第24話 三好勢との戦い
なんだか不穏なタイトルですが・・・。三好勢はまた来るんですか?
また来ます。上洛から3ヶ月もたたない永禄12年1月4日のことです。
三好勢はもう降参して逃げてしまったのだと思っていました。
三好勢及び斎藤龍興、長井道利らが南方の浪人たちを集めて薬師寺九郎左衛門を先陣の大将として本圀寺を襲撃しました。
斎藤龍興こんなところにいたんですね。その時光秀はどこに居たんですか?
本圀寺に居ました。やっと上洛し将軍になった足利義昭を守るために戦いました。しかしその時本圀寺には御伴衆と足軽衆などしかおらず手薄だったようで大苦戦しました。
上洛してすぐ襲われると思わないですよね・・・。被害は大きかったんですか?
史料には「武家御足軽衆以下二十余人討死」足軽衆二十数人が討死したと残っています。
将軍は?光秀は無事ですか?
三好義継・細川藤孝・池田正勝・池田清貧斎・伊丹親興・荒木村重らが援軍に駆けつけなんとか危機を回避しました。
あれ?味方にも三好の人がいるんですね?
三好勢は内部抗争が激しく上洛の際に味方になった武将も何人かいました。
将軍の一大事に織田信長はどこに居たんですか?
織田信長は岐阜に居ましたが、1月6日に知らせを受け大雪の中急いで駆けつけました。史料には3日かかる道を2日で来たとあります。
とっても急いできた様子が目に浮かびますね。
知らせを受け2日後に到着した織田信長は摂津衆の池田清貧斎正秀の活躍を聞きとてもご機嫌だったこと、そしてこの戦いで活躍した人物が史料に残っています。この時他の足軽衆共に光秀の名が初めて「信長公記」に載りました。
すごいですね!・・・「信長公記」ってなんですか?
「信長公記」とは、信長の側近の家臣である太田牛一が書き残している織田信長の一代記です。
側近の家臣?前に出てきた祐筆とは違うんですか?
太田牛一はたくさんの書物を残していますが、弓の腕を認められ信長の直臣となった経緯があるれっきとした武士のようです。
意外な・・・。でも織田信長の家臣目線のということは光秀が織田家に認識された瞬間ということですね!