第58話 朝倉義景、浅井長政との決着の日
ついに決着がつくのですね!?
長い戦いでしたね。早速ですが、日付を追って見ていきましょう。
はい。
天正元年8月4日に岐阜に帰還した織田信長ですが、8月8日に阿閉貞征が味方になるという意志を示したので、その夜出陣します。すると、月ヶ瀬城に居た敵陣は城を明け渡し撤退します。
阿閉貞征って確か51話で出てきた、小谷城の近くにある山本山城の城主で浅井長政の家臣でしたよね?
そうです。織田信長は、調略によって味方に引き入れ敵陣を崩していくという戦略をとっていたようです。
ということは阿閉貞征だけでは無かったのですか?
阿閉貞征と同様に浅見道西も味方に引き入れたようです。
浅見道西って誰ですか?
北近江の国衆です。浅見道西の父の浅見貞則が、浅井長政の祖父である浅井亮政とあさからぬ中だったようです。
えっと・・・。浅井家と関係が深い北近江の国衆の人ってことですか?この時、その浅見道西は何をしていたのですか?
浅井久政(浅井長政の父)の命で作った、大獄山の麓の焼尾というところの砦の守備についていました。
織田信長はすごい位置にいる人を味方につけましたね。あれ?大獄山って聞いたことがあるような・・・
以前の浅井家との戦いで朝倉軍が援軍に駆けつけた城です。この時もまだ500人ほど立て籠もっていました。
あれ?位置的には小谷城と大獄山と焼尾の砦はどうなっているのですか?
焼尾の砦から上って大獄、その隣の山が小谷城です。
なるほど。
そして8月10日に織田信長は大獄山の北に位置する山田山城に陣を張って、小谷から越前の道路を遮断しました。
山田山城って舟の木材を切りに行った山田ですか?
史料からはよくわかりません。ただ、山田山城は小谷城のすぐ北にある山です。敵陣近くの山から木材を取りに行ったというのは考えにくいので違う土地だと思われます。
きっと読めないと思いますが、当時の地図があったら良いのに・・・って思います。
今も地名として残っている事も多いので、ゆっくり検証するのも良いかもしれませんね。
頑張ります。・・・それにしても浅井長政と朝倉義景の間の道を遮断したって言うことですよね?敵も黙っていなさそうです。
そうですね。それを受け、朝倉義景は織田軍を囲むように余呉・木本・田部山に陣を張ります。
なかなかぴりぴりしてきましたね。
雨の中山道は険しそうです・・・。
すると、大獄に居た朝倉軍は降参しました。織田信長は、大獄が陥落したのを敵に知らせる為に降参した者達を朝倉軍の本陣に送り届けます。
え?わざわざ知らせてしまうのですか?
この方面は守り切れないと理解させた上で、敵本陣へ攻め入ろうと考えたようです。
戦略って難しいです。
織田信長は大獄を陥落させた後、丁野山を攻めます。ここにも朝倉軍に協力していた平泉寺の玉泉坊が立て籠もっていました。玉泉坊も降参して撤退しました。
なんだかすんなりと降参してくれますね。
織田信長は朝倉義景も撤退すると予測していたようで、先陣の織田軍家臣団には逃がさぬよう注意するようにと言い含めていたそうです。
そういえば、光秀はこの戦は参加していないのですか?
史料には光秀の名前はありません。しかし、この家臣団の中に光秀の部下が居るので、光秀軍は参加しているようです。
なるほど。それにしても、今までの予測は当たっていますからね・・・。どうなりましたか?
あれ?先陣の家臣団達は・・・。
遅れて駆けつけて、織田信長に大変叱られたようです。
・・・。
織田軍は撤退する朝倉軍を追撃し3,000以上の敵を討ち取りました。その中には斎藤龍興もいました。
こんなところに!朝倉軍はどんなルートで撤退したのですか?
そうですね・・・。少し長くなるので、それは次の機会に詳しく説明しましょう。
楽しみにしておきます。
庄六坊賢松寺ってどこですか?
