第123話 愛宕百韻 日付と天気
前回は連歌のルールと、愛宕百韻で詠まれた句についてでしたが、今回はどんなことを教えてくださるのですか?
愛宕百韻の日付と天気についてですね。
気になっていました!詳しく教えてください。
では、今回はまず日付について見ていきましょう。
よろしくお願いします。
愛宕百韻の開催された日付は天正10年5月24日ですが、羽柴秀吉が「惟任退治記」に残したのは5月28日でした。
どうして羽柴秀吉は5月28日にしたのですか?
史料からは詳しくはわかりません。ですが、なにか羽柴秀吉にとって5月24日だと都合が悪い事があったので改竄したのだと思われます。
どうして28日だったのでしょう?
史料からはわかりません。おそらく、光秀の句を改竄したために、つじつまが合わなくなったのではないかと思われます。
確かな理由はわかりませんが、28日にするとあと2日で6月ということで違和感を薄れさせようとしたのかも知れません。
でもどうして、24日の方が正しいとわかったのですか
ここで天気のお話になります。実は日付を変えたことにより天気の矛盾が起きてしまっていたのです。
天気の矛盾ですか?
「発句はその場の風情を看取して詠むべき」というルールを覚えていますか?
正しい句も、改竄された句も風情は「5月の雨」でした。・・・ということは、当日は雨じゃなくてはおかしいのですね?
そのとおりです。
でも当時の天気なんてどうやって調べるのですか?
実は、日記に天気を書き残している人が居ました。
そんな几帳面な人が!?誰ですか?
そんな身近に3人も・・・。24日と28日の天気はなんだったのですか?
愛宕山威徳院に一番近い山科言経の史料を見てみると、24日は「晴れ時々くもりのち雨」で28日は「晴れ」でした。
ということは、正しいのは24日ということになるのですね。
そうです。そしてこれにより、羽柴秀吉が何らかの不都合により愛宕百韻の記録を改竄していたということがわかりました。
なんだか、隠されていることが多くありそうです。そしてわかってはいたことですが、やっぱり本能寺の変は起きるのですね・・・。
そうですね。
この愛宕百韻のあと光秀はどうするのですか?
光秀は本能寺の変に向けて動き出すのですが、その前に本能寺で何が行なわれていたのか気になりませんか?
気になります!
では、次回は織田信長の動きを見ていきましょう。
楽しみです。