が安土城に入城したこと、佐和山城には山崎片家が、長浜城へは利三が入城したこと、 山城から帰陣した軍勢を順慶が率いて近江に移動し光秀と手を合わせ一味となったことを知る
【多三】
0年目
1582
天正十年
6月 5日
6月5日
秀吉、中川清秀と福富秀勝の奮戦により信長・信忠は近江膳ヶ崎まで無事に難を逃れたこと、今、備前野殿まで到着し、今日備前沼を通る予定を報告「梅林寺文書」
【秀吉】
0年目
1582
天正十年
6月 5日
6月5日
信澄、大坂城中で信孝・長秀によって生害。首が堺の北の橋に掛けられた
【他会】
0年目
1582
天正十年
6月 5日
6月5日
松平家忠、岡崎城へ出仕したところ早々に帰って出陣準備せよと命じられる。伊勢・尾張より家康へ使者が来ており味方せよとのことであろうと思う
【家忠】
0年目
1582
天正十年
6月 6日
6月6日
兼見、晴豊より召喚状を受けて、即時晴豊に随行し禁裏の誠仁親王へ祗侯し対面す。 親王、直に兼見へ光秀への御使として下向し京都の治安維持を厳命する旨を命ず。兼見、親王の命を受けて明日さっそく出発することになり、緞子一巻を預かり禁裏を退出す (注)正本には光秀への命令の内容は記載されていない
【兼二別本】
0年目
1582
天正十年
6月 6日
6月6日
誠仁親王、兼見を召し安土の光秀へ勅使として派遣を命ず
【日々】
0年目
1582
天正十年
6月 6日
6月6日
光秀、近江多賀神社へ禁制を下す「多賀神社文書」
【大十一】
0年目
1582
天正十年
6月 6日
6月6日
光秀、賀茂別雷神社へ禁制を下す「賀茂別雷神社文書」
【大十一】
【藤田】
0年目
1582
天正十年
6月 6日
6月6日
秀吉、姫路城へ入城「松井家譜」
【大十一】
0年目
1582
天正十年
6月 6日
6月6日
秀吉、未刻(午後二時前後)、備中高松を撤収し備前沼に至る (注)日時は六月五日秀吉書状や六日杉若無心書状の記述に合わない
【惟任】
0年目
1582
天正十年
6月 6日
6月6日
小早川隆景、桂左太・岡宗左(毛利氏家臣)へ信長父子が一日討ち果て、二日に大坂で信孝が自害し、信澄・光秀・勝家が共謀して討ち果たしたと報ず「萩藩閥閲録」
【大十一】
0年目
1582
天正十年
6月 6日
6月6日
毛利輝元、満願寺へ信長親子三名が戦死した件は信澄に光秀・勝家が共謀して起こした事件であること、秀吉とは和談を締結した旨を報ず「毛利氏四代実録考証論断」
【大十一】
0年目
1582
天正十年
6月 6日
6月6日
家康、岡部正綱に甲斐巨摩郡下山へ行き、城を普請すべきことを命ず。委細は左近左衛門が申す「寛永諸家系図伝」
【徳川】
0年目
1582
天正十年
6月 6日
6月6日
松平家忠、八日に東三河衆が岡崎へ来るので一報あり次第出陣ある旨を酒井忠次より知らされる
【家忠】
0年目
1582
天正十年
6月 7日
6月7日
兼見、御使として早々に安土へ向けて京都を出発。安土城に入城し光秀と対面、御使の趣旨を伝達し、朝廷より預かった巻物等を渡す。光秀は兼見へ今度の謀反の存分を雑談し、 蒲生賢秀が未だ出仕していないことを伝える。兼見、安土城を出て城下の町屋に宿泊す。錯乱していて不便であった(注)正本では兼見と光秀のやり取りを削除している
【兼二別本】
0年目
1582
天正十年
6月 7日
6月7日
光秀、摂津開運寺へ禁制を下す「渡辺重雄氏所蔵文書」 この頃 オルガンティーノ、光秀の小姓に高山右近宛てにポルトガル語で「光秀に絶対味方するな」と書いた書状を偽って渡す
【藤田】
【日本】
0年目
1582
天正十年
6月 8日
6月8日
兼見、上洛するため早天に安土を発足す。光秀上洛のため、明日の摂津への軍事行動に備え明智軍は安土城を出動。先勢は山科・大津に布陣していた。兼見、吉田郷に帰宅し休息を取った後、誠仁親王に伺候して直接委細を上奏す(注)正本では、兼見が誠仁親王へ光秀との談合内容を上奏したことを削除
【兼二別本】
0年目
1582
天正十年
6月 8日
6月8日
敵の軍勢が非常な速さで接近しつつあるとの伝言が京都から飛脚によって届けられ、 光秀は直ちに摂津・河内へと引き返すことにした
【日本】
0年目
1582
天正十年
6月 8日
6月8日
兼見、安土より上洛し、光秀よりの朝廷への御礼申入の意向などを上奏
【日々】
0年目
1582
天正十年
6月 8日
6月8日
秀吉家臣杉若無心、藤孝の家老松井康之へ秀吉が六日に姫路入城したこと、九日に 出陣することを通達「松井家譜」
【大十一】
0年目
1582
天正十年
6月 8日
6月8日
毛利輝元、村上元吉へ秀吉と和睦して両軍撤退したこと、信長父子三人が京都で自害したこと、不慮の吉事とはこのことと伝える「村上文書」
【大十一】
0年目
1582
天正十年
6月 8日
6月8日
順慶、伊賀の喜多村出羽守へ家康の伊賀越えへの協力を賞す
【三宅】
0年目
1582
天正十年
6月 9日
6月9日
兼見、早々に光秀から自筆の到来予告状を受ける。光秀、未刻(午後二時前後)に上洛す。兼見、光秀を迎える為に京都白川まで出向く。公家衆・摂家・清花が悉く迎え出ており、兼見はこの旨を光秀に通知したところ、光秀は無用であると辞退。光秀、両御所(正親町天皇・誠仁親王)へ銀子五百枚、京都五山と京都大徳寺へ銀子百枚ずつ、兼見へ銀子五十枚を進上。光秀、兼見邸小座敷に暫く逗留し方々注進を受けて手配する。兼見、光秀へ夕食を進上。紹巴・昌叱・心前が相伴した。光秀、夕食後に京都下鳥羽に出陣。兼見は誠仁親王と対面し、委細申し入れた。光秀への奉書が認められたので、兼見はその奉書を携えて即時下鳥羽の光秀陣所へ下向し、銀子の御礼と奉書を光秀へ示した(注)正本では光秀が両御所へ銀子を進上した件、兼見が下鳥羽の光秀陣所へ行った件を削除
【兼二別本】
0年目
1582
天正十年
6月 9日
6月9日
晴豊、光秀が河内へ軍勢を派遣したと聞く。光秀、兼見を来訪し銀子五百枚を両御所へ進上。朝廷は光秀へ京都の治安維持をかたく申し付け、文にて光秀の銀子進上を賞す。また朝廷は兼見を下鳥羽南殿寺の光秀本陣へ派遣する
【日々】
0年目
1582
天正十年
6月 9日
6月9日
英俊、河内へ筒井軍が出撃する予定であったが俄かに延引したこと、郡山城に兵粮が搬入されたことを知る。どのように考えが変わったのか不審に思う
【多三】
0年目
1582
天正十年
6月 9日
6月9日
秀吉、信孝へ明石に着陣、明後日尼崎へ着く予定を伝える「坂井正秋所蔵文書」
【秀吉】
0年目
1582
天正十年
6月 9日
6月9日
光秀、京都大徳寺および門前町に禁制を下す「大徳寺文書」
【大十一】
【藤田】
0年目
1582
天正十年
6月 9日
6月9日
光秀、藤孝・忠興父子へ軍勢の派遣を要請。五十日、百日の内に近国を固めた後には十五郎(光慶)、与一郎(忠興)に政権を引き渡す所存と伝える「細川家文書」
【大十一】
【藤田】
0年目
1582
天正十年
6月 9日
6月9日
松平家忠、西陣の出陣少し延期の命令を受ける。水野忠重が京都に隠れていて帰ってきたことを知る この頃 寛尊、秀吉が毛利と和睦して近日上洛するという噂が頻繁であること、大坂では信澄と信孝が談合したが人数がそろわないこと、光秀よりの合力要請の使者が切々と到来し、五日より伝五が逗留すること、順慶より秀吉へ使者が派遣され入魂となったという噂があること、光秀が京都山崎八幡の洞ヶ峠に着陣したことを聞く
