第26話 織田信長伊勢平定と5ヶ条の条書
そういえば永禄12年4月18日以降織田方の武将との連書状が見られなくなったと言っていましたが、本圀寺の戦いのあと織田信長は何をしていたんですか?
織田信長はまず足利義昭の為の将軍御所を作りました。
本圀寺の戦いがあったのでこのままでは良くないとなったのでしょうか。
そうです。本圀寺では防御が弱いので本格的な城が必要と考えたのです。史料にはたくさんの大名や武将達を上洛させ工事を命じたことと、永禄12年の2月27日には着工の儀式を行ったことが書かれているので時系列を見ても本圀寺の戦いからすぐに準備を始めたのは確かでしょうね。工事担当の奉行には村井貞勝・島田秀満を任命し、まもなく出来上がったそうです。
この奉行って幕府の奉行衆のことですか?
いいえ、村井貞勝も島田秀満も織田家の家臣なので工事の責任者という意味だと思われます。そして内裏も朽廃甚だしいと言うことで修理することになります。担当奉行は朝山日乗と村井貞勝を任命しました。
朝山日乗!村井貞勝は大活躍ですね。
村井貞勝は後に京都の行政を任されるようになるキーパーソンです。長く織田信長に仕えている人ですが執務面でとても重用されているのがうかがえますね。
内裏ってなんとなく聞いたことがありますが何でしたっけ?
天皇の御所のことです。御所(ごしょ)、禁裏(きんり)、禁中(きんちゅう)大内(おおうち)などの呼び方もあります。
織田信長は武将の御所も天皇の御所も作ったり直したりしたんですね!
おそらく一大公共事業だったでしょうね。
その後織田信長はどうしたんですか?
伊勢国を平定しに行きます。
え?伊勢国って伊勢神宮の伊勢ですか?
そうです。今の三重県の北中部、愛知県弥富市の一部、愛知県愛西市の一部、岐阜県海津市の一部が伊勢国でした。
平定する:敵や賊を討ち平らげること。・・・っていつのまに伊勢国は敵になったんですか?
史料には確かなことは書かれていません。本圀寺の戦いで攻めてきた斎藤龍興、長井道利らが亡命していたのが伊勢国であったことも少なからずあるのかもしれません。
そうなんですね。地図を見てみると畿内とも尾張とも美濃とも接しているんですね。
ざっと説明すると、永禄12年8月20日伊勢方面に進出、8月26日木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が先陣を務め伊勢国守護北畠氏の重要拠点である阿坂城(今の三重県松阪市大阿坂町に城跡が残っています)を攻めそのまま大河内城(北畠氏の本拠地。現在の三重県松阪市大河内町に城跡が残っています)を包囲、その夜城下町を破壊し焼き払う、9月8日に大河内城を攻める、9月9日多芸にある北畠氏の館や田畑ごと周辺を焼き払い大河内城を兵糧攻めにする、10月4日北畠氏は織田信長の次男を婿にとり家督を譲ることを条件に和睦、大河内城を受け渡し退去、伊勢国の関所を撤廃、10月5日伊勢神宮参宮、次男を大河内城城主として入城させる、10月11日上洛し伊勢平定を足利義昭に報告する。足利義昭より天下の儀を仰せつかる、10月17日岐阜に帰城という日程でした。
2ヶ月で伊勢国を平定してしまったんですね。天下の儀ってなんですか?
「天下の儀を仰せつかる」とは要するに幕府の政務の権限を委託されていたということです。そのため永禄13年1月に五ヶ条の条書を朝山日乗と光秀宛に書き足利義昭にも同意の印をもらいました。
条書ということはまた新しい決まり事ですね。どんな内容なんですか?
内容はこのように書かれていました。
- 足利義昭が御内書以て命ずる場合には織田信長に相談して織田信長が書状を添えること
- これまでに出した命令は破棄し考え直すこと
- 忠節を尽くす人物に与える恩賞や褒美が無い場合には織田信長の所領から足利義昭の命令通りに分け与えること
- 天下の儀を織田信長に任せ置いたからには誰によらず足利義昭の許可を得ずに信長の分別で処分すること
- 禁中(朝廷)のことは何事も油断なく対応すべきこと
光秀と朝山日乗宛てですか?足利義昭宛てでは無く?
そうです。理由が書かれた史料はありませんが、朝廷との仕事をしている2人に確認してもらい足利義昭に同意してもらうようにしたのかもしれません。
織田信長はなんでこんなルールを作ったんでしょう?
天下の儀を仰せつかったので具体的に動いてゆくために明文化したかったのかもしれません。
恩賞のくだりはもしかして前回話題になっていた教王護国寺の一件が関係ありますか?
朝廷からの訴訟沙汰になっているのでもちろん要因の一つではあったかもしれませんね。
でもなんだか仕事内容的に光秀はとても重要なことを任されるようになってる気がします。
そうですね。少なくともとても現代で言うアルバイトの足軽衆に任せられる仕事ではありませんね。
奉公衆になってから少なくとも10ヶ月以上たっていますが、光秀は奉公衆の中ではどのくらいの位置にいたんでしょうか?
実はこのころの光秀の邸があった場所がわかる資料があります。
邸の場所がわかると何がわかるんですか?
御所の大改装をしたときに周辺のお屋敷も作り替えているので、上京か下京の違いでも立ち位置を量る材料になります。
光秀はどこに住んでいたんですか?
永禄13年1月26日にはすでに上京に住んでいました。それがわかる史料には御所から道筋の通りに奉公衆の方々に年始の挨拶をしに行ったこと、足利義昭の側近である曾我助乗の次に訪問していたこと、美濃へ下って留守だったことが書かれています。光秀の2人後の大和治部少輔は下京に住んでいたようなので光秀は上京に住んでいたことがわかります。
曾我助乗は光秀が近江の田中氏朽木氏の加勢に行った時に活躍を報告した人でしたね。
そうです。道筋通りにと言うことなので光秀は曾我助乗の近くに住んでいたことがわかります。曾我助乗は申次衆で朝廷へ出す書簡の礼法にも明るく何かと指導を受けていたかもしれませんね。
ちなみにこの邸には度々織田信長も訪れていました。
え!?いつの間にそんなに親しく!?
永禄13年2月30日に上洛した際に山科言継と一緒に訪れたこと、そして7月4日に上洛した際にも訪れたことが史料に残っています。