第127話 本能寺の変~当日の織田信忠と誠仁親王~

ガラシャ

光秀は本能寺で織田信長を討取りましたが、その後は何をしたのですか?

憲三郎先生

織田信長を討取った光秀は織田信長の嫡男である織田信忠を攻めます。

ガラシャ

織田信忠は確か、堺に同行していた徳川家康と別れて京都に来ていましたよね。

憲三郎先生

この日の織田信忠に関する資料も多く残っています。

ガラシャ

詳しく教えてください。

憲三郎先生

では、今回も史料を見ていきましょう。

ガラシャ

よろしくお願いします。

憲三郎先生

6月2日の13種の史料の中で織田信忠に関する資料は6種あります。

ガラシャ

たくさんありますね。

憲三郎先生

1つ目は「信長公記」です。

ガラシャ

織田信長の記録ですね。

ガラシャ

村井貞勝は織田信忠と一緒に居たのですね。

憲三郎先生

本意ではないが戦場になってしまうので誠仁親王・若宮は禁中へ御成りになるべき。と内裏へ避難していただきました。逃げるように注進する家臣もいたが、織田信忠は「これほどの謀反ではかなうまい」と雑兵の手にはかかのる前に、と切腹しました。

ガラシャ

「構えがいい」というのはどういうことですか?

憲三郎先生

防御力が高いということです。

ガラシャ

確かに御所のほうが強そうなイメージですね。「これほどの謀反」というのが印象的な言い方ですが・・・何となく今までの戦と比べて、かえって規模は小さい気がするのですが・・・。

憲三郎先生

史料からは詳しくはわかりませんが、規模というよりも用意周到さという点で「光秀が謀反したというのであればかなわない」と思ったのかもしれませんね。

ガラシャ

日頃の光秀に対する印象ということですね。

憲三郎先生

2つ目は「日々記」です。

ガラシャ

勧修寺晴豊の書いた史料でしたね。

ガラシャ

そもそもどうして二条新御所に誠仁親王が居たのですか?

憲三郎先生

御所とは主に天皇など特に位の高い貴人の邸宅を指す言葉で、二条新御所は誠仁親王の屋敷でした。

ガラシャ

今更ですが、親王ってどういう人のことですか?

憲三郎先生

天皇の子供・孫のうち、男子は親王・女子は内親王といいます。

ガラシャ

光秀は織田信忠のことは討取ったけれど、一緒にいた誠仁親王は討たなかったのですね。

憲三郎先生

3つ目は「言経卿記」です。

ガラシャ

細かい記録をつけてくれる山科言経ですね。

ガラシャ

午前8時ということは意外と早くに移動されたのですね。内裏ってどこかで聞いたことがあるような・・・。

ガラシャ

ということは、天皇の子誠仁親王は二条新御所から天皇の御所に移動したのですね。

憲三郎先生

4つ目は「兼見卿記」です。

ガラシャ

本能寺には集まっていなかった吉田兼見の記録ですね。

ガラシャ

連歌師の紹巴がこんなところに登場するなんて・・・。いろいろな史料を見るたびに少しずつ情報が増えますね。

憲三郎先生

5つ目は「蓮成院記録」です。

ガラシャ

注進を受けたのは「信長公記」と同じですね。

憲三郎先生

織田信忠は、籠もった二条新御所内より誠仁親王を御所の外へ脱出させました。
そして、織田信忠軍は御所内より切って出て、三度も寄手を退散させるが、多勢に無勢で織田信忠らは討死しました。

ガラシャ

ただ攻められて討取られたわけではなく、攻防戦が起こっていたのですね。

憲三郎先生

6つ目は「イエズス会の年報」です。

ガラシャ

情報取集力の高いイエズス会ですね。

ガラシャ

光秀の許可を得て?また新しい証言です。どうやってこんな詳しい情報を手にいれたのですか?

憲三郎先生

それは、この日の他の人々に関する記録を見てみるとヒントがありそうです。

ガラシャ

詳しく教えてください。

憲三郎先生

続きは次回です。

ガラシャ

気になります!

”織田信忠は妙覚寺から二条新御所に移り、
誠仁親王が避難したのちに激戦の末に切腹しました。”