【家忠】
【蓮成】
0年目
1582
天正十年
6月10日
6月10日
英俊、先日山城へ出撃した筒井軍が大和へ帰還したことを知り、秀吉が近日中に上洛することが決定したので順慶が覚悟替したとみる
【多三】
0年目
1582
天正十年
6月10日
6月10日
兼見、光秀が摂津へ向けて軍事行動を起こしたという情報に接す(注) 正本では摂津を河内と書き換え
【兼二別本】
0年目
1582
天正十年
6月10日
6月10日
、美利輝元、福井十郎兵衛へ秀吉と和睦したこと、信長父子三人を光秀が討ち果たしたことを伝える
【大十一】
0年目
1582
天正十年
6月10日
6月10日
毛利輝元、岡宗左衛門へ信長父子三人討ち果たしたことは予想外のことで大利を得たと伝える「毛利氏四代実録考証論断」
【大十一】
0年目
1582
天正十年
6月10日
6月10日
秀吉、中川清秀へ明日摂津西宮辺りまで行って着陣の予定を告げる「福井市愛宕坂 茶道美術館所蔵文書」
【秀吉】
0年目
1582
天正十年
6月10日
6月10日
松平家忠、十二日に出陣の旨酒井忠次より知らされる
【家忠】
0年目
1582
天正十年
* 6月10日
*6月10日
長宗我部元親家臣中与一兵衛(中島重房?)、石谷頼辰の堺からの書状に返書。早々に御上洛があるのは目出度い、元親の身上にもかかわることであろうか、追々慶事を申し上げることを披露願いたいと告げる (年未詳)
【石谷】
0年目
1582
天正十年
6月10日
6月10日
家康、本多信俊を織田信忠家臣の甲斐城主河尻秀隆のもとへ送り込む
【当代】
0年目
1582
天正十年
6月11日
6月11日
光秀、摂津より下鳥羽の本陣に戻り淀城普請に着手す
【兼二別本】
0年目
1582
天正十年
6月11日
6月11日
英俊、藤田伝五が光秀の命を受けて順慶を訪問し合力の説得をするも同心を得られず、木津まで引き返したが順慶より呼び戻されたこと、順慶は既に秀吉へ村田某・今中某を使者として派遣し、合力の誓紙を提出したことを知る
【多三】
0年目
1582
天正十年
6月11日
6月11日
秀吉、松井友閑へ一昨日明石を出発し、淡路洲本城を攻め落としたこと、夜中に兵庫まで着陣すること、直ちに尼崎まで打ち出すつもりであることを告げる「萩野由之氏所蔵文書」
【秀吉】
0年目
1582
天正十年
6月11日
6月11日
松平家忠、人足を出したが出陣は十四日まで延期の知らせがあり呼び戻す
【家忠】
0年目
1582
天正十年
6月12日
6月12日
光秀、紀伊雑賀五郷土橋平次へ高野山・根来寺・雑賀衆らが相談し和泉・河内へ 出撃することを督促、近江・美濃はことごとく平定したこと、義昭上洛の要請は承諾する旨を返書「森文書」
【岐補】
【織下】
【藤田】
0年目
1582
天正十年
6月12日
6月12日
家康、甲賀の和田八郎(定教)へ今度の忠節を讃えて誓書を与える
【徳川】
0年目
1582
天正十年
6月12日
6月12日
家康、曾根昌世・岡部正綱をして甲斐中巨摩郡の加賀美右衛門へ安堵状を発す「古今消息集」
【大十一】
【徳川】
0年目
1582
天正十年
6月12日
6月12日
世上雑説が飛び交う状況である
【日々】
0年目
1582
天正十年
6月12日
6月12日
兼見、光秀の敵が山崎より出勢し、勝龍寺城の西辺りに於いて足軽勢が遭遇し鉄放戦があったこと、近辺に放火したことを知る
【兼二】
0年目
1582
天正十年
6月12日
6月12日
英俊、秀吉が既に摂津まで猛勢にて迫っていること、また家康が既に安土に着陣したと聞く。明智軍が石清水八幡宮・山崎周辺に布陣していたが、淀周辺まで撤退したと聞く。昨日順慶が郡山城で国中の与力を集結させて血判起請を提出させたと聞く
【多三】
0年目
1582
天正十年
6月12日
6月12日
寛尊、大坂にて信澄が生害したことを知る。その理由は惟任縁辺の故か謀反御存知かというものであった
【蓮成】
0年目
1582
天正十年
6月12日
6月12日
秀吉、摂津富田に着陣
【他会】
0年目
1582
天正十年
6月13日
6月13日
早天に光秀の陣所が敗軍したと聞く。京中は錯乱状態
【日々】
0年目
1582
天正十年
6月13日
6月13日
光秀、山崎において合戦し即時敗北。伊勢貞興以下三十余人討死。信孝・秀吉ら、南方より進軍し明智軍と合戦す。二条屋敷放火。首本能寺に曝される
【言経】
0年目
1582
天正十年
6月13日
6月13日
宗及、光秀が山崎の戦いで敗れ、勝龍寺城に逃げ込んだが、夜に抜け出し途中で討ち取られたと聞く
【他会】
0年目
1582
天正十年
6月13日
6月13日
英俊、勝龍寺城落城、光秀は坂本退くと聞く
【多三】
0年目
1582
天正十年
6月13日
6月13日
摂津衆三人は秀吉が三レグワ(十五キロ)ほどの所まで来ていることを知り、中川清秀が山の手、池田恒興が淀川沿い、高山右近が中央の山崎村へ進軍した。明智軍は八千ないし一方、羽柴軍は二万以上、高山右近は一千に満たない軍勢。右近は光秀が村の門まで進軍してきたため秀吉軍の到着を待てずに門を開けて明智軍を攻撃し二百を討った。清秀・恒興軍も参戦して明智軍は逃げ始めた。これがきっかけとなって正午に明智軍は敗退。敗軍は午後二時に京を通り、通過に二時間要したが、盗賊らに襲われて坂本に着けなかった者が多かった。光秀は午後勝龍寺城へ入り、羽柴軍は全軍で取り囲み、都に聞こえるほど終夜銃を撃った。光秀は宵の口に坂本に向かって逃げ、農夫らに殺されて首を切られた
【年報】
0年目
1582
天正十年
6月13日
6月13日
この申刻(午後四時前後)より京都山崎に於いて鉄放の音が数刻にわたり止まなかった。兼見、京都五条口より落武者たちが愛宕郡白川一乗寺周辺へ逃走し途中にて一揆に遭遇した模様で或者討捕、或者剥取のこと、京都からの通知により山崎表に於いて合戦があり光秀が敗軍して勝龍寺城に入ったこと、明智軍の戦死者は数知れないことを知る。兼見、堅く自宅の門を閉ざし門内に於いて用心していたが、吉田郷へは落人が一人も到来しなかった。山崎合戦での南方の諸勢とは神戸信孝・秀吉・池田恒興・長秀・蜂屋頼隆・堀秀政・矢部家定・中川清秀・多羅尾光俊らで、二万余の軍勢で勝龍寺城を包囲したことを知る
【兼二】
0年目
1582
天正十年
6月13日
6月13日
秀吉、浅野長政へ戦況を報ず。晩に山崎に陣取り、高山右近・中川瀬兵衛・久太郎(堀秀政)勢へ明智軍段々に人数をそろえて切りかかる所、道筋は右近・瀬兵衛・久太郎切り崩し、南から池田紀伊守・秀吉、山手は羽柴秀長・黒田官兵衛切り崩し、勝龍寺城を取り囲んだ「浅野家文書」 「金井文書」
【大十一】
【愛二】
0年目
1582
天正十年
6月13日
6月13日
秀吉・長秀、順慶へ明日山城西岡へ陣替えするので山城へ出陣すべき旨を伝える「名張藤堂家文書」
【秀吉】
0年目
1582
天正十年
6月13日
6月13日
松平家忠、西陣出陣のために岡崎城へ出仕
【家忠】
0年目
1582
天正十年
6月14日
6月14日
