第148話 猪飼野半左衛門と甲斐織田軍崩壊

前回、斎藤利三の捕縛と処刑について教えてもらいましたが、味方の裏切りってどういうことですか?

どうやら同じ明智の家臣に捕縛されたそうです。

とても気になります!

天正10年6月18日に少し史料が残っているのですが、同じ日に光秀の伯父や甲斐国についても史料があります。

詳しく教えてください。

では、今回も史料を順に見ていきましょう。

よろしくお願いします。


猪飼野家は近江の国衆で元は浅井家の家臣でしたが、その後織田家の家臣になり、そして光秀の家臣になったようです。

父の猪飼昇定(正勝)は本能寺の変で光秀軍として戦い討死したようです。

堅田というと交通の要所ですよね?とても信頼の厚い家臣だったのですね。

元々近江の国衆で近江国志賀郡堅田水軍の棟梁の家柄のようで、代々堅田を知行していたようですね。

猪飼野半左衛門も光秀の家臣だったのですよね?その後どうなるのですか?

丹羽長秀の家臣になり、後に徳川家康の家臣になり、遠江・駿河490石の知行を与えられたそうです。

あれ丹羽長秀ですか?羽柴秀吉の家臣ではないのですね。

丹羽長秀は羽柴秀吉の家臣なので、陪臣という位置づけです。羽柴秀吉の家臣といっても間違いではありません。

徳川家康が家臣にするということは、なにかがあったのでは?斎藤利三捕縛はちょっと不自然?なんて思ってしまうのですが・・・。

史料からはわかりませんが、斎藤利三を殺すことになった人物を斎藤利三の娘の春日局を重用した徳川家康が抱えるのは変だと思われます。何か裏があるかもしれません。

気になりますね・・・。斎藤利三は処刑されたのですよね?

前回の宗及の史料では「車沙汰の上、即、首を斬られた」とありましたが、車沙汰ってなんの事なのですか?

車裂き・車で引き回し・車座になって裁判など諸説あるようで、確かなことはわかっていません。

車裂きってなんですか?

手足を別々の車に固定し四方に引き裂く処刑方法だそうです。

・・・なかなか酷い処刑方ですね。

斎藤利三の処刑方法は斬首のようなので両立しないと思われていましたが、中国では、斬首した後に車裂きをする例があるようで、まったく可能性が無いわけでもなさそうです。

光秀に関係した人は斎藤利三のように処刑されてしまったのですか?

この時の光秀方の中で処刑されたという史料が残っているのは斎藤利三だけのようです。ただ、光秀の討死をうけて自害した人々も居たようです。

誰ですか?

妻木って確か光秀の正室の家の名前でしたよね?

そうです。叔父ということなので正室の父の兄弟だと思われます。

西教寺はたしか明智一族の菩提寺でしたよね?妻木の一族の菩提寺も西教寺なのですか?

いいえ、妻木も一族の菩提寺は妻木城の近くの崇禅寺だそうです。

どうして妻木藤右衛門は西教寺で自害したのですか?

史料からはわかりませんが、光秀に殉じて、という意思の表れだったのかもしれません。

なるほど・・・。そういえば甲斐国でもなにかあったのですか?


え!?

甲斐の国衆一揆は、河尻秀隆を殺し織田軍三千人を討ち取り、甲斐織田軍は崩壊しました。

国衆一揆って今まで何度か出てきた百姓一揆とはなにか違うのですか?

国衆一揆は国衆、いわゆる武将クラスが起こす一揆なのでイメージとしては反乱や戦に近いです。

3000人・・・本能寺の変で討取られた光秀軍と同じくらいの数です。

史料では崩壊したとありますが、おそらく壊滅状態だったと思われます。

どうしてこのタイミングで国衆一揆が起こったのですか?

この史料からはわかりませんが、これまでの史料から考察すると、徳川家康が元武田家の武将に安堵状を送ったことと、匿っていた武田家の武将達を甲斐国に戻すことで、国衆一揆を起こすようにたきつけたのが原因だと思われます。

徳川家康が甲斐国に工作していることを察知し、甲斐国を徳川家康がとる前に自分が取ろうとしたのですが、時すでに遅く、徳川家康が先手必勝の形になったということです。

この後の甲斐国はどうなるのですか?

徳川家康が治めることになります。

羽柴秀吉はそれを許したのですか?

結果としては追認のような形になったようです。

光秀が討取られた余波も、もうこれで終わりでしょうか・・・。

これでは終わりません。この約1週間後に光秀は粟田口で磔にされます。

え!?本能寺で首が曝されたのに?

続きは次回です。

気になります!
