第125話 本能寺の変~前日~

堺には徳川家康、京都に織田信長、光秀はどこに居たのですか?

亀山城に居ました。

たしか、前回本能寺には公家衆が集まっていたといっていましたが、何をしていたのですか?

集まっていたといっても、なにか催し物があった。というわけでは無さそうなのです。

詳しく教えてください。

では、今回も史料を順に見ていきましょう。

よろしくお願いします。

天正10年6月1日の本能寺には公家衆が大挙参集していました。公家衆は本能寺で数刻雑談しました。

あれ?そういえば織田信長が到着したのは5月29日でしたよね?2日後ですか?

いいえ、翌日です。

5月30日はないのですか?

愛宕百韻の天気を調べるときにいくつかの史料を照合しましたが、この年の5月は29日までだったようです。

公家衆は何の為に集まっていたのですか?

織田信長に挨拶に来ていたようです。

史料からはわかりませんが、当日の出迎えは控えて翌日に挨拶に来た。ということなのかも知れません。

あんまり意味が無いような・・・。雑談ってどんなことを話していたのですか?


織田信忠!京都に到着していたのですね。織田信長とは会えなかったのでしょうか・・・。

「見参はなかった」とあるので誰とも会わなかったのだと思われます。

織田信忠だけで無く公家の人々も待ちぼうけですね。


なんだか意外です。吉田兼見はこういうことは欠かさないのかと思っていました。定例の神事はそれだけ大事だということですか?

なんとかして参会する方法もあったのかも知れませんが、史料からはわかりません。

どんな神事だったのか少し気になりますね。徳川家康はどうしていたのですか?

まだ堺に居たのですね。

杉原殿って誰ですか?

史料からは詳しいことはわかりません。織田信忠の家臣のようにも読めますが、この後の史料には登場しなくなってしまいます。

光秀はどうしていたのですか?

この辺りから度々内容の異なる史料が出てきます。

内容の異なる史料ですか?

まずは6月1日の光秀の行動についてです。

はい。

談合は相談したということですね。


1つ目の方が詳しそうですが、謀反を企てたのはもっと前からですよね?2つめは夜のうちに本能寺に着いたような雰囲気です。

1つ目が「信長公記」で2つめが「惟任退治記」です。どちらが正しいのかどちらも正しいのかはわかりません。

なるほど・・・。他にも史料はあるのですか?

光秀軍の兵士の考えについてです。

兵士の考えですか?

徳川家康を討ちに行くと思ったのですか!?

あれ?微妙に違います。でも、どちらも詳しい内容は知らされていなさそうなのに徳川家康を討つと思ったのですね。

そうですね。

そんなに普段から徳川家康は討たれるかもと思われていたのですか?

「甲陽軍艦」には「武田信玄が死んだら織田信長は徳川家康を殺すだろう」と残されています。

この兵士の考えについての史料はどこの史料なのですか?

1つ目は本城惣右衛門という丹波の武士の記録で、2つ目はイエズス会の記録です。

外国にまでそう思われていたのですか・・・。それにしても、ついに本能寺の変が始まるのですね。

続きは次回です。

気になります!!