信孝・秀吉、青龍寺(勝龍寺)表で明智軍を討ち果たし、上洛
【日々】
0年目
1582
天正十年
6月14日
6月14日
光秀、昨夜勝龍寺城を退散す。津田越前入道、兼見を訪問。この度光秀が兼見邸に到来し、禁裏と京都五山へ銀子配分した件が織田側で執沙汰され曲事とされているので織田三七郎御使として糺明のために到来したという。禁裏へ参内し誠仁親王と対面し、親王へ詳細を上奏した。親王、信孝陣所へ御使を派遣す。施薬院全宗に相談したところ秀吉へさっそく事情を申し入れるべきであるとのことであった。全宗使者・兼見使者、桑原貞也のもとへ派遣。 兼見、使者より桑原貞也の返事を受けた。その内容とは、津田越前入道は信孝が派遣したのではなく信孝へ問い合わせたところ、津田越前入道の件は御存知無きことで、津田越前入道に問貴の使者を派遣したところ、この朝より外出し行方不明とのこと。もし再度津田越前入道が到来した場合には留めて織田側に注進すべきという存分を受けて兼見は安堵した
【兼二】
0年目
1582
天正十年
6月14日
6月14日
英俊、井戸良弘が裏帰って山城槇島城を順慶に渡すため早旦に井戸重郎と一手衆を退城させたこと、越智・楢原・万歳以下悉く出立したこと、明日順慶の出京が決定したと聞 く 六月十四日 寛尊、摂津衆・池田恒興・秀吉が上洛し京都山崎に於いて合戦があったこと、明智軍が敗軍し即時落居したこと、勝龍寺城陥落したこと、秀吉の軍勢が京着したことを知る。光秀が醍醐で生害し伝五も腹切したことを知る。数万人が戦死し、山崎から醍醐周辺まではあちこちに屍が散乱しており数は不明であることを知る
【多三】
【蓮成】
0年目
1582
天正十年
6月14日
6月14日
光秀の首が本能寺に届いた。首三千が曝された
【他会】
0年目
1582
天正十年
6月14日
6月14日
家康、美濃の吉村又吉郎(氏吉・脇田城主)へ信長の弔いのため上洛するので今日鳴海まで出陣したので協力するよう求める「吉村文書」
【徳川】
0年目
1582
天正十年
6月14日
6月14日
家康、佐藤六左衛門尉(秀方・鉈尾山城主)へ光秀を討ち果たす覚悟につき、日根野弘就・金森長近と共に上洛に協力すべきを命ず「譜牒余録」
【徳川】
0年目
1582
天正十年
6月14日
6月14日
本多忠勝、高木権右衛門(貞利・今尾城主)へ家康が京都へ攻め上る意思がある旨を通知(光秀討ちは記していない)「高木家文書」
【徳川】
0年目
1582
天正十年
6月14日
6月14日
伊勢から白子まで家康の御供をした伊賀者が尾張鳴海にて家康に召し抱えられた 「伊賀者大由緒記」
【大十一】
0年目
1582
天正十年
6月14日
6月14日
松平家忠、尾張鳴海まで出陣
【家忠】
0年目
1582
天正十年
6月14日
6月14日
明智秀満、安土城を退去し、明智の婦女子らのいる坂本城へ入る。信雄、安土城の天主に放火させ、市に火をつけるように命ず。秀吉軍が坂本城に到着するが、既に多数の者が城から逃亡していた
【年報】
0年目
1582
天正十年
6月14日
6月14日
河尻秀隆、家康から派遣された本多信俊を殺害
【三河】
0年目
1582
天正十年
6月15日
6月15日
兼見、安土城が焼失し安土山下からの類火と聞く。神戸信孝へ御礼の為に吉田兼治を派遣。光秀が京都醍醐周辺にて一揆に討ち取られたこと、光秀の首級は村井清三が神戸信孝のもとへ持参したこと、高山次右衛門が坂本城天主に放火して切腹したと聞く
【兼二】
0年目
1582
天正十年
6月15日
6月15日
晴豊、勧修寺家領の百姓が光秀の首を届け出たこと、本能寺に光秀むくろと首が晒され見物数知れず、三千程の首があることを聞く
【日々】
0年目
1582
天正十年
6月15日
6月15日
英俊、十三日に明智軍が千余人損傷し、わずか三十余名が坂本へ帰ったこと、昨日より秀吉が大津まで進撃したこと、今日比叡山の東の方が大焼というので坂本城が焼けたこと、今朝順慶自身が千余の軍勢を率いて出陣したこと、秀吉は順慶の行動を曲事としたこと、先日の合戦にて光秀の討死は確実であろうことを聞く
【多三】
0年目
1582
天正十年
6月15日
6月15日
言経、光秀が醍醐の辺りで郷人一揆に討たれ、首が本能寺に届けられたことを知る
【言経】
0年目
1582
天正十年
6月15日
6月15日
北条氏政、幸田某をして渡邊庄左衛門尉を甲斐へ派遣し工作を命ず「諸国古文書抄」
【徳川】
0年目
1582
天正十年
6月15日
6月15日
松平家忠、旗本へ出向いたところ光秀が京都で信孝・秀吉・長秀・池田恒興に討ち取られたことを伊勢織田家より注進があったことを聞く
【家忠】
0年目
1582
天正十年
6月15日
6月15日
明智秀満、一族の婦女・小児を殺し、坂本城に放火して切腹。明智の二子(長子は十三歳)は死んだというが逃げたという者もある
【年報】
0年目
1582
天正十年
6月16日
6月16日
兼見、神戸信孝・其外諸勢が安土城に下向したこと、光秀の首・胴体が本能寺に曝されたことを知る
【兼二】
0年目
1582
天正十年
6月16日
6月16日
松平家忠、明日津嶋へ進軍すると知らされる
【家忠】
0年目
1582
天正十年
6月17日
6月17日
宗及、利三が車ざた(合議による裁定)の上、即、首を斬られたことを知る
【他会】
0年目
1582
天正十年
6月17日
6月17日
言経、今度謀反随一の利三が近江堅田に牢籠しているところを捕獲され、洛中を 車にて引き回され六条河原で訴されたことを知る
【言経】
0年目
1582
天正十年
6月17日
6月17日
早天に信長討ち談合衆の利三が生け捕られて車にて京都町中を引き回された。晴豊は見物したが、見物人は予想以上に多かった
【日々】
0年目
1582
天正十年
6月17日
6月17日
英俊、光秀が十三日に勝龍寺城を逃れ出て、山科で一揆に叩き殺され、首も胴も京都へ運ばれたことを知る。光秀は細川兵部太夫の中間であったのを取り立てられ、信長の厚恩により召し抱えられたが、大恩を忘れたので天命であった。利三が生け捕られて安土に送られたと聞く
【多三】
0年目
1582
天正十年
6月17日
6月17日
家康、曾根昌世・岡部正綱らをして窪田助丞(正勝)へ甲斐北巨摩郡を安堵する 「古文書」
【大十一】
【徳川】
0年目
1582
天正十年
6月17日
6月17日
美濃の遠藤秀繕、安養寺へ本能寺の変後の諸状況を報告、安土は光秀の子の自然が立て籠もっているなど「安養寺文書」
【愛一】
【岐一】
0年目
1582
天正十年
6月17日
6月17日
酒井忠次の手勢が津嶋へ陣替えした
【家忠】
0年目
1582
天正十年
6月18日
6月18日
兼見、利三が捕獲されて上洛し洛中を車に乗せられて引き回され六条河原にて刎首されたこと、光秀と同様に本能寺に曝されたこと、堅田の猪飼野半左衛門が捕縛したことを知る
【兼二】
0年目
1582
天正十年
6月18日
6月18日
英俊、本能寺に光秀を始め首三千程が曝され、十七日に利三が京都を引き回されて斬首されたと聞く
【多三】
0年目
1582
天正十年
6月18日
6月18日
光秀伯父の妻木藤右衛門、近江坂本西教寺にて自害「寛永諸家系図伝」「寛政重修諸家譜」
【大十一】
0年目
1582
天正十年
