第122話 愛宕百韻 連歌会のルールと作られた記録
前回は光秀が行なった愛宕山威徳院での連歌会、愛宕百韻についてでしたが、今回はどんなことを教えてくださるのですか?
連歌のルールと愛宕百韻の正しい句と作られた記録についてですね。
気になっていました!詳しく教えてください。
では、今回はまず光秀が詠んだ句について見ていきましょう。
よろしくお願いします。
光秀はこの日は発句を含め15の句を詠んでいますが、注目したいのは最初に詠む発句です。
「時は今あめが下なる五月かな」という句ですよね。
そうです。表向きには「時は今、雨の下にいる五月だ」という意味で、「土岐氏は今、この降り注ぐ五月雨に叩かれているような苦境にいる五月である」という思いの込められた句だと思われます。
そうです。連歌とは式目という一定の規則に従って読み継いでいくものです。今回は百韻なので、5・7・5の上句と7・7の下句をそれぞれ50句詠みます。
上句と下句合わせて100句になって百韻なのですね。
初めの3句は発句・脇句・第三といって「三つ物」と呼ばれ、この百韻を代表する特別な句です。
その他の句はなんと呼ばれるのですか?
4句から99句目までは平句、祝言の句とされる100句目を挙句といいます。
挙句も特別のようですね。
連歌は1つ前の句と2つ前の句の制約を受けて詠まねばなりません。ですが、発句と挙句だけは他の句の制約を受けず自由に詠むことが出来ます。
・・・連歌は難しそうですね。
そうですね。特に平句に意味を詠み込むのはとても難易度が高かっただろうと思われます。
他にはどんな規則があるのですか?
色々規則がありますが、その中に「発句はその場の風情を看取して詠むべき」「脇句は発句と同じ季を詠むべき」というものがあります。
風情とは・・・風流・風雅の趣・味わい・情緒・気配・様子・有様のこと。ですか・・・難しいですね。
では一度、発句・脇句・第三・挙句の4句をみてみましょう。
はい!
発句「ときは今あめが下なる五月かな」(時は今、雨の下にいる五月だ)光秀
脇句「水上まさる庭の夏山」(川上から流れてくる水音が高く聞こえる夏の築山)西坊(行祐)
第三「花落つる池の流れをせきとめて」(花が散っている池の流れをせきとめて)紹巴
挙句「国々は猶のどかなるとき」(国々はさらに安寧となる時)光慶
では、「時は今、雨の下にいる五月だ」と詠んだこの連歌会の風情はなんだと思いますか?
見たままですが「5月の雨」でしょうか?脇句の季節は夏ですが、発句は春ですよね?
いいえ、「五月」は初夏を表す季語です。なので、脇句の「夏山」と合っています。
句の世界は難しいです・・・。
では、ここで羽柴秀吉が「惟任退治記」に残した発句を見てみましょう。
はい!
発句「ときは今あめが下知る五月哉」(今降っている五月雨の下で季節が5月であることを知る)光秀
「下なる」が「下知る」になっています。それだけで、そんなに意味が変わってしまうのですか?
史料にはありませんが、後の人々はこの句に込めた意味を「土岐氏である自分が天下を治めるべき季節の五月になった」と読みました。
・・・なるほど。でも実際に本能寺の変がおきたのは6月ですよね?
そうですね。その疑問の答えの前に、「惟任退治記」の後に書かれた「信長公記」に残された脇句・第三を見てみましょう。
脇句「水上まさる庭のまつ山」(川上から流れてくる水音が高く聞こえる松山)西坊(行祐)
第三「花落つる流れの末を関とめて」(花が散っている流れの末をせきとめて)紹巴
どちらも少しずつ違いますね。脇句は季節がわかりません・・・。
愛宕神社に奉納された愛宕百韻の原本は江戸期の火災で焼失してしまっていますが、各地に写本が14本残っており、発句は様々でしたが、脇句と第三は全て正しいものが書かれていました。
「信長公記」だけが違ったのですか?
「信長公記」にも写本がいくつか存在し、太田牛一が晩年まで修正を加えていた池田家本には全て正しい句が残されています。
え?どういうことですか?
史料からはわかりません。ですがおそらく「当初の情報が間違っていて後に正しい情報を得たので直した」ということだと思われます。
どうして間違った情報が流れてきたのでしょうか?
これも史料にはありません。おそらく「原文のままの脇句と第三は発句に肯定的な意味合いの句になっているので、そうなると光秀の共犯となってしまい不都合になってしまった。」ということなのかもしれません。
光秀の単独犯にしたかった。ということですか?
そう記す歴史書も少なくありません。諸説についてはまた今度お話ししましょう。
はい。先ほどの、発句5月6月問題は解決するのですか?
それはこの愛宕百韻の日付に大きく関わってきます。
天正10年5月24日ですよね?
続きは次回です。
気になります!