第129話 本能寺の変~徳川家康の行動~

本能寺の変の当日、徳川家康は堺に居たのですよね?

そうです。しかし、光秀や織田信長と比べて史料が少なくまだわかっていないこともあります。

わかっていないことですか?

徳川家康が光秀にとって同盟者だったのか、敵だったのか、傍観者だったのか、というところですね。

徳川家康は京都で織田信長と合流する予定な雰囲気でしたから、光秀の敵ですよね?

史料を見ていくと不思議に思うところが出てくるかも知れませんね。

詳しく教えてください。

では、今回も史料を見ていきましょう。

よろしくお願いします。

天正10年6月2日の13種の史料の中で徳川家康に関する資料は3種あります。

やはり、光秀の史料と比べると少ないですね。

1つ目は「石山本願寺日記」です。

「石山本願寺日記」はどんな史料ですか?

石山本願寺関係の文書・記録を集めたものです。

どんな記録が残っていたのですか?

「計略を言って」というのはどういうことですか?

この場合は、徳川家康は織田信長の自害を知って「5月29日に織田信長が上洛したと聞いたので急いで上洛する」と嘘を言って上洛に向けて出発した。ということだと思われます。

なんだか織田信長の味方とも思えないような・・・。上洛しなさそうな書かれ方ですね。

2つ目は「茶屋由緒記」です。

「茶屋由緒記」はどんな史料ですか?

信濃守護小笠原長時の家臣であった中島家の記録です。

武将なのにお茶屋さんなのですか?

信濃守護小笠原長時の家臣であった中島宗延の子の中島明延が武士を廃業し京都で呉服商を営み「茶屋」という屋号をつけたそうです。

屋号って店名のようなものですよね?呉服商で茶屋って・・・また不思議な屋号ですね。

当時の将軍だった足利義輝がしばしば中島明延の屋敷に茶を飲みに立ち寄ったことに由来して「茶屋」となったそうです。

・・・「お茶屋さん」があながち間違いではありませんでした。

中島明延の子で「茶屋四郎次郎家初代」の中島清延は、若い頃は徳川家康に仕えていたそうで、徳川家の呉服御用を一手に引き受けるようになったそうです。戦にも参加していたようですよ。

元武将の末裔の武将で、徳川家康側の人で、呉服屋さんの跡継ぎだったのですね。盛りだくさんです。

伝令係ということですね。

あれ?戻ってきてしまったのですか?

織田信長の自害を知らされ二人は戻って飯盛山近辺で徳川家康と出会って報告し、伊賀を越えて三河へ戻りました。

なるほど、京都で本能寺の変を知って徳川家康に知らせに戻ったのですね。

ところが、ここに不自然なところがあります。

不自然なところですか?

堺から京都へ行く道は何通りもあるので、どうしてうまく行き会うことができたのでしょうか。

そうですよね、今のように電話やメールはないですから・・・約束していたのでしょうか?

約束ですか?

あ!ということは徳川家康も茶屋四郎次郎も本能寺の変が起きることを知って話し合っていたということですか?

可能性が大いに考えられます。

・・・この史料を見ると、傍観者というのも変な気がしてきました。

3つ目は「呉服師由緒記」です。

「呉服師由緒記」はどんな史料ですか?

「呉服師由緒記」は呉服師の由緒をまとめた書物のようです。呉服師とは、江戸時代将軍家の側近として呉服物を独占的に納入した特権商人のことです。

史料の内容が気になります。

茶屋四郎次郎とは別働隊だったのですね。

亀屋栄任は「伊賀越えで三河に帰国」といつ知ったのですか?

史料からはわかりません。

それに徳川家康の手勢が京都に居たのですか?安土に接待をうけに来て、織田信長に命じられて堺見物中でしたよね?

史料から確かな事はわかりませんが、何かの理由で密かに手勢を用意していたのでしょうね。

何かの理由って何ですか?

史料がないので想像になりますが、本能寺の変後・もしくは同時に、参戦か防衛するためかも知れません。

もし本能寺の変が起きなくて、京都に手勢を用意していたのが発覚したら・・・。

謀反の疑いで粛正される可能性が大いにあります。

・・・徳川家康がわからなくなってきました。どうしてそんな危険なことをしたのでしょう?

この他にもっと史料が出てくれば、どの程度まで知った上で行動していたのか、どういうつもりで行動していたのか、がわかると思われます。

とっても気になりますね。光秀はこの後どうしたのですか?

続きは次回です。

気になります!