6月18日
6月18日
甲斐の国衆一揆、河尻秀隆を殺し織田軍三千人を討ち取る。甲斐織田軍は崩壊 六月十九日 秀吉、高木彦左衛門(貞久)へ十三日に明智と一戦し悉く討ち果たし首三千余討ち取ったこと、光秀は山科藪中に隠れていたところを百姓が首を切り捨て置いたのを見つけたこと、利三は二人の子と逃げる途中を郷人が子の首を切り利三を生け捕り、車で引きまわしの上、首を切ったこと、坂本城では光秀の子二人と明智彌平次が切腹し天主が焼け落ちて死んだこと、近江の光秀加担者は首を切るか助命して召し抱えるかしたこと、明日美濃へ入る予定であることを告げる「高木家文書」
【三河】
【大十一】
0年目
1582
天正十年
6月19日
6月19日
松平家忠、秀吉より上方のことは片付いたので早々に帰陣せよと申入れがあったため、津嶋から鳴海まで帰った
【家忠】
0年目
1582
天正十年
6月21日
6月21日
家康、遠江衆・東三河衆を引き連れて三河へ帰陣
【家忠】
0年目
1582
天正十年
6月22日
6月22日
兼見、信孝の諸勢が美濃へ下向することを知る
【兼二】
0年目
1582
天正十年
6月23日
6月23日
兼見、二十二日より桑原貞也・村井清三が奉行となって粟田口の東に光秀・利三の首塚を昨日から築造していることを知る
【兼二】
0年目
1582
天正十年
6月25日
6月25日
秀吉、高田長左衛門へ尾張・美濃における光秀残党掃討終了したこと、近日中に上洛し信長の葬儀を執行することを通達「古今消息集六」
【愛一】
0年目
1582
天正十年
6月26日
6月26日
秀吉、一益へ山崎での合戦、光秀の死、坂本城の落城、利三捕縛、近江平定 (以上は六月十九日付け高木彦左衛門宛書状とほぼ同文)、阿閉父子三人および一類女子共の首を刎ねたこと、尾張を平定して清須城に逗留していることを告げる「大阪城天守閣所蔵文書」
【秀吉】
0年目
1582
天正十年
6月28日
6月28日
晴豊、明智秀満の親が生け捕りにされたと聞く
【日々】
0年目
1582
天正十年
6月29日
6月29日
晴豊、秀満の女房衆「北□の姉」が生け捕りにされたと聞き引き取ることにする。継子二人は親元に引き取らせることにする
【日々】
0年目
1582
天正十年
6月29日
6月29日
兼見、福知山城に在城していた明智秀満の親が捕獲され上洛したことを知る 七月二日 言経、粟田口に光秀の首と胴がつながれ磔にされたこと、利三も同様にされたこと、その他首三千余の首塚を同所に築いたこと、今日明智秀満の父六十三歳が召し取られ同所に磔にされたことを知る
【兼二】
【言経】
0年目
1582
天正十年
7月 2日
7月2日
兼見、明智秀満の親が粟田口で磔にされたことを知る
【兼二】
0年目
1582
天正十年
7月11日
7月11日
秀吉、藤孝・忠興へ信長不慮の事態に対して比類無き覚悟頼もしく、身上見放すことはない旨の起請文を提出「細川家文書」
【大十二】
【秀吉】
【細川】
0年目
1582
天正十年
7月11日
7月11日
秀吉、松井康之へ忠興への加増分の三分の一の領地を与える旨を命ず「細川家文書」
【大十二】
【秀吉】
【細川】
0年目
1582
天正十年
7月11日
7月11日
秀吉、鍋島直茂へ本能寺の変により毛利氏と和睦締結したこと、明智与党全滅磔刑に処したこと、国々へ従来の如く静謐を申し付けて九日に上洛したこと、近日中の姫路帰城を通知。南蛮帽子の贈答を謝す「鍋島家文書」
【大十二】
0年目
1582
天正十年
7月24日
7月24日
兼見、秀吉が丹波亀山へ下向と聞く
【兼二】
0年目
1582
天正十年
8月 3日
8月3日
宗及、明智掃部、道設を招いて茶会
【自会】
0年目
1582
天正十年
8月13日
8月13日
秀吉、浅野長吉・杉原家次を京都奉行に任命
【兼二】
0年目
1582
天正十年
10月15日
10月15日
秀吉、大徳寺において信長の葬儀を執り行う
【兼二】
【言経】
【惟任】
0年目
1582
天正十年
10月15日
10月15日
秀吉、『惟任退治記』を公表し怨恨・野望・単独犯行を公式化
【惟任】
0年目
1582
天正十年
11月 1日
11月1日
秀吉、石川数正へ勝家・信孝の謀反への対応を家康へ説明するよう返報
【秀吉】
0年目
1582
天正十年
12月 4日
12月4日
前の美濃守護土岐頼芸、武田滅亡後に頼った稲葉一鉄の領地美濃岐礼村で没す 「稲葉家譜」 (注)以上はWEB公開中の「明智光秀全史料年表」から抜粋・転記
【大十二】
0年目
1582
天正十年
稲葉一鉄、斎藤利三の妻子(福を含む)を匿う 月 娘玉、味土野に幽閉 月 秀吉、山城検地
【福田】
【明智】
0年目
1583
天正十一年
1年目
1583
天正十一年
1月20日
1月20日
利三の子斎藤利宗、石谷頼辰へ長宗我部元親が利三の妻と子を稲葉一鉄のもとから引き取るとのことだが稲葉一鉄の意向によると伝える「石谷家文書」
【石谷】
1年目
1583
天正十一年
2月 5日
2月5日
兼見、信長末子で秀吉の養子となっていた秀勝の病気平癒を祈祷。秀勝は亀山城におり、昨冬の出陣以来患っている
【兼五】
1年目
1583
天正十一年
2月26日
2月26日
宗及、若狭屋宗啓を招いて茶会、用いた珠徳の茶杓は以前光秀へ貸したものが宗啓に返却され、堺へ来る際に持参したもの
【自会】
1年目
1583
天正十一年
3月15日
3月15日
稲葉一鉄、石谷頼辰へ利三の妻と連れ子六、七人を匿っているが見捨て難く自分の側に置くと告げる「石谷家文書」
【石谷】
1年目
1583
天正十一年
3月18日
3月18日
斎藤利宗、石谷頼辰へ稲葉一鉄が見捨て難いと言って土佐行きを許さないと伝える「石谷家文書」
【石谷】
1年目
1583
天正十一年
4月24日
4月24日
秀吉、北ノ庄で勝家を滅ぼす。その後、織田信孝を自害へ追い込み織田家臣の筆頭に立つ
【惟任】
【秀吉】
1年目
1583
天正十一年
6月 4日
6月4日
木俣守勝、石谷頼辰へ長宗我部元親が徳川家康に忠節を尽くすように求める「石谷家文書」
【石谷】
1年目
1583
天正十一年
6月 9日
6月9日
明智與三兵衛三存、某(宛所欠)へまくわ瓜一籠の礼を述べる「常在寺文書」
【岐一】
1年目
1583
天正十一年
9月
9月
大坂城の築城開始
1年目
1583
天正十一年
秀吉、山城・河内・近江・越前・加賀・能登検地
【検地】
1年目
1584
天正十二年
2年目
1584
天正十二年
小牧長久手の戦い
2年目
1584
天正十二年
10月
10月
秀吉、正親町天皇のための仙洞御所の造営を開始
【池】
2年目
1584
天正十二年
11月
11月
秀吉、小牧長久手の戦いで織田信雄を担ぐ家康と戦って不利な状況であったが、信雄と和睦し、続いて家康とも和睦し織田家を凌ぐ地位を得た。
2年目
1584
天正十二年
秀吉、山城・河内・近江・美濃・越前検地
【検地】
2年目
1584
天正十二年
玉、宮津へ帰還
【明智】
2年目
1585
天正十三年
3年目
1585
天正十三年
3月
3月
秀吉、和泉・紀伊制圧
【池】
3年目
1585
天正十三年
6月
6月
秀吉、四国制服を開始
【池】
3年目
1585
天正十三年
7月
