第59話 越前での連署状

ガラシャ

今回、光秀は越前で活躍すると聞きました!

憲三郎先生

そうですね。光秀が発行した越前に関する連署状が何通か見つかっています。

ガラシャ

ということは、光秀は近江に戻らずそのまま越前に滞在していたのですか?

憲三郎先生

越前で発行されたと思われる内容なので、もしかしたら、そのまま滞在し越前の内政を取り仕切っていたのかもしれません。

ガラシャ

織田信長はどうしていたのですか?

憲三郎先生

六角氏を攻めるために鯰江城に向かいます。

ガラシャ

織田信長とは別働隊だったのですね、そちらも気になりますが、連署状の内容も気になります。

憲三郎先生

では、織田軍の動きと合わせて連署状を一通ずつ見ていきましょう。

ガラシャ

はい!

ガラシャ

越前織田大明神?織田って・・・?

憲三郎先生

福井県丹生郡越前町織田にある神社で、織田信長は越前織田大明神の神官の子孫とされ、織田家の氏神とされていたそうで、正式名は劔神社です。

ガラシャ

織田信長にとって、深い関係の神社なのですね。

憲三郎先生

そうですね。ですので、他の連署状よりいち早く発行したのかもしれません。

ガラシャ

知行は領土のことでしたよね。ということは、神社の領土を保障する書状ですね。

憲三郎先生

その通りです。一方、織田信長は9月4日に佐和山城へ到着し、柴田勝家に鯰江城を攻めるように命じます。

ガラシャ

六角氏は・・・。

憲三郎先生

柴田勝家が鯰江城を攻めると、六角義治(六角義賢の子)は降参して退却しました。そして、織田信長は岐阜に帰ります。

ガラシャ

今までの戦いが嘘みたいに、すんなりです。

ガラシャ

御朱印って社寺仏閣でいただける御朱印とは違いそうですが・・・どういうことですか?

憲三郎先生

ここで言う朱印とは、将軍・大名・武将などが、命令・承認などを目的とした公的文書に朱色の印章を用いたことからその文書を朱印状・朱印と呼ばれていたそうです。

ガラシャ

ということは・・・?

憲三郎先生

越前は織田信長の支配下になったことを知らしめるための、公式文書を発行したということですね。

ガラシャ

なるほど。

ガラシャ

本知って何のことですか?

憲三郎先生

本知とはもとから知行していた所領のことを指します。

ガラシャ

ということは、安居三河守も今までの領土を保障されたのですね。

憲三郎先生

そうです。そしてこの日に織田信長は岐阜に帰還しました。

ガラシャ

おかえりなさいませ。

ガラシャ

宝慶寺は、どの辺りにあるのですか?

憲三郎先生

宝慶寺は、福井県大野市にあります。

ガラシャ

なるほど。

憲三郎先生

その頃、岐阜では9月10日に杉谷善住坊が高島より連行され、尋問の後処刑されました。

ガラシャ

杉田善住坊って聞いたことあるような・・・何の罪で処刑されたんですか?

憲三郎先生

元亀元年の千草越えの時に、織田信長を狙撃した罪です。

ガラシャ

あ!あのときの!やっと捕まったのですね。

憲三郎先生

千草の山中で穴に埋めて、ノコギリで首を切ったそうです。

ガラシャ

千草で!?なかなかグロテスクで執念を感じる処刑です・・・。

憲三郎先生

詳しくはわかりませんが、ある1つの城に書状を出し織田信長と敵対させようとしていたとの記録もあるようです。

ガラシャ

余罪もあったのですね・・・。連署状はまだありますか?

ガラシャ

扶持ってなんですか?

憲三郎先生

扶持とは扶持米の略語で、お米で支払われた給与のことです。

ガラシャ

給与目録!

ガラシャ

越前三国湊瀧谷寺って、どのあたりですか?

憲三郎先生

越前三国湊瀧谷寺は、福井県坂井市三国町滝谷にあります。

ガラシャ

なるほど。

ガラシャ

軽物座長・・・軽物座って何ですか?

憲三郎先生

軽物座とは、各種衣料のうち、とくに絹織物の特権的な取引を行っていた商人集団のことを指します。

ガラシャ

座長って、どんな仕事を任されたのですか?

憲三郎先生

橘屋三郎右衛門尉は座長となって、座の商人からの役銭徴収などを任されたようです。

ガラシャ

なるほど。それにしても越前の至る所に関わる連署状でした。

憲三郎先生

そうですね。織田軍が、越前全土を支配領域にしたことがよくわかります。

ガラシャ

なんだか、お寺や神社の安堵に関しては光秀が、家臣の給与に関しては滝川一益が担当者だったのでしょうか?

憲三郎先生

確かな事はわかりませんが、面白い所に目をつけますね。

ガラシャ

この後、光秀は坂本に戻るのですか?

憲三郎先生

いいえ、この後は一度、静原山城の包囲に合流します。

ガラシャ

あ!確かに光秀軍が包囲中でした。次回が楽しみです。

”光秀達は、約1ヶ月で7通の越前に関する連署状を発行しました。”