第25話 連署状を見ると、光秀の出世がわかる?
前回三好勢と頑張って戦った光秀ですが、少し偉くなったりしましたか?
具体的に昇進したという記述は史料に見つかりません。しかしどうやら出世した様子がうかがえる史料が残っています。
本当ですか!?知りたいです!
それを知るにはキーワードとなる事柄が2つあります。
なんですか?
それは「殿中御掟」と「連署状」です。
でんちゅうおんおきて?れんしょじょう?
そうです。ではまず「殿中御掟」の説明から。殿中御掟とは、永禄12年1月14日に織田信長が定めた幕府の役人の勤務形態を定めていた掟です。
掟って決まり事ってことですよね?幕府の役人の決まり事を織田信長が決めて良いんですか?
本来であれば、いち武将の織田信長が幕府の役人の掟を決めるのは考えにくいです。しかし、上洛に際し信頼を置いていたこと本圀寺の戦いがあったこともあり足利義昭もこの掟を承認したものと思われます。
殿中御掟はどんな内容だったんですか?
九ヶ条からなるものですが、その中で注目したいのは「陪臣が殿中に上がることは当番衆が阻止しなければならない」「御足軽・猿楽師は将軍の命令を受けてから参内すること」というところです。
陪臣って何ですか?
直接の家臣ではなく、家臣の家臣のことを陪臣と言います。直接の家臣のことは直臣などと呼びます。
直接の家臣しか近くに行けなくなったということですね?でもそれが光秀に関係あるんですか?
ロイスフロイスの「日本史」には光秀について「信長の治世の初期には公方方の邸の一貴人兵部大輔と称する人に奉仕していた」とあります。兵部大輔とは細川藤孝のことなので光秀は足利義昭の家臣の細川藤孝の家臣すなわち陪臣であり、本圀寺の戦いで「信長公記」に記されたときは足軽だったと言うことは・・・
このとき光秀は陪臣でかつ足軽だった!ということは足利義昭の居るお屋敷の中に命令なく入れなくなってしまった?
そうです。ここでもう一つ見て欲しいのは永禄12年4月16日から18日にかけて6通発行されている「連署状」です。
2個目のキーワードですね!連署状ってなんですか?
「連署状」とは複数名の名前と花押が並んで署判されている幕府の公文書である下知状・御教書のことですが、ここでは織田信長の家臣と光秀の連署状をさします。連署はおおむね身分の高い者,上席者が宛所に近い後部に記されます。
なんだか難しい言葉がたくさん並んでいます。たくさんの偉い人が合同で書いた手紙で連署の後ろの人の方が偉いってことですか?
そうですね。見て欲しい連署状は3通は「羽柴秀吉・丹羽長秀・中川重政・明智光秀」もう3通が「丹羽長秀・羽柴秀吉・中川重政・明智光秀」になっています。
あれ?光秀はどちらも最後です。偉いんですか?その前にどうして織田家家臣の人々と連署状を?1月は幕府奉公衆の足軽でしたよね?
これらの連署状は幕府と織田軍と合同で発行したものと思われます。そして光秀は幕府の役人として最後に署名したと考えられます。
光秀が織田軍に入ったわけではないんですか?
そういう見方もあるでしょうが、まだこの頃は幕府の役人でした。それを裏付けるものもこの後紹介しようと思います。もし仮に織田軍に入ったとしてもこの短期間で4人の中で一番偉くなるのは難しいでしょうね。
幕府の役人といっても1月まで陪臣の足軽衆だった光秀がそんな重要そうな書類にサインするというのも想像できないですけど・・・。
そうですね。確かに連署状の発行は足軽衆の仕事でありません。ということは?
もしかしてこれが最初に言っていた光秀が出世したとうかがえるポイントですか?
そうです。殿中御掟によって陪臣で足軽衆の光秀は殿中に上がれないはずなのに足軽衆ではやらないはずの連書状の発行を複数行っている。ということはこの時点で足利義昭の直臣として奉公衆に取り立てられたのではないかと思われます。
奉公衆になるとアルバイトから正社員になったってことですよね?領地がもらえたんですか?
それを裏付ける文書があります。永禄13年に比定された4月10日付で教王護国寺が光秀の八幡宮領山城久世莊の横領停止を幕府に申請した文書です。永禄12年4月21日に織田信長が教王護国寺(東寺)の領地及び境内の安堵状を発行しています。安堵状とは所領や所職の確認(安堵)を行う際,証文として発給された文書のことです。
横領!?光秀悪いことをしたんですか!?
そうではありません。足利義昭が光秀に与えた所領の中に教王護国寺の所領が混じっていたのでその部分は返して欲しいということだと思われます。
あと日付がおかしい気がしますが・・・。永禄13年に申請して永禄12年に所領の確認が行われてます。
申請の文書は永禄13年に比定されていますが、比定というのは比定する同質のものがない場合、他の類似のものとくらべて、そのものがどういうものであるかを推定することを言います。要するに後世の人がきっと永禄13年のものだろうと推定した。ということです。
ということはこれは永禄13年のものではなく永禄12年のものだった可能性があるということですか?
そうですね。山科言継の書いた「言継卿記」の永禄12年6月20日に朝山日乗に東寺路次について問うたところ度々光秀に問い合わせているが返事がないと回答されたとあるのでこの流れを見ると永禄12年の可能性がとても高いと思われます。
新しい人です。山科言継と朝山日乗って誰ですか?
山科言継は朝廷の役人で足利義昭の将軍宣下の儀の手伝いもした公家の中でも位の高い人です。多くの戦国大名との交友もあったようです。朝山日乗は織田軍方の日蓮宗の僧で朝廷との対応役をしていました。そのほかにも織田信長から村井貞勝とともに皇居の修理を命じられていたり、和睦の使者となったり幅広く活躍しました。?
その光秀の領地に混じっていたと思われる久世莊や東寺は今もあるんですか?
久世莊とは山城国乙訓(おとくに)郡にあった荘園で現在の京都市南区久世付近。東寺は京都市南区東寺町にいまもあります。
その二つを結んだだけでも結構な広さです。
ちなみに、連署状は永禄12年4月18日を最後に見られなくなりますが、その後も足利義昭の下知を伝える文書を光秀単独で複数発行しています。幕府に寄せられる様々な訴訟事務の対応を織田方の朝山日乗と光秀が組んで処理をしていたようです。
足軽衆から奉公衆へ。光秀大出世ですね!