7月
秀吉、関白に任官
【池】
3年目
1585
天正十三年
8月 6日
8月6日
長宗我部氏、秀吉に降伏
【池】
3年目
1585
天正十三年
8月
8月
秀吉、佐々成政を降伏させる
【池】
3年目
1585
天正十三年
閏8月
閏8月
秀吉、畿内近国の大幅な知行替を実施し権力の安定化を図る
【池】
3年目
1585
天正十三年
9月
9月
秀吉、「唐入り」の意思を初めて表明(家臣一柳末安宛)
【北島】
【池】
3年目
1585
天正十三年
秀吉、山城・大和・河内・近江・紀伊検地
【検地】
3年目
1586
天正十四年
4年目
1586
天正十四年
3月
3月
秀吉、イエズス会宣教師コエリョに大陸征服の意思を告げ、軍艦二隻の調達を要求する
【北島】
4年目
1586
天正十四年
8月
8月
秀吉、安国寺恵瓊と黒田孝高に九州平定後の明征服の心得を指示
【北島】
4年目
1586
天正十四年
秀吉、対馬の宗義調に、千利休を使者として朝鮮出兵の意思を告げる
【笠谷】
4年目
1586
天正十四年
10月
10月
徳川家康、大坂城で秀吉に謁見
【池】
4年目
1586
天正十四年
12月
12月
秀吉、太政大臣を兼任し、豊臣姓を受ける
【池】
4年目
1586
天正十四年
秀吉、山城・大和・河内・和泉・伊予検地
【検地】
4年目
1586
天正十四年
玉、大坂に転居
【明智】
4年目
1587
天正十五年
5年目
1587
天正十五年
1月22日
1月22日
元親、斎藤利宗へ戸次川で頼辰が討死したこと、藤堂高虎が上洛のため土佐に宿泊するので、利宗の母への取り持ちを依頼。津戸右衛門は異議無い旨を伝える
【石谷】
5年目
1587
天正十五年
5月
5月
島津氏、秀吉に降伏し九州平定完了
【池】
5年目
1587
天正十五年
6月
6月
秀吉、対馬の宗氏に朝鮮国王を服属させるように命ず 宣教師の国外退去を命じる(バテレン追放令)
【北島】
【池】
5年目
1587
天正十五年
7月
7月
肥後一揆勃発
【民衆】
5年目
1587
天正十五年
7月
7月
秀吉、刀狩令発布
【民衆】
5年目
1587
天正十五年
12月
12月
秀吉、関東・奥羽の諸大名に戦闘行為の停止を命じる
【池】
5年目
1587
天正十五年
秀吉、楊氏と、大和・越前・越後・伊予・土佐・豊前・筑前・筑後・肥後検地
【検地】
5年目
1587
天正十五年
玉、受洗し、ガラシャ名をもらう
【明智】
5年目
1588
天正十六年
6年目
1588
天正十六年
4月
4月
後陽成天皇、聚楽第に行幸
【池】
6年目
1588
天正十六年
7月
7月
刀狩令・海賊禁止令発布
【池】
6年目
1588
天正十六年
秀吉、土佐など検地
【検地】
6年目
1588
天正十六年
大徳寺住持古渓宗陳、秀吉の怒りを買って博多に流罪、博多商人島井宗室に庇護される。
【杉本】
6年目
1589
天正十七年
7年目
1589
天正十七年
8月
8月
博多の僧景轍玄蘇が正使、宗義智が副使となり、博多商人島井宗室らと朝鮮へ渡り、朝鮮国王へ朝鮮通信使の日本への派遣を要請
【北島】
7年目
1589
天正十七年
秀吉、土佐など検地
【検地】
7年目
1589
天正十七年
利休の働きかけにより、古渓宗陳許されて京都に帰る
【杉本】
7年目
1590
天正十八年
8年目
1590
天正十八年
7月
7月
秀吉、小田原城の北条氏を降服させる
【池】
8年目
1590
天正十八年
8月
8月
秀吉、奥州仕置を終えて天下を統一
【池】
8年目
1590
天正十八年
8月
8月
秀吉、陸奥・出羽の検地を開始、出羽で反検地の一揆勃発
【民衆】
8年目
1590
天正十八年
10月
10月
陸奥一揆勃発
【民衆】
8年目
1590
天正十八年
11月
11月
秀吉、朝鮮通信使を聚楽第にて引見、征明嚮導(明征服の先導)を命ずる国書を与える
【北島】
8年目
1590
天正十八年
秀吉、土佐など検地
【検地】
8年目
1591
天正十九年
9年目
1591
天正十九年
2月
2月
朝鮮通信使帰国復命、同行した景轍玄蘇らが征明嚮導を仮途入明(明へ入りたいので道を貸してほしい)にすりかえて朝鮮側と折衝
【北島】
9年目
1591
天正十九年
2月
2月
千利休、秀吉に切腹を命じられる
【本能】
9年目
1591
天正十九年
8月
8月
身分統制令が発せられる
【池】
9年目
1591
天正十九年
10月
10月
肥前・名護屋城の築城開始 秀吉、全国の大名より御前帳を徴収
【北島】
9年目
1591
天正十九年
12月
12月
秀吉、関白を秀次に譲り、太閤と称す
【北島】
9年目
1592
天正二十年・文禄元年
10年目
1592
天正二十年・文禄元年
1月
1月
秀吉、諸大名に朝鮮出兵を命ずる諸大名から人質を徴する命令も出される
【池】
【秀吉】
10年目
1592
天正二十年・文禄元年
3月
3月
全国的戸口調査である六十六ヶ国人掃令出される
【秀吉】
10年目
1592
天正二十年・文禄元年
4月
4月
日本軍、釜山に上陸
【池】
10年目
1592
天正二十年・文禄元年
5月
5月
漢城を占領
【池】
10年目
1592
天正二十年・文禄元年
5月
5月
半ば秀吉、関白秀次に二十五ヶ条の覚書を出し、後陽成天皇の北京移住、秀次の中国関白就任の構想を示す 薩摩島津家の梅北盛定(国兼)ら七百余名、朝鮮出兵を拒否して蜂起
【北島】
【民衆】
10年目
1592
天正二十年・文禄元年
6月
6月
初め秀吉、徳川家康・前田利家の諫止により自身の朝鮮渡海を延期
【北島】
10年目
1592
天正二十年・文禄元年
7月
7月
明軍が参戦
【池】
10年目
1592
天正二十年・文禄元年
7月
7月
半ば 石田三成・大谷吉継・増田長盛らの朝鮮奉行、ソウルに着陣
【北島】
10年目
1592
天正二十年・文禄元年
8月
8月
明軍と日本軍の間で和平が約される
【池】
10年目
1593
文禄二年
11年目
1593
文禄二年
4月18日
4月18日
小西行長、明の使者の和議を容れ漢城を撤退
【池】
11年目
1593
文禄二年
6月27日
6月27日
秀吉、和議七ヶ条を示す
【池】
11年目
1593
文禄二年
8月 3日
8月3日
淀、秀頼を生む
【池】
11年目
1593
文禄二年
家康、菅沼藤蔵に土岐氏を継承させて従五位下山城守に叙任
11年目
1594
文禄三年
12年目
1594
文禄三年
3月 7日
3月7日
秀吉、伏見城を築城
【池】
12年目
1594
文禄三年
この年全国検地が行われる
【池】
12年目
1595
文禄四年
13年目
1595
文禄四年
1月
1月
半ば秀吉、朝鮮在陣の諸大名に来年、関白秀次が朝鮮へ渡海するための城々を確保し、 兵糧米を備蓄することを命ず
【北島】
13年目
1595
文禄四年
4月
4月
末 小西行長、明より冊封使が来る旨を秀吉に知らせる
【北島】
13年目
1595
文禄四年
7月 8日
7月8日
秀吉、秀次の官職を奪い高野山へ追放
13年目
1595
文禄四年
7月15日
7月15日
秀次、自害
【池】
13年目
1595
文禄四年
8月 2日
8月2日
秀吉、秀次の妻子を処刑
【池】
13年目
1595
文禄四年
