第130話 本能寺の変~当日 光秀のその後~

ガラシャ

光秀は織田信長を討ち取って、織田信忠を討ち取った後どうしたのですか?

憲三郎先生

あまり一般的には知られていませんが、実はいくつも史料が残っています。

ガラシャ

詳しく教えてください。

憲三郎先生

では、今回も史料を見ていきましょう。

ガラシャ

よろしくお願いします。

憲三郎先生

天正10年6月2日に光秀が織田信忠を討取ったあとの行動がわかる史料は4種あります。

ガラシャ

教えてください!

憲三郎先生

1つ目は「信長公記」です。

ガラシャ

織田信長の史料としてはもうお馴染みになってきましたね。

ガラシャ

山岡景隆・山岡景佐ってたしか前に光秀の家臣として出てきましたよね?協力しかねるというお返事は残念ですが、御恩と言われると仕方ない気もしますね。その後はどうなるのですか?

ガラシャ

どうして勢田の橋を焼き落としたのですか?

憲三郎先生

史料からは確かな理由はわかりません。ですが、勢田の橋を落とすメリットは、3つ考えられます。

ガラシャ

教えてください。

憲三郎先生

光秀から見たときに、安土などの織田軍が京都へ進軍してくることを防ぐこと。そして、京都から織田家の残党が逃げてきて、安土城へ逃げ込むのを防ぐため。山岡兄弟から見たときには、光秀が安土に入るのを防ぐことです。

ガラシャ

あれ?そういえば、勢田の橋を落としたのはどちらですか?

憲三郎先生

長年山岡兄弟と考えられてきましたが、史料を見てみると「誰が」とは記載がありません。

ガラシャ

どちらともとれるということですね。

憲三郎先生

そして、太田牛一が晩年まで手を加えていた信長公記池田家本には記載の差異がありそうです。史料解析が進めば何かわかるかも知れません。

ガラシャ

それは気になりますね。史料解析が進むのを楽しみにしています。

憲三郎先生

2つ目は「兼見卿記」です。

ガラシャ

吉田兼見はさすがの情報通ですね。

ガラシャ

え!光秀と会っていたのですか?

憲三郎先生

この記録は後に吉田兼見が書き直した正本では、127話でお話しした紹巴が輿を持ってきた話と今回の吉田兼見が光秀に対面した話が削除されています。

ガラシャ

それは・・・。確かに後に光秀の処遇を考えると削除したい気持ちもわかります。

憲三郎先生

3つ目は「武家事紀」です。

ガラシャ

武家事紀ってどんな史料ですか?

憲三郎先生

武家事記は江戸時代前期に日本の儒学者・軍学者である山鹿素行によって書かれた歴史書・武家故実書です。

ガラシャ

江戸時代の学者さん!どんなことが書かれているのですか?

ガラシャ

西尾光教ってどんな人ですか?

憲三郎先生

西尾光教は美濃野口城主で織田信長の家臣です。

ガラシャ

西尾光教は味方になってくれたのですか?

憲三郎先生

史料からはわかりません。ただ、もし味方になっていたらその後に粛正されていてもおかしくありませんが、そのような史料もありません。

ガラシャ

気になりますね・・・もっと史料が出てくることを祈ります。

憲三郎先生

4つ目は「元親記」です。

ガラシャ

元親記ということは、長宗我部元親の記録ですね。

ガラシャ

上ノ坊って誰ですか?

憲三郎先生

情報が少なく確かな事はわかりませんが、史料を見る限りでは長宗我部側の人物だと思われます。それよりも伝えた内容が気になりませんか?

ガラシャ

本能寺の変の成功を堺より・・・。あれ・・・成功?堺?

憲三郎先生

そうです。成功を知らせたということは、長宗我部元親は光秀側についていたということがわかります。

憲三郎先生

堺からということは、堺に光秀側の人が誰か居たということがわかります。

ガラシャ

堺に居た人は徳川家康しか思いつかないのですが・・・。

憲三郎先生

その可能性も捨てきれませんが、もう一人堺に居た人物がいます。

ガラシャ

誰ですか?

憲三郎先生

後の史料からわかりますが、堺には石谷頼辰がいました。

憲三郎先生

「石谷家文書」です。

ガラシャ

・・・もうこの後がどうなっていくのかが気になって仕方がありません。

憲三郎先生

続きは次回、本能寺の変の翌日の様子を見ていきましょう。

ガラシャ

ちょっと怖いですが、楽しみです!

”光秀はとても計画的に行動していて、協力者も居ました。”