第114話 武田家滅亡

武田家が滅亡してしまうとのことでしたが、この戦で織田方に負けて滅亡してしまうのですか?

そうです。後に徳川家康が武田家臣の穴山梅雪に家督を継がせ、徳川家康の五男に武田を名乗らせ、家督を継がせたが、そののち断絶したそうです。

武田家滅亡までの経緯を教えてください。

では、今回も史料を順に見ていきましょう。

よろしくお願いします。

さっきも出てきましたが、穴山梅雪って誰ですか?

穴山梅雪は武田家の家臣で、後世には武田二十四将の一人として名を連ねています。

武田二十四将ってなんですか?

武田二十四将とは、武田信玄に仕えた武将のうち、後世に講談や軍記などで一般的な評価が特に高い24人をさして呼ばれるようになった武田家家臣団の呼び名です。

そんな重臣が徳川家康に寝返りを決意するということは、本当秒読み状態ですね・・・。光秀はいつ頃出陣するのですか?

3日の朝に筒井順慶の軍、そして光秀軍の一部。5日に光秀。9日に織田信長の順番ですね。


出発の前日ですね。さすが吉田兼見、情報が確実ですね。

別の史料では4日に明智勢が大事の陣というので信濃へ分かれて次々と出発しました。とあります。

予定が繰り上がったのですか?

いいえ、この明智勢は3日出陣の「一手の衆」のことだと思われます。史料には兵はしょんぼりとした様子だったと聞いた。とあります。

なんでしょんぼりしていたのですか?

史料からは詳しいことはわかりません。翌日の5日にはまた別の史料に光秀軍の様子が残っています。

どんな史料ですか?


成方院浄勝って誰ですか?

史料が少なく詳しくはわかりませんが、安土の僧侶だったのではないかと思われます。

吉田兼見とどんな話をしたのでしょう?

その時に吉田兼見は、成方院浄勝よりこの朝に織田信長は佐和山城を信濃へ向けて出陣したこと、出陣する軍勢は安土に至るまで続くほど多いこと、特に光秀の軍勢は人数多く奇麗であったことを知らされました。

あれ?しょんぼりしていません。

史料からはわかりませんが、もしかしたら、丹波の光秀軍と坂本の光秀軍が合流し士気が高まったのかも知れませんね。

織田信長の出陣が早まっていますね。

史料からは理由はわかりませんが、この後の史料で武田勝頼の様子が残っています。

教えてください。

どんな内容ですか?

「越前のことは油断なく進めるべきこと。」

柴田勝家は越前にいたのですね。

「我々は五日に安土を出陣し本日犬山に着陣したこと。」

犬山ってどのあたりですか?

犬山は今の愛知県犬山市のあたりです。

3日で愛知県まで行けてしまうのですね・・・。他にはどんなことが書いてありますか?

「武田勝頼は先月二十八日に居城から逃走したこと。」

どこに逃げていたのですか?

諏訪の上原城から新府城に撤退していたそうです。

上原城と新府城はどのあたりですか?

上原城は長野県茅野市に、新府城は山梨県韮崎市中田町にあり、今も史跡が残っています。

45Kmくらい離れていますね。他にはどんなことが書いてありますか?

「先手は早くも甲斐へ討ち入ったこと。」

もう討ち入っていたのですか。織田信長が来るまで待つのかと思っていました。

「我々の出陣は益がないがもともと関東見物したかったので良い機会であること。」などを伝えました。

益がないって、戦力外だったのですか?関東見物って!?

家督を譲った嫡男の織田信忠を中心に作戦を組んでいたようですね。関東見物ついては次回お話ししましょう。

この戦の結果はどうなっていくのですか?

3月11日に駒飼の山中で武田勝頼と嫡男の武田信勝は討死しました。二人の首は13日に織田信長に届けられ飯田にて晒されました。

なんだか戦の中心部には縁がありませんでしたね・・・。

機会があったら振り返ってみましょう。

光秀はこのあとどうするのですか?

織田信長と共に諏訪で戦の後処理をしました。

後処理ですか?

関東見物も含め詳しくは次回です。

気になります!