秀吉、土佐など検地
【検地】
13年目
1596
文禄五年・慶長元年
14年目
1596
文禄五年・慶長元年
6月半ば
6月半ば
明の日本冊封副使、大坂に至る
【北島】
14年目
1596
文禄五年・慶長元年
8月半ば
8月半ば
日本冊封正使、堺に至る
【北島】
14年目
1596
文禄五年・慶長元年
9月
9月
初め秀吉、明使を大坂城で謁見し激怒。朝鮮再出兵を命ず
【北島】
14年目
1597
慶長二年
15年目
1597
慶長二年
2月 1日
2月1日
日本軍、朝鮮に上陸
【池】
15年目
1597
慶長二年
9月
9月
李舜臣の朝鮮水軍が日本軍を破る
【池】
15年目
1597
慶長二年
12月
12月
明・朝鮮連合軍が蔚山城を攻撃
【池】
15年目
1597
慶長二年
秀吉、土佐など検地
【検地】
15年目
1598
慶長三年
16年目
1598
慶長三年
3月
3月
秀吉、醍醐寺で花見を行う
【北島】
16年目
1598
慶長三年
8月11日
8月11日
秀吉没す
【秀吉】
16年目
1598
慶長三年
10月初め
10月初め
徳川家康ら五大老、石田三成ら五奉行、秀吉の死により、朝鮮在陣の日本軍に和議をまとめて帰国せよと指示
【北島】
16年目
1598
慶長三年
12月
12月
日本軍、朝鮮から撤兵
【池】
16年目
1598
慶長三年
太田牛一の『信長公記』成立
16年目
1599
慶長四年
17年目
1599
慶長四年
家康、宗義智に朝鮮との和議交渉を命ず
【朝鮮】
17年目
1600
慶長五年
18年目
1600
慶長五年
ガラシャ、大坂細川屋敷にて没
【明智】
18年目
1600
慶長五年
9月
9月
家康、関ヶ原で石田三成らを破る
18年目
1603
慶長八年
21年目
1603
慶長八年
2月
2月
家康、征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開く
21年目
1603
慶長八年
11月
11月
家康、朝鮮人捕虜数百人を送還
【朝鮮】
21年目
1604
慶長九年
22年目
1604
慶長九年
7月
7月
斎藤利三の娘福、徳川家光を産む
22年目
1604
慶長九年
朝鮮、宗義智の要求を容れ、対馬島民の釜山浦における貿易を許可
【朝鮮】
22年目
1605
慶長十年
23年目
1605
慶長十年
3月
3月
家康、伏見城にて朝鮮使者を引見し、側近本多正信らに和議の協議をさせる
【朝鮮】
23年目
1605
慶長十年
4月
4月
秀忠、将軍宣下
【福田】
23年目
1606
慶長十一年
24年目
1606
慶長十一年
7月
7月
朝鮮使者、国交回復の前提条件として家康から朝鮮へ国書を送ることと陵犯した賊を縛送することを要求
【朝鮮】
24年目
1607
慶長十二年
25年目
1607
慶長十二年
5月
5月
朝鮮から回答兼刷還使(最初の朝鮮通信使)が江戸城に登城し、将軍秀忠に国書(家康からの国書に対する返書)と進物を呈す
【朝鮮】
25年目
1612
慶長十七年
30年目
1612
慶長十七年
小瀬甫庵『甫庵信長記』成立
30年目
1613
慶長十八年
31年目
1613
慶長十八年
『信長公記』の作者太田牛一没(自筆の『信長公記』池田家本をこの時まで修正していたとみられる)
31年目
1614
慶長十九年
32年目
1614
慶長十九年
10月
10月
大坂冬の陣
【福田】
32年目
1615
慶長二十年・元和元年
33年目
1615
慶長二十年・元和元年
5月
5月
家康、大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼす。七日、大坂城炎上し、秀頼自決、二十三日、秀頼の一子国松首、六条河原で刎ねられる
【高橋】
33年目
1615
慶長二十年・元和元年
7月
7月
家康、秀吉を祀る豊国神社を廃絶
【高橋】
33年目
1615
慶長二十年・元和元年
家光、世嗣に決定
【福田】
33年目
1615
慶長二十年・元和元年
『川角太閤記』成立(一六二四にかけて) (注)寛永六年(一六二九)以降とする研究者もいる。
33年目
1616
元和二年
34年目
1616
元和二年
4月
4月
家康没す。
34年目
1623
元和九年
41年目
1623
元和九年
7月
7月
家光、三代将軍に就任
41年目
1626
寬永三年
44年目
1626
寬永三年
『甫庵太閤記』成立 (『信長公記』天理本は寛永年間に写本が作られた)
44年目
1629
寬永六年
47年目
1629
寬永六年
10月
10月
福、春日局号、従三位を得る
【福田】
47年目
1632
寬永九年
50年目
1632
寬永九年
5月
5月
細川忠利、肥後移封
【福田】
50年目
1633
寬永十年
51年目
1633
寬永十年
6月
6月
武家諸法度改定
【福田】
51年目
1634
寬永十一年
52年目
1634
寬永十一年
1月
1月
春日局、麟祥院の法号を受ける
【福田】
52年目
1637
寬永十四年
55年目
1637
寬永十四年
10月
10月
島原・天草一揆勃発
【福田】
55年目
1641
寬永十八年
59年目
1641
寬永十八年
2月
2月
寬永諸家系図伝編纂命令【福田】
【福田】
59年目
1641
寬永十八年
8月
8月
家綱(家光長男)誕生
【福田】
59年目
1643
寬永二十年
61年目
1643
寬永二十年
9月
9月
春日局没す
61年目
1643
寬永二十年
10月
10月
天海僧正没
【福田】
61年目
1646
正保三年
64年目
1646
正保三年
1月
1月
家光側室お玉、綱吉を出産
【塚本】
64年目
1649
慶安二年
67年目
1649
慶安二年
大坂夏の陣の敗将大野治房の妻子五人が摘発され、男子三人は打首となる
【高橋】
67年目
1649
慶安二年
3月
3月
後藤又兵衛の子捕縛
【高橋】
67年目
1651
慶安四年
69年目
1651
慶安四年
4月
4月
德川家光没す
69年目
1651
慶安四年
8月
8月
家綱将軍宣下
【塚本】
69年目
1680
延宝八年
98年目
1680
延宝八年
5月
5月
家綱没
【塚本】
98年目
1680
延宝八年
8月
8月
綱吉将軍宣下
【塚本】
98年目
1693
元禄六年
111年目
1693
元禄六年
『明智軍記』の刊行始まる
111年目
1702
元禄十四年
119年目
1702
元禄十四年
3月
3月
浅野長矩、吉良義央に傷害
【塚本】
119年目
1704
元禄十七年・宝永元年
123年目
1704
元禄十七年・宝永元年
福知山御霊神社へ光秀合祀
123年目
1709
宝永六年
127年目
1709
宝永六年
1月
1月
綱吉没
【塚本】
127年目
1746
延享三年
164年目
1746
延享三年
熊本細川家、家記 (『綿考輯録』)編纂
164年目
1771
明和八年
189年目
1771
明和八年
明田理右衛門、東山三条白川筋の明智光秀の墓を引き取る
189年目
1797
寬政九年
215年目
1797
寬政九年
『給本太閣記』
215年目
1853
嘉永六年
271年目
1853
嘉永六年
日米和親条約
271年目
1858
安政五年
