第56話 つかの間の平穏。西教寺と坂本城と舟。

憲三郎先生、タイトルが反って不穏です・・・。

そうですね。ですが、まずは前回の続きから日付と共に光秀の足跡を追って行きましょう。

はい。


舟大工さんですか?忠節を賞しということは何かとても良いことをしたのですね。何をしたのですか?

史料からは具体的なことはわかりませんが、舟大工なので舟に関わる何かであると思われます。そしてこの後の出来事と、もしかしたら繋がりがあるかもしれません。

「この後」ですか?

5月22日に織田信長は木材の切り出しに山田へ行きました。そして大工の岡部又右衛門を棟梁に任命し、造船を命じました。

舟!作るのですね!でもどうしてこのタイミングで舟なのですか?

織田信長は足利義昭が必ず再び敵対すると予測し、軍勢が琵琶湖を速やかに渡るために、この舟を作らせたようです。

なるほど、備えたのですね。


この間の今堅田の戦ですね。誰かを供養する史料は初めてですね。

役職の上下にかかわらず供養したようです。

人としてかっこいいエピソードで、とてもうれしいです。

西教寺は光秀の菩提寺なので、貴重な史料が残っていたようです。

菩提寺って一族のお寺のことですよね?

そうです。もう少し後のお話しですが、光秀の妻の葬儀を行ったのも西教寺です。

とても縁のあるお寺なのですね。

西教寺には光秀の妻だけでなく明智一族のお墓があるので、今でも毎年明智一族を含む光秀の法要をされています。

とっても、とってもありがたいことです。

西教寺には安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名で茶人、建築家、作庭家、書家である小堀遠州の作ったお庭があるそうですよ。

大事に守られてきたのですね。

そうですね。

寄り道をしてしまいました、その後の光秀でしたね。

はい。6月17日に光秀は革嶋秀存へ返書をします。

あれ?革嶋って聞いたことがあります。

革嶋氏は山城国葛野郡川島庄を本貫とする国人領主の家系です。

なるほど・・・。あんまり考えてなかったのですが京都にもちゃんと領主がいたんですね。

そうですね。都は京なので将軍御所も京都にありますが、将軍が直接治めるわけではなく領主が各地域ごとにいました。

では山城国葛野郡川島庄はずっと革嶋氏が治めていたんですね。

実は領地の革島庄を三好勢にとられていた革嶋氏は織田信長の上洛をきっかけに領主に復帰します。その後は織田信長の配下になりました。

織田軍の人だったのですね!確かに上洛の時に織田信長が守護しないと・・というお話ししましたね。

そうですね。何度か出てきていますが天下の儀についてはまた詳しくお話ししましょう。

ありがとうございます。革嶋氏でしたね。たしか前に登場したのは革嶋刑部丞という人でした。

革嶋秀存と革嶋刑部丞は兄弟です。前回の書状の内容を見てみるとこの時は二人とも木戸に配置されていたのかもしれませんね。

今回はどんな内容だったのですか?

実は今回の書状は年次比定が「不明」となっている書状なのです。内容は普請と書いてあるのでどこかに何かを築いている事はわかります。史料解析がすすんだらもっと詳しく前後関係がはっきりするでしょう。

以前も思いましたが、年次比定はとっても難しそうですね・・・。

そうですね。普請と言えば、6月28日に吉田兼見は光秀を坂本に訪問します。

あ、坂本城!

この日光秀は天主の下立小屋敷で連歌会を興行。里村昌叱が同座しました。

坂本城が完成したのですね!里村昌叱って誰ですか?

里村昌叱は連歌師で、里村紹巴の弟子にあたる人ですね。

里村紹巴ってなにか聞いたことがあるような・・・。

光秀が初めて参加した連歌会でも一緒でした。

あ、あの時の!連歌会ってどんな時に行うのですか?

めでたいことを祝う時や神に祈る時に行うようです。今回は天主ができたお祝いの連歌会だと思われます。

このところ戦が続いていたのでめでたいことは嬉しいですね。

めでたいことと言えば、7月3日に織田信長の建造させた大船が完成しました。史料には「その大きさに上下の者みな仰天した」とあります。

ついにあの舟が出来上がったんですね!大きさもそうですが、約一月半で完成してしまうなんて驚きです、とっても急がせたんですね。

そうですね、夜間も作業をしたそうですよ。そしてそれが功を奏します。

??

舟の完成から2日後の7月5日に足利義昭は槙島城に立て籠もり、織田信長へ敵対します。

うわぁ・・・とってもぎりぎりでした。

織田信長の先見の明が光りますね。

それにしても和睦から敵対までたった3ヶ月・・・短いですね。

そして、次回この舟が大活躍します。

楽しみです!
