第115話 甲斐信濃の国分と訓令
武田家が滅亡してしまった後、光秀は何をしていたのですか?
その頃の光秀は、諏訪で織田信長と共に行動していました。
諏訪でどんなことをしていたのですか?
主に戦後処理と言われる、国分や国掟の発行をしていました。
詳しく教えてください。
では、今回も史料を順に見ていきましょう。
よろしくお願いします。
3月18日に織田信長は高遠城に陣を移し、翌日19日に上諏訪の法花寺に移り陣構えの指示をしました。光秀も同行していました。
高遠城ってどの辺りですか?
高遠城は長野県伊那市高遠町の辺りにありました。今でも城跡が残っています。
法花寺はどのくらい離れているのですか?
法花寺は法華寺のことで長野県諏訪市にある臨済宗妙心寺派の寺院です。高遠城からは30Kmくらいです。
陣構えの指示ということは、陣を組み直すということですよね?もう一戦あるのですか?
いいえ、敵の大将である武田勝頼は討死してしまったので決着はもうついています。
では、なんのための陣なのですか?
この後にそれぞれの国衆が、織田信長への挨拶や献上のために参上するので、迎える為の陣だと思われます。
誰が来たのですか?
3月20日の木曽義昌・穴山梅雪・小笠原信嶺がそれぞれ織田信長の陣へ参上し馬を献上しました。翌21日に北条氏政の使者が参上し馬や酒などを献上しました。
小笠原信嶺は2月14日の時点で織田方に帰属していた信濃国の国衆で伊那郡松尾城城主です。
今回は北条氏政も出陣しているから使者の方なのですね。戦の後だからか、献上品が全員馬なのが興味深いです。
史料からはわかりませんが、決まり事などがあったのかも知れませんね。
この後はなにが起こるのですか?
3月23日に織田信長は、滝川一益を召し寄せ上野国および信濃のうち2郡を与えました。
国分ってこのことですか?
いいえ、史料を見ると正式な国分は29日に行なわれるので、打診的なものだったのだと思われます。
打診が必要なほどの大移動だったのですか?
上野国は今の群馬県ですが、滝川一益の領地は北伊勢のあたりのようなので、今で言うと単身赴任のようなものですね。
連絡手段も手紙だけとなると、治めるのが大変そうですね・・・。打診が必要なのも頷けます。この後はどうなるのですか?
3月24日織田信長は菅屋長頼に命じ兵に扶持米を支給しました。
菅屋長頼はとても若い頃から織田信長に仕えていたと考えられている織田家の側近です。
とっても重要な人でした。それにしても兵糧の確保も大変そうですね。
3月26日に北条氏政が馬の飼料として米千俵を諏訪まで運び届け献上しました。
とても良いタイミングですね。
そろそろご挨拶等も落ち着いてきた頃合いでしょうか?
そうですね。3月28日に織田信長は諏訪から駿河・遠江・三河を経廻って帰京するので兵は帰国し諸将だけが共をするようにと指示を出しました。
やっと戦も終わりですね。
どのようになったのですか?
まず、甲斐国は河尻秀隆へあたえました。ただし、穴山梅雪が元から支配していた所領は除外しました。
そうですね。史料からはわかりませんが、織田信長のこの決定は不満だったと思います。
徳川家康はどうだったのですか?
徳川家康は駿河国を進呈されたことにより、同盟者から家臣となりました。
・・・これは余計に何も言えないですね。
上野国と信濃の国12郡のうち小県・佐久の2郡を滝川一益に与えました。
打診の通りですね。
高井・水内・更科・埴科の4郡は森長可に与えました。
あれ?森って・・・。
森可成の次男です。今回は先陣を務めたそうです。
大活躍ですね。
元々所領である木曾谷2郡と安曇・筑摩の2郡は木曾義昌に与えました。
挨拶に来た木曾義昌ですね。
伊那1郡は毛利長秀に与えました。
毛利ってあの毛利氏と関係が?
いいえ、違います。織田家の古くからの家臣でこの時は織田信忠の配下だったようです。
あと1郡は誰ですか?
諏訪1郡は河尻秀隆に与えました。
河尻秀隆!久しぶりの登場です。これで旧武田領は全部ですか?
今回はその他にこの度尽力をした団忠直と森長定に、岐阜の一部を与えました。
とっても大活躍だったのですね。
岩村を団忠直に与え、金山・米田島を森長定に与えました。
武田攻めを詳しく振り返るのが楽しみです。
また、甲斐信濃の両国に11条の訓令を発布しました。
訓令というと掟ですよね?どんな掟だったのですか?
農民に正規の年貢以外の不当な税を課してはならない。などの知行するにあたっての決まり事でした。
とても大事なことですね。
そしてこの後4月2日から織田信長と光秀を含む諸将は関東見物をしながら帰京します。
やっと光秀が出てきました。それにしてもどうして織田信長は関東見物をしようと思ったのですか?
史料には理由は残っていません。しかし、ただの観光ではなく、地形や風土などの情報を得るための軍事視察だったのではないかと思います。
軍事視察というと戦の可能性があると思っていたのでしょうか?
史料からは詳しくはわかりません。しかし、もちろん可能性は0ではないと思います。
どんな風に見物していったのですか?
詳しくは次回です。
気になります!