第150話 惟任退治記と土岐氏のその後
織田信長も光秀も居なくなって世の中はどう動いていくのですか?
羽柴秀吉が天下の実権を握るべく行動していきます。
そういえば織田信長の葬儀を執り行うといっていましたよね。
そうですね、その他にも各所に書状を送っています。
詳しく教えてください。
では、今回は羽柴秀吉の史料を中心に見ていきましょう。
よろしくお願いします。
え?本能寺の変での一連の出来事に細川藤孝と細川忠興って出てきましたか?
光秀から見ると援軍を要請したものの動いてはもらえなかった。というところですね。
山崎の合戦に参戦もしてなかったですよね?なのに「比類無き覚悟」で身の上の保障ですか?
この史料からは詳しいことはわかりませんが、羽柴秀吉にとって何らかの有益なことがあったのは明らかですね。
気になりますね・・・。他にはどんな書状があるのですか?
松井康之って細川藤孝の家臣ですよね?名指しで報償ということはそれだけの功績を残したのですか?
史料からは功績について詳しいことはわかりません。ただ、三分の一という大きな報償も直接命じられているのもいささか気になりますね。
もっと史料がでてくれば細川家の功績も松井康之の功績もわかるかも知れませんね。
史料が発見されることを祈ります。
次の史料を見てみましょう。
はい。
鍋島直茂って誰ですか?
鍋島直茂は肥前の国(現在の佐賀県と長崎県)の武将です。
またずいぶん遠い国の武将ですね。
京都から見ると遠く感じますが、羽柴秀吉は毛利氏との戦いで毛利領まで攻め入っているので遠い国というほどでも無いのかも知れません。
南蛮帽子をプレゼントしてくれたということは親交もあったのですね。
後に豊臣姓が下賜されるほど重用されたようです。
羽柴秀吉は9日に上洛して近日中に姫路に戻りその後は何をするのですか?
光秀が治めていた領地に視察でしょうか。光秀の家臣は全員が処刑されてしまったというわけではないのですよね?
もしかしたら今後の作戦会議でもしていたのかもしれませんね。
決めたばっかりなのにもう奉行を変えてしまうのですね。
前回決まった奉行は首塚築造の奉行でこの史料の奉行は京都を取り仕切る奉行です。
この二人は誰ですか?
どちらも羽柴秀吉の家臣です。杉原家次は羽柴秀吉の正室・寧々の叔父で丹波福知山城主となります。浅野長吉は寧々の義弟にあたるようです。
親戚にあたる家臣で京都の守りを固めたのですね。そういえば織田信長の葬儀はいつ行なわれたのですか?
「惟任退治記」って何回か登場していますよね。たしか羽柴秀吉が書かせた本能寺の変の顛末書ですよね?
そうですね。羽柴秀吉はこの「惟任退治記」の発行と葬儀を執り行うことによって織田信長の後継者は自分だと各所に宣伝しました。
この後羽柴秀吉は柴田勝家と織田信孝を攻めます。
え!?
どういうことですか?
羽柴秀吉が柴田勝家・織田信孝を攻める事に対する事前通告だと思われます。
なんだかもうすっかり羽柴秀吉の天下という雰囲気ですね。
こうして光秀の戦いは終わります。
光秀の行なったことはどんな意味があったのでしょうか?
私達子孫がこうして生きているということが光秀の戦った大きな意義で成果なのだと思います。
光秀の戦いの始まりは土岐氏の内乱でしたよね。土岐氏はその後どうなったのですか?
土岐氏は滅亡してしまったのですか?
土岐頼芸の子供は土岐頼芸が美濃を追放された後美濃で生きていました。
どうやって生き延びたのですか?
史料少なく詳しいことはわかりません。稲葉家が匿っていた可能性もありますが、江戸時代の頃には高家を務めていました。
高家とは、江戸幕府の職名。老中支配に属し、主として儀式・典礼をつかさどり、伊勢・日光への代拝のほか、特に京都への御使い、勅使の接待など、朝廷との間の諸礼にあたった家柄。・・・あれ?すごく良い家柄です。
ですが、土岐氏の本家ではありません。
土岐氏の本家は誰が継いだのですか?
土岐氏本家は江戸時代に徳川家康が仕えていた菅沼定政に土岐氏を名乗らせて本家にしました。その後大名となり現代まで続いて居ます。
え!?土岐頼芸の子孫は思うところはなかったのですか?
史料がないので詳しい経緯はわかりませんが、高家は徳川家の家臣の中でも良い待遇ですので、高家に取り立てられた事と本家が切り替わった事はなにか関連があるのかも知れません。
本家を継いだ菅沼定政は誰なのですか?
菅沼定政は明智家に連なる人物です。
え!?ここで明智家が出てくるのですか?名字が明智ではないですが・・・。
菅沼定政は母の実家に引き取られて菅沼姓になりました。父は明智定明です。
光秀とはどう繋がるのですか?
簡単に言うと光秀のひいひいおじいさんの兄弟の家系ですね。
どうして土岐頼芸の子孫では無く明智家の人が本家を継いだでしょう?
史料からはわかりませんが、土岐頼純の意志を明智家が継いだということかもしれません。というのも光秀の花押には「力仇代糺」(力をもって仇をうち代を糺す)という、文字が組み合わさって出来ています。
光秀が亡き後で徳川家康が代わりに糺してくれたということですね。
ちなみに現代も続く土岐頼芸の家系にはクプリスペプラーさんがいます。明智定明のことやクリスペプラーさんについては私の著書で詳しく書いていますので是非手に取っていただきたいです。
私も読みました!
ガラシャさんはこれで光秀の生涯を一通り学んだことになりますね。
なんだかもう最初の頃のことを忘れてきてしまった気がします。
どうやらこの「教えて憲三郎先生」がYouTubeで配信されるようですよ。
え!?そうなのですか?
楽しみです!