第113話 甲陽軍艦という史料
光秀が謀反を打ち明けた史料が残っているって本当ですか!?
本当です。光秀は天正10年の2月に「この二月に謀反する」という申し入れをしたようです。
どんな史料なのですか?
「甲陽軍鑑」という史料で、武田家の戦略・戦術を記した軍学書です。
ということは・・・打ち明けたのは敵の武田家ですか!?
そうです。
でも、世の中には広く知られていないですよね?どうしてですか?
この「甲陽軍鑑」という史料は、明治時代以降に基礎的事実や年紀の誤りから歴史研究の史料としての価値が否定され、武田家の足軽大将であった小幡昌盛の子の小幡景憲が武田家臣である高坂弾正昌信の名を借りて偽作したものであると見なされるようになりました。
正しい史料ではないということですか?
しかし、指摘されていた誤りも後の研究で克服されたため、実証的研究の立場から再評価されました。現在は武家故実や戦国人の習俗などの記述については史実を伝えていると判断されているようです。
間違った史料とされていたけど、間違っていなかったと改めて評価されたということですね。
もちろん史料批判は必要とされていますが、「甲陽軍鑑の史料的価値が低い」という証拠には成り得なくなっているそうです。
史料批判ってなんですか?
史料批判とは、歴史学を研究する上で史料を用いる際、様々な面からその正当性、妥当性を検討することです。
大事なことですね。甲陽軍艦に登場する光秀について詳しく教えてください。
では今回も史料を順に見ていきましょう。
よろしくお願いします。
天正10年2月に武田勝頼は、光秀から「この二月に謀反する」と申し入れがあったが、はかりごとと考えて味方しませんでした。
日付はわからないのですか?
日付は不明のようです。
武田家は敵ですよね?どうして光秀は敵の武田家に謀反の意思を伝えたのですか?
理由は史料には残っていません。
そんな・・・今まで謀反した人にいい結末が無かったのでそれなりの理由がないと納得がいかないですね。
そうですね。荒木村重が謀反した時の対応でもわかるように、失敗すれば一族の滅亡です。ですから相応の理由と成功のための戦略を持っていたのだと思います。
武田家に謀反の意志を伝えたのも戦略のうちということですか?
この史料には「光秀の謀反の申史入れは謀りごとであると判断され武田勝家は応じなかった」ということが書かれています。
武田家を攻めるための嘘だと思われたのですね。光秀は武田家を味方につけてどうやって謀反をしようとしたのでしょう?
史料からはわかりませんが、味方につける事が成功の条件だったのかも知れません。
武田家は味方にならなそうですし、もう武田家との戦も始まっていますよね?光秀は謀反をするのですか?
この後、武田家は滅亡してしまい、光秀の謀反成功の可能性はなくなりました。
え!?そしたらどうなるのですか?詳しく教えてください。
続きは次回です。
気になります!