第149話 磔にされた光秀と粟田口と首塚
光秀の首も曝されて、これで終わだと思っていたのですが磔にされるのですか?
・・・光秀が討たれてから随分時間が空きますね。前回が天正10年6月18日でしたよね?
7月2日までの間にも、いくつか関係しそうな史料が残っています。
詳しく教えてください。
では、今回も史料を順に見ていきましょう。
よろしくお願いします。
高木彦左衛門って誰ですか?
織田信孝の家臣です。
書状はどんな内容なのですか?
13日に光秀と一戦し悉く討ち果たし首三千余討取ったこと、
はい。
光秀は山科藪中に隠れていたところを百姓が首を切り捨て置いたのを見つけたこと、
・・・山科で見つけた?
斎藤利三は二人の子と逃げる途中を郷人が子の首を切り斎藤利三を生け捕り、車で引きまわしの上、首を切ったこと、
坂本城では光秀の子二人と明智彌平次(秀満)が切腹し天主が焼け落ちて死んだこと、
近江の光秀加担者は首を切るか助命して召抱えるかしたこと、明日美濃へ入る予定であることを告げました。
光秀の首について新しい情報ですね。
首を切り捨て置いたのを見つけたということで、誰が討取ったのかは、やはりわからないままです。
他にはどんな史料があるのですか?
続けて見ていきましょう。
はい。
そういえば、徳川軍はまだ進軍中だったのですね!
どうして進軍していたのか、やっぱり気になりますね・・・。
織田信孝は安土にいたのですよね?羽柴秀吉と一緒に行動していたのでしょうか?
史料からは一緒に行動していたかはわかりません。羽柴秀吉は光秀に加担した美濃・尾張の武将を掃討していました。
ということは、羽柴秀吉も織田信孝も美濃に居るのですよね?京都はどうなっているのですか?
なるほど、奉行が取り仕切っていたのですね。・・・首塚ですか?
首塚というのは、討ち取られた者、捕虜に取られた者、あるいは斬首刑にされた罪人の首を供養するための「塚」の事です。
その首塚はどこにあるのですか?
今は京都府京都市白川通に残っています。
あ!あのおいしい和菓子屋さんの横ですね!!私もお参りに行きました。
お参りの時に何か気付いたことはありませんか?
・・・あれ?光秀の首塚でした。斎藤利三の名前は無かったような気がします。
後に光秀の首塚だけが今場所に移動されたそうです。
光秀だけが移動されたのですか?
その経緯については私の先祖と伝わる明田利右衛門も関わっているようなので別の機会にお話ししましょう。
・・・気になりますね。次の史料はどんな史料ですか?
高田長左衛門って誰ですか?
羽柴秀吉の家臣のようです。
織田信長の葬儀を羽柴秀吉が執り行うのですか?葬儀って家族が執り行う物だと思っていました。
羽柴秀吉は自分が織田信長の葬儀を執り行うことで後継者であるという印象を世に知らしめました。
戦国武将の後継者は息子ではないのですか?何人か出てきていた気がしますが・・・。
光秀によって当主(織田信長)も嫡男(織田信忠)も討取られてしまったので、元服している子息は養子に行っており、元服していない六男の三法師(後の織田信秀)が後継者候補となったのだと思われます。
元服していないということは・・・。
後ろ盾となったのは羽柴秀吉でした。
なるほど・・・。
そうです。一度は羽柴秀吉の家臣になって居たのですが、その後織田信長の家臣になり、本能寺の変では光秀方として戦っていたようです。
どうして羽柴秀吉は清洲城にいることを滝川一益に告げたのですか?
6月27日に織田家後継者および遺領の配分を決定することを目的とした会議を行ないました。これが有名な清洲会議です。
ということは、家臣団の面々が参加したのですか?
集まった織田家家臣は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人でした。
あれ?少ない・・・。滝川一益は前日に手紙で知らされただけということですか?
間に合わなかった・辞退した・参加を拒まれた・招集されなかった等、色々な説があるようです。
こちらもちょっと気になりますね・・・。他にはなにか史料がありますか?
坂本城で自害した明智秀満ですね。女房衆の人を引き取れる事に驚きました・・・。この□はどういうことですか?
文字の判別が出来なかったということです。
明智秀満の奥様は誰だったのですか?
明智秀満の妻は光秀の娘なのですが、光秀の子に「北」なにがしという人物は見当たりません。
名前が間違っているということですか?
もし、北が光の間違いであれば、「光慶の姉」となり、話が合います。
明智秀満の女房衆と子供は坂本城で亡くなったのかと思っていました。子供は親元に引き取らせたとありますが、そうなると親元は光秀になりますよね?
明智秀満の妻は、元は荒木村重の妻でした。
荒木村重との子である可能性もあるのですね?
明智家も荒木家も滅亡していますし、継子というのは血の繋がらない子ということなので、この二人は明智秀満の子供ではなくて、何らかの事情で引き取って育てた血縁のない養子の可能性があります。その実の親が生きているので親元に戻したということでしょう。
明智秀満の親御さんはどうなったのですか?
そうですか・・・。
亡くなってからだいぶ経っているのに、首と胴体を継なぐのも大変な仕事ですね・・・。
これで史料はおしまいですか?光秀の子供が処刑されたという記録はないのですか?
フロイスの記録などで男児が二人いたことが確認できますが、捕まったという記録はありません。光秀が無事に逃がしたものと思われます。
どうやって逃げたのでしょう?
逃げた経路については推論も含みますのでまたの機会にしましょう。最後は羽柴秀吉が残した報告書「惟任退治記」と土岐氏のその後について
気になります!