第137話 光秀上洛

光秀は、本能寺の変後初の上洛ですね。

そして誠仁親王からの御使との対談後、初の上洛となります。

御使は吉田兼見が務めたのでしたね。

そうですね。

でも、羽柴秀吉の軍が急接近していると情報がありましたよね・・・。

そうです。その影響なのかこの日は状況の変化が目に見えて変わってきます。

詳しく教えてください。

では、今回も史料を順に見ていきましょう。

よろしくお願いします。

光秀は何時ころ到着するのでしょう?

光秀は未刻(午後二時前後)に上洛しました。吉田兼見は、光秀を迎える為に京都白川まで出向きました。

お出迎えなんて好待遇ですね。

公家衆・摂家・清花が悉く迎え出ており、吉田兼見はこの旨を光秀に通知したところ、光秀は無用であると辞退しました。

公家の方々もお出迎えなんて・・・今までなかったことですね。

公家衆が京都の次守護は光秀だと思っていたという表れでしょうね。

光秀はどうして辞退したのでしょう?

この史料からは明確な理由まではわかりません。ただ辞退しているということは、何かしらの理由があったのではないかと思います。

羽柴秀吉軍が迫っていますし、時間もなさそうですね・・・。

光秀は、両御所(正親町天皇・誠仁親王)へ銀子五百枚、京都五山と京都大徳寺へ銀子百枚ずつ、吉田兼見へ銀子五十枚を進上しました。そして、光秀は吉田兼見邸小座敷に暫く逗留し、方々注進を受けて手配しました。

何の手配をしたのですか?

この史料からはわかりません。もっと史料が出てくればわかるかもしれませんね。

こんなに史料が豊富でもまだ足りないのですね・・・。

吉田兼見は、光秀へ夕食を進上し、紹巴・昌叱・心前が相伴しました。

連歌会でよく見る名前ですね。とても優雅そうです。

光秀は、夕食後に京都下鳥羽に出陣しました。

羽柴秀吉軍への対応のための出陣ですね。

吉田兼見は誠仁親王と対面し、委細申入れました。光秀への奉書が認められたので、吉田兼見はその奉書を携えて即時下鳥羽の光秀陣所へ下向し、銀子の御礼と奉書を光秀へ示しました。

これで正式に光秀が京都の守護だと朝廷に認められたということですか?

おそらく、そのように解釈して良いと思われます。
しかし、例のごとく兼見卿記正本では光秀が両御所へ銀子を進上した件、吉田兼見が下鳥羽の光秀陣所へ行った件は削除されています。

社会的には光秀が朝廷に認められたことも無かったことになったのですね・・・。

勧修寺晴豊は、この日のことを日々記に書き残しています。

どんなことが書かれているのですか?

光秀が河内へ軍勢を派遣したこと、光秀が、吉田兼見を来訪し禁裏銀子五百枚を両御所へ進上したこと、
朝廷は光秀へ京都の治安維持をかたく申付け、文にて光秀の銀子進上を賞したこと、また朝廷は吉田兼見を下鳥羽南殿寺の光秀本陣へ派遣したこと、などが書かれています。

光秀が陣を置いた下鳥羽南殿寺はどのあたりですか?

現代の資料では下鳥羽に南殿寺という寺はみあたらず、下鳥羽南殿御所という場所が本陣だったのではないかという説もあるようです。

御所を本陣にするのは今までなかったですね・・・。

この日光秀は、京都大徳寺及び門前町に禁制を下しているのでもしかしたら関係があるかもしれませんね。

もっと史料が出てくることを祈ります。京都以外ではどんな動きがあったのですか?

松平家忠ということは徳川家康に京都の情報が入ったということですね。出陣が延期になるなんてどんな情報が届けられたのですか?

この史料からはわかりませんが、この頃大和の寛尊が「羽柴秀吉が毛利輝元と和睦して近日上洛するという噂が頻繁である」と残しているので同じようなことが耳に入っていている可能性は高いと思われます。

あまり良い噂ではないですね・・・。

寛尊はほかにも、大坂では織田信澄と織田信孝が談合したが人数がそろわないこと、
光秀よりの合力要請の使者が切々と到来し、五日より藤田伝五が逗留すること、

光秀の味方あつめが難航しているのでしょうか・・・。

筒井順慶より羽柴秀吉へ使者が派遣され入魂となったという噂があること、
光秀が京都山崎八幡の洞ヶ峠に着陣したこと。などを書き残しています。

あれ?筒井順慶は光秀の味方でしたよね?

え!?なんだかとってもあやしそうな・・・。どういうことですか?

おそらく、光秀の加勢に行く予定が郡山城で籠城の準備を始めたということだと思われます。

籠城の準備ですか??

加勢に行かなければ光秀を敵に回すことになります。その為、情勢が落ち着くまで守りを固めようということだったのかもしれませんね。

確かにどう考えが変わったのか不審ですね。敵といえば、羽柴秀吉はどこまで来ているのでしょう?

着実に近づいてきていますね・・・。光秀は大丈夫でしょうか?

応援要請ですね。

五十日、百日の内に近国を固めた後には十五郎(明智光慶)、与一郎(細川忠興)に政権を引き渡す所存と伝えました。

羽柴秀吉が近づいているのにそんなに猶予があるのでしょうか?

この時点で光秀は高山右近が味方についていると思っていることもありますが、細川藤孝に確実に味方になってもらうためにもこのように書いたのかもしれませんね。

良いお返事はもらえたのでしょうか?

それがわかる史料は見つかっていません。

光秀はこの後どうなっていくのでしょうか?

続きは次回です。

気になります!
