第120話 徳川家康を招いた食事会?~安土響応~
前回は徳川家康接待や細川藤孝の安土下向など気になる事がたくさんありましたが、今回はどんなお話しですか?
今回は織田信長が徳川家康を安土に招いて饗応をしたお話しです。
詳しく教えてください。
では今回も史料を順に見ていきましょう。
よろしくお願いします。
天正10年5月14日に細川藤孝は、早朝安土へ下向しました。また、安土へ登城する徳川家康の接待のため光秀は在庄を命じられました。
安土には細川藤孝だけで無く、光秀も居たのですね。在庄ってどういうことですか?
在庄は「自分の所領している荘園にいること」という意味ですが、翌日には徳川家康が来るのでおそらく「安土へ居るように」という意味で使われたのだと思われます。
これはなんという史料に書かれていたのですか?
この内容は兼見卿記に書かれていました。兼見卿記には正本と別本があり、正本には徳川家康が安土逗留の間の用意・馳走で光秀は大変だったと追記されています。
前にお話しにあった口論はこの接待の話だったのですね。ということは、前もって知らされていたということは確かみたいですね。
接待はどんな様子だったのでしょう?
史料には「京都・堺にて珍物を調えおびただしき結構」とあります。
おびただしきってあまり良い意味で使わない言い回しですが、これはどういう意味ですか?
おびただしいには「とても数が多い」という意味があり、良い意味にも悪い意味にも使います。この史料には「結構」とあるので「珍しいものを数多く調えとても結構だった」ということだと思われます。
ということは褒められたのですね!良かったです。
出席していた筒井順慶が大和に帰ったので多聞院の英俊は接待の様子を知ったということですか?
そのようですね。
ここでも評判は上々のようで良かったです。
飛脚って、今でいう郵便屋さんですよね?どんなお知らせを届けたのですか?
史料からはこれ以上はわかりません。
気になりますね。徳川家康は接待のあとも安土にいたのですか?
お茶に能なんてとっても優雅です。
徳川家康はなかなか帰れませんね。
四国に進展ありですね!これで光秀は少し安心でしょうか?
しかし、この史料は斎藤利三には届かなかったとみられています。
え!?どうしてですか?
この史料は石谷家文書に残っていました。
長宗我部家ではなく石谷家ですか?
そうです。なので「長宗我部元親から石谷家の石谷頼辰に託された文書が斎藤利三に届くことなく石谷家で止まっていたのではないか。」とみられています。
どうして石谷頼辰は手紙を止めてしまったのでしょうか?
その理由は史料からはわかりません。
なぜ渡せなかったのか・・・とても気になりますね。ところで、徳川家康はいつ頃まで安土に滞在するのですか?
徳川家康の帰宅はまだまだ先のようですね。この後はどうなるのですか?
光秀は出陣前に愛宕山威徳院にて戦勝祈願の連歌会を行ないます。
戦勝祈願?中国攻めの為でしょうか?
続きは次回です。
気になります!