276年目
1858
安政五年
天津条約・安政五ヶ国条約
276年目
1867
慶応三年
285年目
1867
慶応三年
10月
10月
将軍慶喜、大政を奉還
285年目
1868
慶応四年・明治元年
286年目
1868
慶応四年・明治元年
閏4月
閏4月
明治天皇、豊国神社の再興を布告
286年目
1868
慶応四年・明治元年
10月
10月
明治維新。明治に改元
286年目
1871
明治四年
289年目
1871
明治四年
9月
9月
日清修好条規
289年目
1874
明治七年
292年目
1874
明治七年
5月
5月
台湾出兵
292年目
1875
明治八年
293年目
1875
明治八年
京都東山に豊国神社の社殿が再建される
293年目
1876
明治九年
294年目
1876
明治九年
2月
2月
江華条約(日朝修好条規)
294年目
1877
明治十年
295年目
1877
明治十年
2月
2月
西南戦争勃発
295年目
1880
明治十三年
298年目
1880
明治十三年
教科書に秀吉礼賛の書である陸軍省版『日本略史』をもとにした『新編日本略史』が書かれ、唐入りが絶賛される
【秀吉】
298年目
1881
明治十四年
光秀三百年忌 299年目
1881
明治十四年
12月
12月
明田潔、内務省へ申請し明智姓への復姓を認められる
光秀三百年忌 299年目
1884
明治十七年
302年目
1884
明治十七年
4月15日
4月15日
銅版画豆本『新撰豐臣秀吉一代記』出版
302年目
1886
明治十九年
304年目
1886
明治十九年
11月
11月
豆本絵本『太閣記』出版
304年目
1886
明治十九年
ダイジェスト版『絵本太閣記』出版
304年目
1889
明治二十二年
307年目
1889
明治二十二年
陸軍参謀本部『日本戦史』編纂開始 (明治三十四年まで)
【陸軍】
307年目
1894
明治二十七年
312年目
1894
明治二十七年
7月
7月
日清戦争勃発 (明治二十八年四月終結)
312年目
1895
明治二十八年
313年目
1895
明治二十八年
10月
10月
朝鮮閔妃暗殺事件
313年目
1898
明治三十一年
316年目
1898
明治三十一年
豊太閣三百年祭挙行される
316年目
1903
明治三十六年
321年目
1903
明治三十六年
10月
10月
文部省著作の第一期国定教科書『小学日本歴史』で天皇中心主義的歴史観で唐入りを評価した記述がなされる
【秀吉】
321年目
1904
明治三十七年
322年目
1904
明治三十七年
2月
2月
日露戦争勃発(明治三十八年九月終結)
322年目
1908
明治四十一年
326年目
1908
明治四十一年
映画「本能寺合戦」上映
【秀吉】
326年目
1909
明治四十二年
327年目
1909
明治四十二年
9月
9月
第二期国定教科書『尋常小学日本歴史』巻二秀吉
327年目
1909
明治四十二年
映画「絵本太閣記」上映
【秀吉】
327年目
1910
明治四十三年
328年目
1910
明治四十三年
日韓併合
【秀吉】
328年目
1910
明治四十三年
映画「太閤記十段」上映
【秀吉】
328年目
1911
明治四十四年
329年目
1911
明治四十四年
参謀本部、本能寺的変を含む『日本戦史 中国役・山崎役出版』
329年目
1914
大正三年
332年目
1914
大正三年
8月
8月
第一次世界大戦へ参戦 (大正八年六月講和)
332年目
1914
大正三年
参謀本部、『明治二十七八年日清戦史』『明治三十七八年日露戦史』出版
332年目
1915
大正四年
333年目
1915
大正四年
秀吉、正一位を贈られる
333年目
1916
大正五年
334年目
1916
大正五年
高柳光壽、國學院大學史学科を卒業し(大正三年)、東京帝国大学史料編纂掛に勤務
334年目
1921
大正十年
339年目
1921
大正十年
4月
4月
高柳光壽、國學院大學教授を兼任
339年目
1923
大正十二年
341年目
1923
大正十二年
9月
9月
関東大震災
341年目
1926
大正十五年・昭和元年
344年目
1926
大正十五年・昭和元年
4月
4月
高柳光壽、東京帝国大学史料編纂掛編纂官となり、『大日本史料』中世史の編纂を担当
344年目
1928
昭和三年
346年目
1928
昭和三年
『日本戦史 朝鮮役』出版(これにて日本戦史全十三巻終刊)
346年目
1931
昭和六年
349年目
1931
昭和六年
9月18日
9月18日
柳条湖事件勃発、日中十五年戦争始まる
【秀吉】
349年目
1931
昭和六年
平泉澄、洋行を切り上げて帰国
【阿部】
349年目
1931
昭和六年
11月 7日
11月7日
鉄筋コンクリートで大阪城再建され竣工式
【秀吉】
349年目
1932
昭和七年
350年目
1932
昭和七年
8月
8月
国民精神文化研究所設置
【阿部】
350年目
1934
昭和九年
352年目
1934
昭和九年
2月
2月
陸軍省軍事調査部、小册子『思想戦』発刊
【山崎】
352年目
1934
昭和九年
『尋常小学国史』上巻初版
【阿部】
352年目
1935
昭和十年
353年目
1935
昭和十年
2月
2月
美濃部達吉「天皇機関説」が議会で問題視
【阿部】
353年目
1935
昭和十年
『尋常小学国史』下巻初版
【阿部】
353年目
1936
昭和十一年
354年目
1936
昭和十一年
日本諸学振興委員会設置
【阿部】
354年目
1937
昭和十二年
355年目
1937
昭和十二年
5月
5月
文部省編『国体の本義』出版
【阿部】
355年目
1937
昭和十二年
9月
9月
内閣情報部発足
【山崎】
355年目
1938
昭和十三年
356年目
1938
昭和十三年
2月
2月
内閣情報部、『思想戦講習会』 第一回開催
【山崎】
356年目
1938
昭和十三年
2月
2月
日本橋高島屋で第一回思想戦展覧会開催、外務省情報部矢野征記が豊臣秀吉の朝鮮侵略など日本の過去の対外戦争はすべて「日本の防衛のため」と講演 以後、大阪南海高島屋、京都丸物百貨店、福岡玉屋百貨店、佐世保市玉屋百貨店、佐賀市玉屋百貨店、熊本市千徳百貨店、大分市トキハ百貨店、札幌市今井百貨店で八月まで順次開催
【山崎】
356年目
1938
昭和十三年
5月
5月
日本諸学振興委員会、歴史学会公開講演会開催
【阿部】
356年目
1939
昭和十四年
357年目
1939
昭和十四年
読売新聞に吉川英治の「新書太閤記」連載始まる(昭和二十年まで)
【秀吉】
357年目
1940
昭和十五年
358年目
1940
昭和十五年
7月
7月
第二次近衛内閣、「基本国策要綱」策定
【阿部】
358年目
1940
昭和十五年
平泉澄、東京帝国大学助教授就任
【阿部】
358年目
1941
昭和十六年
359年目
1941
昭和十六年
3月
3月
「国民学校令」公布
【阿部】
359年目
1941
昭和十六年
3月
3月
国民精神文化研究所、吉田三郎著『思想戦 近代外国関係史研究』を刊行
【山崎】
359年目
1941
昭和十六年
4月
4月
