第132話 光秀近江制圧と動きだす人々

ガラシャ

今回は天正10年6月4日のお話しですね!前回徳川家康に動きがあったと言っていましたが・・・。

憲三郎先生

この日は徳川家康だけで無く、各地で動きが確認できますよ。

ガラシャ

そうなのですか!?詳しく教えてください。

憲三郎先生

では、今回も史料を順に見ていきましょう。

ガラシャ

よろしくお願いします。

憲三郎先生

まずは光秀の動きからです。

ガラシャ

はい!たしか前日に近江に進軍しました。

憲三郎先生

おそらくもう合流していたのではないかと思います。

ガラシャ

合流したという記録はないのですか?

ガラシャ

この日に出陣したと聴いたと言うことは、すでに出陣していると言うことですね。確かに時間的には合流できそうです。

ガラシャ

京都はまだまだ落ち着いていないのですね・・・。各地の様子はどうなっているのでしょうか?

憲三郎先生

斎藤利堯は、美濃瑞龍寺・千手堂寺・崇福寺へ禁制を発行しました。

ガラシャ

斎藤利堯って誰ですか?

憲三郎先生

斎藤利堯は斎藤道三の子で、この時は織田家の家臣でした。

ガラシャ

斎藤道三!懐かしい名前が出てきました。どうして斎藤利堯が禁制を発行したのですか?

憲三郎先生

この史料からはわかりませんが、この時斎藤利堯は岐阜城の留守居だったと見られ、本能寺の変の知らせを受けると城を掌握し禁制を発行したそうです。

ガラシャ

また美濃の征服を狙っていたのでしょうか?

憲三郎先生

詳しいことはわかっていません。史料がもっと見つかれば何かわかるかも知れませんね。

ガラシャ

気になりますね。

憲三郎先生

羽柴秀吉は、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景に和睦の起請文を与えました。

ガラシャ

羽柴秀吉は確か中国攻めをしていたのですよね?本能寺の変が起きたことはまだ知らないのでしょうか?

憲三郎先生

羽柴秀吉が本能寺の変を知った日がわかる確かな史料はありません。しかし、翌日には嘘の情報を流しているので何か情報を持っていたのだとは思います。

ガラシャ

なんだかとっても怪しげです・・・。徳川家康はどうしていたのですか?

憲三郎先生

徳川家康は、蒲生賢秀・氏郷へその城に堅固に立て籠もるとのことはもっともなことだ、光秀成敗は安心すべきと伝えました。

憲三郎先生

そうです。

ガラシャ

徳川家康は光秀を成敗するつもりなのでしょうか・・・。

ガラシャ

穴山梅雪はどうして切腹したのですか?

憲三郎先生

諸説ありますが確かな事はわかっていません。

ガラシャ

徳川家康は少ない家臣と堺見物にいたのですよね?雑兵共二百余ってどういうことですか?

憲三郎先生

伊賀の者が護衛についたという記録と山岡兄弟が信楽で合流したという記録があります。

ガラシャ

ちょっと混乱してきました・・・。どうして伊賀の人が護衛に?どうして山岡兄弟は合流出来たのですか?

憲三郎先生

確かな史料はありません。伊賀の者は傭兵のような位置付けだったようですが、事前の手配が必要のように思われます。それより不自然なのは山岡兄弟です。

ガラシャ

不自然というと?

憲三郎先生

山岡兄弟は織田家の家臣ですから徳川家康の護衛をするのは実に不自然です。また、信楽で合流したとのことなので、事前に合流地を徳川家康と打ち合わせていたことになります。

ガラシャ

徳川家康と打ち合わせをするタイミングなんてありましたか?

憲三郎先生

私は光秀と徳川家康が合流地を決めていて、山岡兄弟に教えたとみています。

ガラシャ

光秀が指示を出したということですか?でも、徳川家康が光秀成敗は安心するようにと言っていましたが・・・。

憲三郎先生

そうですね。外にはその様に示しながら徳川家康は光秀の謀反に加担している、また山岡兄弟も光秀に味方していた、可能性が高いと考えています。

ガラシャ

どうしてですか?

ガラシャ

甲斐・信濃? たしかに光秀成敗に向かうのではなさそうです・・・。

憲三郎先生

この後の徳川家康の動き方も気になりますが、翌日光秀は安土城へ入ります。

ガラシャ

近江を平定したからですね!この後はどうなるのですか?

憲三郎先生

続きは次回です。

ガラシャ

気になります!

”光秀は近江を制圧しました。徳川家康は岡崎へ帰りました。”