第126話 本能寺の変~当日の本能寺での出来事~
ついに本能寺の変の当日ですね。
当日になると情報も多くなりますが、その分デマも多くなります。
今でも災害時などには「デマに気を付けましょう」と注意喚起されますけど、それと同じですね。
本能寺で起きたことも人から人へ伝わるうちにいろいろな伝わり方をしていたようです。
詳しく教えてください。
では、今回も史料を見ていきましょう。
よろしくお願いします。
6月2日には13種の史料が残っています。その中でも光秀が本能寺へ攻め入った際の様子が書かれているものは8種あります。
多いような少ないような・・・。内容は同じなのですか?
少しずつ違いがあるので見ていきましょう。
はい!
1つ目は「信長公記」です。
織田信長の家臣の太田牛一が後に書いた織田信長の記録ですね。
こんなに詳しく残っているのですか・・・。これが有名な「是非に及ばす」ですね。
「是非に及ばす」って「しかたがない」っていう意味だと聞きましたが、仕方がないと命じるってどういうことですか?
実は、この「是非に及ばす」は「しかたがない」という意味ではないのです。
え?
「是非に及ばす」単体だと「しかたがない」という意味にもなりますが、「是非に及ばずと命ぜられた」となると「それ以上確認の必要は無い」という意味になります。
でも、この段階で織田信長から見たら「光秀らしい」だけで確証はなかったのですよね?
実はこの前後の発言についてはまだまだ真実があるのですが、それはまた後程お教えしましょう。
気になりますが、元に戻りましょう。ほかの史料について教えてください。
2つ目は「惟任退治記」です。
羽柴秀吉が後に書かせた史料ですね。
え!?織田信長がご乱心です・・・。
史料からは正否は断言できませんが、羽柴秀吉が織田信長は残忍だったと印象付けるためのデマだったのではないかと思われます。
3つ目は勧修寺晴豊の書いた「日々記」です。
確か公家の人でしたね。
前二つに比べて随分あっさりですね。
次回触れますが、勧修寺晴豊はすぐに二条御所に向かっているので史料も二条御所の記録のほうが多く残っています。
そうなのですね。
4つ目は「言経卿記」です。
公家の山科言継の息子ですね。たしか天気を記録するくらい几帳面な人でしたね。
時間の記録が出てきました!流石、山科言経です。
5つ目は「多聞院日記」です。
大和にある多聞院の院主である英俊の記録ですね。
生害ってどういう意味ですか?
人が亡くなることを指します。当時は切腹でも討取られても生害と言っていたようです。
この情報の嘘は織田信澄のことでしょうか?たしかに今まで少しも関わっていなさそうなのに名前が出てきて驚きました。
他の史料の別の日の記録にも後に「嘘だった」という記録が確認されていて、当時情報が錯綜していたことがうかがえます。
それにしても情報通の英俊のところには京都の出来事が4時間で届いてしまうなんて凄いです。
6つ目は「兼見卿記」の別本です。
なぜか二冊ある吉田兼見の記録ですね。
こちらもあっさりです。
7つ目は「蓮成院記録」です。
蓮成院記録とは興福寺・蓮成院の朝乗・印尊・寛尊・懐算ら別会五師の残した記録のこと。・・・なんだか難しいですがお寺の記録でしょうか。
どういうことですか?
中国攻めに行くのでこの位の人数を連れていきます。と見せると偽って攻め入った。ということだと思われます。
確かに中国攻めの命令は出ていたのでそういう噂が出てもおかしくなさそうですね・・・。
8つ目は「イエズス会日本年報」です。
イエズス会!
イエズス会の情報収集力が高くて驚きます・・・。
とてもたくさんの情報があった気がしますが、どれが正しいのですか?
「織田信長が美女たちをことごとく刺し殺した」「織田信澄が謀反」というのはデマだと思われますが、「西国への暇乞に人数をお目に懸けると謀略を企て」に関しては確かなことはわかりません。
本能寺を攻めた後、光秀はどうするのですか?
続きは次回です。
気になります!