文部省訓令で「臨時国史概説編纂部」が設置され、国体史観に基づく国史概説の編纂始まる
【阿部】
359年目
1941
昭和十六年
7月
7月
文部省、『臣民の道』編纂刊行
【阿部】
359年目
1941
昭和十六年
12月
12月
太平洋戦争勃発
359年目
1941
昭和十六年
吉川英治『新書太閤記』出版
359年目
1942
昭和十七年
360年目
1942
昭和十七年
1月
1月
マニラ陥落
【秀吉】
360年目
1942
昭和十七年
9月
9月
「マニラ陥落豊太閤奉告祭と祝賀大行進」
【秀吉】
360年目
1943
昭和十八年
361年目
1943
昭和十八年
3月
3月
文部省編『初等科国史』
【阿部】
361年目
1943
昭和十八年
文部省編纂『国史概説』
【永原】
361年目
1943
昭和十八年
8月
8月
教育総監部、下級将校のための教育のために『皇軍史』配付
361年目
1943
昭和十八年
10月
10月
明治神宮外苑競技場にて出陣学徒壮行会挙行
【阿部】
361年目
1945
昭和二十年
363年目
1945
昭和二十年
8月
8月
太平洋戦争終結
363年目
1947
昭和二十二年
365年目
1947
昭和二十二年
4月
4月
高柳光壽、大正大学教授を兼任
365年目
1948
昭和二十三年
366年目
1948
昭和二十三年
高柳光壽、日本歴史学会を創設し、初代会長就任
366年目
1958
昭和三十三年
376年目
1958
昭和三十三年
高柳光壽著、吉川弘文館『明智光秀』出版
376年目
1963
昭和三十八年
381年目
1963
昭和三十八年
司馬遼太郎、サンデー毎日に「国盗り物語」連載開始(一九六六年まで)
381年目
1965
昭和四十年
383年目
1965
昭和四十年
NHK大河ドラマ「太閤記」放送
【秀吉】
383年目
1966
昭和四十一年
384年目
1966
昭和四十一年
司馬遼太郎『国盗り物語』出版
384年目
1967
昭和四十二年
385年目
1967
昭和四十二年
八切止夫著、講談社『信長殺し、光秀ではない』出版
385年目
1973
昭和四十八年
391年目
1973
昭和四十八年
NHK大河ドラマ「国盗り物語」放送
391年目
1987
昭和六十二年
405年目
1987
昭和六十二年
5月
5月
国際日本文化研究センター(日文研)設立
405年目
1995
平成七年
413年目
1995
平成七年
4月
4月
第一回土岐一族の集い開催
413年目
1997
平成九年
415年目
1997
平成九年
1月
1月
新しい歴史教科書をつくる会趣意書発表
【修正】
415年目
1997
平成九年
日本会議設立
415年目
1997
平成九年
新しい歴史教科書をつくる会設立
415年目
2006
平成十八年
424年目
2006
平成十八年
2月
2月
鈴木眞哉・藤本正行著、洋泉社『信長は謀略で殺されたのか』出版
424年目
2007
平成十九年
425年目
2007
平成十九年
日本会議事業センター『歴史の書き換えが始まった! コミンテルンと昭和史の真相』 を刊行
【山崎】
425年目
2007
平成十九年
10月
10月
『明智光秀 四二五年目の真実』脱稿
425年目
2009
平成二十一年
427年目
2009
平成二十一年
3月
3月
明智憲三郎著、プレジデント社『本能寺の変 四二七年目の真実』出版
427年目
2010
平成二十二年
428年目
2010
平成二十二年
10月
10月
藤本正行著、洋泉社『本能寺の変 信長の油断・光秀の殺意』出版
428年目
2013
平成二十五年
431年目
2013
平成二十五年
5月
5月
明智一族伝承の会発足
431年目
2013
平成二十五年
12月
12月
明智憲三郎著、文芸社文庫『本能寺の変 431年目の真実』出版
431年目
2015
平成二十七年
433年目
2015
平成二十七年
7月
7月
明智憲三郎著、幻冬舎『織田信長 四三三年目の真実』出版
433年目
2016
平成二十八年
434年目
2016
平成二十八年
4月
4月
倉山満『歴史戦は「戦時国際法」で闘え』出版
【山崎】
434年目
2016
平成二十八年
5月
5月
明智憲三郎著、文芸社『「本能寺の変」は変だ! 明智光秀の子孫による歴史捜査授業』出版
434年目
2016
平成二十八年
6月
6月
『本能寺の変 431年目の真実』四十万部突破
434年目
2016
平成二十八年
10月
10月
呉座勇一著、中央公論新社『応仁の乱』出版
434年目
2017
平成二十九年
435年目
2017
平成二十九年
5月
5月
明智憲三郎原案・藤堂裕著、秋田書店『信長を殺した男 本能寺の変 431年目の真実 第一巻』出版
435年目
2017
平成二十九年
10月
10月
明智憲三郎原案・藤堂裕著、秋田書店『信長を殺した男 本能寺の変 431年目の真実 第二巻』出版」
435年目
2018
平成三十年
436年目
2018
平成三十年
2月
2月
明智憲三郎著、文芸社文庫『「本能寺の変」は変だ!435年目の再審請求』出版
436年目
2018
平成三十年
3月
3月
呉座勇一著、KADOKAWA『陰謀の日本中世史』出版
436年目
2018
平成三十年
3月
3月
明智憲三郎原案・藤堂裕著、秋田書店『信長を殺した男 本能寺の変 431年目の真実 第三巻』出版
436年目
2018
平成三十年
4月
4月
明智憲三郎著、幻冬舎文庫『織田信長435年目の真実』出版
436年目
2018
平成三十年
4月
4月
NHK、二〇二〇年大河ドラマ「麒麟がくる」発表
436年目
2018
平成三十年
9月
9月
明智憲三郎著、河出書房新社『光秀からの遺言 本能寺の変436年後の発見』出版
436年目
2018
平成三十年
9月
9月
明智憲三郎原案・藤堂裕著、秋田書店『信長を殺した男 本能寺の変 431年目の真実 第四巻』出版
436年目
2019
平成三十一年・令和元年
437年目
2019
平成三十一年・令和元年
2月
2月
明智憲三郎著、河出書房新社『完全版 本能寺の変 431年目の真実』出版
437年目
2019
平成三十一年・令和元年
2月
2月
『私の先祖 明智光秀』細川珠生著、宝島社で「天皇と国を護る正義の闘い」
437年目
2019
平成三十一年・令和元年
3月
3月
明智憲三郎原案・藤堂裕著、秋田書店『信長を殺した男 本能寺の変 431年目の真実 第五巻』出版、シリーズ累計百万部突破
437年目
2019
平成三十一年・令和元年
3月
3月
「正論四月号」で「明智光秀『本能寺の変』は義挙だった」宮崎正弘
437年目
2019
平成三十一年・令和元年
9月
9月
明智憲三郎原案・藤堂裕著、秋田書店『信長を殺した男 本能寺の変 431年目の真実 第六巻』出版
437年目
2019
平成三十一年・令和元年
12月
12月
本書 明智憲三郎著 河出書房新社 出版
437年目
2020
令和二年
438年目
2020
令和二年
1月
1月
NHK大河ドラマで明智光秀が主人公の「麒麟がくる」放送開始予定
438年目
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