福井県大野市の当たりだと思われますが、六坊賢松寺は既に廃寺となっているので場所は特定されていません。今の曹源寺(大野市明倫町)あたりにあったのではないかという説もあるようです。
織田信長はどうしたのですか?
朝倉義景の追撃と共に山中に入り落ち武者探しをさせました。
徹底していますね・・・。
そうしている内に光秀はこちらの光秀軍に合流します。
静原山城から!お疲れさまです。いつ合流したのですか?
詳しい日付はわかっていません。しかし、越前で書いたと思われる史料が残っています。
どんな内容ですか?
服部七兵衛尉って誰ですか?
服部七兵衛尉は朝倉義景の家臣です。しかし、恩賞をもらえていることからしてどこかの段階で織田軍に寝返った、または降参した人のようです。
ということは、越前の人なのですよね?100石をあてがうってどういうことですか?
土地を100石分あげたということですね。
越前の土地ですか?どうして光秀は越前の土地をあげることができたのですか?
おそらく、攻め取った土地をあてがったのでしょう。
攻め取った土地っていっても、織田軍で取った土地ですよね?
そうです。ですので、織田信長の許可をもらっていると考えて良いと思われます。
内容も気になるのですが、竹って誰ですか?
光秀の縁者だと思われるのですが、詳しいことはまだわかっていません。
縁者ですか!?なんだか意味深ですが。もしかして越前に居た頃に縁があった人でしょうか?
わかりません。もっと史料が出てくれば確かな事が言えるのですが、個人的には越前の末裔に繋がる人では無いかと思います。
・・・織田信長に許可がもらえたという事は、光秀はこの戦いに貢献したということですか?
そうですね、史料からはわかりませんが、あてがった土地はもしかしたら光秀が攻め取った土地なのかもしれません。
なるほど・・・まだまだ解明できる余地はたくさんあるのですね。
そうこうしているうちに、朝倉景鏡が朝倉義景を切腹させます。家臣の鳥居影近と高橋景業は朝倉義景の介錯をし、後を追って切腹しました。
切腹?え!?朝倉景鏡って誰ですか?
朝倉義景の従兄弟です。
・・・。
8月24日に朝倉景鏡は、織田信長のもとに朝倉義景の首を持ってきました。
持って?え!?衝撃的な展開です。
織田信長は、丹羽長秀に朝倉義景の母と嫡男を探し出し討つように命じます。
・・・徹底的ですね。
それにより越前全土を平定したので、前波吉継に守護代を任せて8月26日虎御前山城に帰ってきました。
朝倉景鏡はその後どうなったのですか?
降伏を許されたようです。
・・・なんともコメントがしづらいです。
虎御前山城に戻った翌日8月27日の夜に織田信長の命で羽柴秀吉が、小谷城へ攻めこみます。
タイトなスケジュールです。
羽柴秀吉は小谷城内の浅井久政の居城を占領し、浅井久政を切腹に追い込みます。
ついに!
そして浅井久政の首を虎御前山城の織田信長へ届けました。
なかなか、想像するのが苦しくなってきました。
今回はたくさん、切腹と首が登場したのですが・・・。届けられた首はどうなるのですか?
朝倉義景、浅井久政、浅井長政の首はすぐに京都に届けられ獄門に掛けられました。
獄門ってなんか怖いですが、どういうことですか。
さらし首のことですね。
・・・。
また、浅井長政の嫡男も後に討伐され、関ヶ原で磔に掛けられました。
磔・・・。浅井長政の嫡男ということは織田信長にとっては甥ですよね?
そうです。心中は計り知れないですが、嫡男なので悔恨を残さないよう決断したのかもしれません。
争いってものは本当に・・・。北近江はどうなるのですか?
浅井長政が治めていた北近江は羽柴秀吉が治めることとなりました。
こうして長い戦いが一つ終わったんですね。
次回は越前での光秀の活躍です。
楽しみです。