第127話 本能寺の変~当日の織田信忠と誠仁親王~
光秀は本能寺で織田信長を討取りましたが、その後は何をしたのですか?
織田信長を討取った光秀は織田信長の嫡男である織田信忠を攻めます。
織田信忠は確か、堺に同行していた徳川家康と別れて京都に来ていましたよね。
この日の織田信忠に関する資料も多く残っています。
詳しく教えてください。
では、今回も史料を見ていきましょう。
よろしくお願いします。
6月2日の13種の史料の中で織田信忠に関する資料は6種あります。
たくさんありますね。
1つ目は「信長公記」です。
織田信長の記録ですね。
村井貞勝は織田信忠と一緒に居たのですね。
本意ではないが戦場になってしまうので誠仁親王・若宮は禁中へ御成りになるべき。と内裏へ避難していただきました。逃げるように注進する家臣もいたが、織田信忠は「これほどの謀反ではかなうまい」と雑兵の手にはかかのる前に、と切腹しました。
「構えがいい」というのはどういうことですか?
防御力が高いということです。
確かに御所のほうが強そうなイメージですね。「これほどの謀反」というのが印象的な言い方ですが・・・何となく今までの戦と比べて、かえって規模は小さい気がするのですが・・・。
史料からは詳しくはわかりませんが、規模というよりも用意周到さという点で「光秀が謀反したというのであればかなわない」と思ったのかもしれませんね。
日頃の光秀に対する印象ということですね。
2つ目は「日々記」です。
勧修寺晴豊の書いた史料でしたね。
そもそもどうして二条新御所に誠仁親王が居たのですか?
御所とは主に天皇など特に位の高い貴人の邸宅を指す言葉で、二条新御所は誠仁親王の屋敷でした。
今更ですが、親王ってどういう人のことですか?
天皇の子供・孫のうち、男子は親王・女子は内親王といいます。
光秀は織田信忠のことは討取ったけれど、一緒にいた誠仁親王は討たなかったのですね。
3つ目は「言経卿記」です。
細かい記録をつけてくれる山科言経ですね。
午前8時ということは意外と早くに移動されたのですね。内裏ってどこかで聞いたことがあるような・・・。
ということは、天皇の子誠仁親王は二条新御所から天皇の御所に移動したのですね。
4つ目は「兼見卿記」です。
本能寺には集まっていなかった吉田兼見の記録ですね。
連歌師の紹巴がこんなところに登場するなんて・・・。いろいろな史料を見るたびに少しずつ情報が増えますね。
5つ目は「蓮成院記録」です。
注進を受けたのは「信長公記」と同じですね。
織田信忠は、籠もった二条新御所内より誠仁親王を御所の外へ脱出させました。
そして、織田信忠軍は御所内より切って出て、三度も寄手を退散させるが、多勢に無勢で織田信忠らは討死しました。
ただ攻められて討取られたわけではなく、攻防戦が起こっていたのですね。
6つ目は「イエズス会の年報」です。
情報取集力の高いイエズス会ですね。
光秀の許可を得て?また新しい証言です。どうやってこんな詳しい情報を手にいれたのですか?
それは、この日の他の人々に関する記録を見てみるとヒントがありそうです。
詳しく教えてください。
続きは次回です。
気になります!