第139話 光秀の淀城普請と筒井順慶の決心
今まで史料を見てきて、光秀は真面目に戦国時代を生きてきたと思うのですが、どうしていざとなってこんなに味方が少ないのですか?
味方が全くいなかったわけではありません。ただ、人心掌握や情報戦において羽柴秀吉のほうが上手だったこと、そして、戦国武将は一族の生存責任を負っていましたので、必ず勝馬に乗らねばならない宿命がありました。そういうことがとても影響したのだと思われます。
前回、筒井順慶が羽柴秀吉方に覚悟替えしたようだと言っていましたが、まだ噂なのですよね?やっぱり味方だよ。なんて展開にはならないのですか?
筒井順慶については、光秀はもう一度援軍を要請します。
詳しく教えてください。
では、今回も史料を順に見ていきましょう。
よろしくお願いします。
あれ?もう摂津に行ってきたのですか?でも下鳥羽の陣に戻ってきています。
この史料からはわかりませんが、もしかしたら摂津で陣を構えた後に光秀だけが下鳥羽の本陣に戻り次の指示を出したのかもしれませんね。
光秀はどうして淀城の工事を始めたのですか?
理由はわかりません。しかし、淀城は桂川という川の近くに作られています。そして桂川は摂津を通り大阪湾まで流れ込んでいます。何か軍事的な理由があったのではないかと思われます。
川を使っての補給とか増援の為のとかたしかに色々考えられそうですね。羽柴秀吉はどうしていたのですか?
夜中に兵庫で直ちにと言うことは、明日のお昼前には摂津に着きそうですね。・・・援軍!援軍はどうなったのですか?
正式に敵になってしまったのですね。藤田伝五はどうして呼び戻されてしまったのですか?
光秀に羽柴秀吉方についたのを知られないため、まだ身の振り方を迷っていたためなどいろいろ考えられますが、史料からはわかりません。
藤田伝五がこの後どうなったのか気になりますね・・・。徳川家康はどうしていたのですか?
14日だともう羽柴秀吉との衝突には間に合わなそうですね・・・。このあとはどうなるのですか?
続きは次回です。
気になります!