第124話 堺遊覧と本能寺に向かった織田信長
前回は愛宕百韻についてでしたが、この後光秀は本能寺の変を起こすのですよね?
そうですね。
織田信長は本能寺でなにをしていたのですか?
何をしていたのかはわかりません。しかし、本能寺には公家衆が集まっていたようです。
詳しく教えてください。
では、今回も史料を順に見ていきましょう。
よろしくお願いします。
どんな書状ですか?
史料からは内容はわかりません。
見物の旅は順調だったのでしょうか・・・たしか案内役の人が居たのですよね?
織田家家臣の長谷川秀一ですね。他には西尾吉次そして、織田信長嫡男の織田信忠が同行していました。
織田信忠も同行して居たのですか?随分と好待遇ですね。
同行を途中で取りやめたい。なんてなにか問題が起きたのでしょうか?
詳しい理由はわかりません。そして、この書状は小畠家に残っていました。
ということは、織田信長に届いていなかったのですか?
その可能性があります。
織田信忠の書状だと、徳川家康は京都で織田信長と合流しそうな様子ですが、徳川家康はどんな順路で見物したのですか?
史料からは大阪・堺・京都の順であることはわかります。その終着点が京都にある本能寺だったのではないかと思われます。
織田信長はいつ京都に行くのですか?
まもなく移動の気配がしますね。
とても小規模で護衛が少ない様子ですね。
織田信忠は堺へは同行したのでしょうか?
次に織田信忠が史料に出てくるのは6月1日の京都です。この時、徳川家康はまだ堺に居るのでどこかの段階で別行動になったと思われます。
結局のところ織田信忠は、織田信長の許可を得ずに上洛してしまうのですね。
未刻というと・・・午後二時前後でしょうか。迎礼を辞退というのはどんな意味があるのですか?
史料からはわかりませんが、出迎えを受けてあまり目立ちたくなかったのかもしれません。
織田信長はどこの滞在するのですか?
織田信長のこの時の宿所は本能寺だったようです。
ついに本能寺の変の前日になるのですね。
続きは次回です。
気になります!