第96話 石山本願寺との和睦まで

石山本願寺との和睦と聞いてもいつのまに?って思ってしまいますが・・・。

光秀は行政を担当していたので、光秀だけを見ていると驚くのも無理はないです。

光秀が行政をしていた天正8年1月~4月までの間にどんな動きがあったのですか?

三木城の攻略・北条氏との同盟・花隈城との合戦、そして石山本願寺との和睦などがありました。

詳しく教えてください。

では、今回も史料を順に見ていきましょう。

よろしくお願いします。

天正8年1月15日に羽柴秀吉は三木城に籠城する、別所長治・別所吉親・別所友之に降参し、切腹するように書状を送りました。

羽柴秀吉がずっと包囲していた三木城ですね。

それを受け入れて、1月17日に別所長治・別所吉親・別所友之とその妻子は切腹・自害しました。

妻子もですか・・・。

その後、城内の者は助け出され、別所長治・別所吉親・別所友之の首は安土へ送られました。

これで三木城は攻略されたのですね。

2月21日より織田信長は上洛し妙覚寺に泊まっていました。

織田信長は京都でなにをしていたのですか?

2月24日には鷹狩り、2月26日には宿所とするために本能寺を普請するよう指示を出します。

本能寺やっと出てきましたね。

2月27日には山崎で花隈城に対する砦造りを織田信澄・塩河長満・丹羽長秀に命じました。

花隈城は荒木村重が逃げ込んだ城ですね。

2月28日に根来寺の岩室坊から挨拶をうけ、2月29日30日・3月1日は鷹狩りをしました。

鷹狩りが目立ちますね。

織田信長が鷹狩りを好むのは有名な話ですね。

偉い人の休日って雰囲気です。

その頃、宮中から石山本能寺へ織田信長と和睦するように勧告の勅使が派遣されました。

勅使って誰が行ったのですか?

勅使を務めたのは近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保の3人で、補佐として織田方から松井有閑・佐久間信盛を同行させました。

とうとう宮中からの勅使となると石山本願寺も決断が難しそうですね。

3月3日に織田信長は伊丹城を検分しました。


3月7日に山崎へ戻る途中で鷹狩り、3月8日に帰京し妙覚寺に入りました。

なんだか織田信長も忙しいですね。

3月9日に本能寺にて滝川一益の取り次ぎで、北条氏政から鷹13羽の献上を受けました。

今まで北条氏政は出てきたことがありませんでしたが、聞いたことがあります。

今の神奈川県の川崎市・横浜市を除いた地域にあたる相模国の武将です。

鷹を贈られるということは織田信長の鷹狩り好きは有名だったのですね。北条氏政とは交流はあったのですか?

実は、天正7年の10月25日に徳川家康と共同作戦を決行するなど、すでに織田信長の味方をしていました。


3月10日に北条氏政の使者の挨拶を受け、織田家と北条家は縁を結び関東八州は北条家の領国であることが承認されました。

正式に同盟を結べたのですね。関東八州ってどこのことですか?

相模・武蔵・安房・上総・下総・上野・下野・常陸を指すようです。

聞いたことある国名もちらほら・・・今の何県ですか?

神奈川・東京・埼玉・千葉・群馬・栃木・茨城ですね。

そのまま関東地方なのですね。

3月15日から19日までの5日間に織田信長は長命寺善林坊で鷹狩りをし、19日に安土へ帰城しました。

長命寺ってどの辺りですか?

長命寺は滋賀県近江八幡市の辺りです。

贈られた鷹で鷹狩りをしたのかも、と思うとちょっと親近感が湧きます。

閏3月2日に花隈城から敵が出撃し、池田恒興の詰めていた砦を攻撃してきました。

え!?

すぐに足軽部隊が応戦し、池田恒興と、その子の池田元助・池田照政兄弟で屈強な敵5、6人を槍で討ち取りました。

結果はどうなったのですか?

結局この時は勝敗がつかず両軍兵をひいたそうです。

そうですか・・・。

先日勅使を受けた石山本願寺は評議の結果、和睦を受け入れ7月20日までに大坂から撤退することに決め勅使に承諾の返事をし、誓紙の作成のため検使の派遣を願い出ました。

誓紙の作成に立ち会う人ということですね。

閏3月6日に検使に任命された青山忠元が天王寺へ着き、翌日の閏3月7日に誓紙の作成に立ち会い、署名を見届けました。

とてもとても長い戦いでしたが、これで和睦成立ですね。

4月9日に石山本願寺門跡は大坂を退去し、新門跡と門徒が残りました。その新門跡と門徒も8月2日に大坂を退去する事になります。

ちょっと感慨深いですね。

その頃、羽柴秀吉は播磨・但馬を平定、柴田勝家は加賀・能登を平定しました。

ここにきて織田軍はとても順調ですね。4月以降の光秀の行政はどうなっていくのですか?

続きは次回です。

楽しみです。
