第62話 光秀、多聞山城の城番になる。迫り来る一揆勢と武田軍
今回はどんなお話しですか?
今回の舞台は多聞山城です。
多聞山城の城主は、確か松永久通でした。
そうです。前回の三好義継の謀反の際、松永久通の居る多聞山城も包囲され、天正元年12月26日に松永久通は多聞山城を明け渡し降伏しました。その時に山岡景佐が多聞山城の城番になりました。
山岡景佐って、光秀の家臣の人ですよね?
そうです。そして天正2年1月8日に松永久秀が織田信長に会いに岐阜城にやってきます。
お正月の挨拶にしてはちょっと遅いですか?
史料には、赦免された礼を述べたことと、刀を2振り献上した事が書かれています。
赦免とは、罪や過ちを許すこと。・・・なるほど。
そして、光秀は多聞山城の城番として多聞山城に行くことになります。
山岡景佐と交代ですね。
史料を日付順に見ていくと、1月11日に多聞院院主の英俊が、多聞山城の留守番替えに光秀が来ると聞きます。
多聞院ってお寺ですか?
多聞山城から10Kmほど離れた、今の奈良県奈良市三碓にあるお寺で、英俊は院主を務める僧侶です。
城番交代のことを来る前に知るのは情報が早いですね。
多聞院というのは奈良の興福寺の塔頭のひとつでもともと奈良は興福寺が支配していました。のちに武家の勢力が入ってきますが、寺側の権力はまだ強く、高い情報収集力を持っていました。
情報が大事なのはいつでも一緒なのですね。
そして、この多聞院院主の英俊は「多聞院日記」というとても細かく書かれた日記を残しています。
「多聞院日記」、覚えておきます。
多聞山城から6Kmほど離れた、今の奈良県奈良市西ノ京町にある、大乗院門跡の尋憲も同じく「尋憲記」という日記を残しています
「尋憲記」も覚えておきます。
音信するって音信不通の音信と同じですか?
そうです。連絡するといった意味ですね。城番変更につき、挨拶のため連絡してきたと思われます。
なるほど。
やっと平定したのに・・・。
織田信長は、まず羽柴秀吉・丹羽長秀らおよび若狭勢を敦賀へ派遣しました。
敦賀はこの頃は若狭でしたよね・・・だから若狭衆!なるほど。光秀はどうするのですか?
光秀は多聞山城の城番に行かなくてはならないので、今回は待機です。
歯がゆいですね・・・。越前にも一揆勢はまだ居たのですね。
一向宗は根強く、石山本願寺は織田信長を攻める為に至る所に信者を潜ませていました。
あっちもこっちも・・・。光秀はいつ多聞山城に行くのですか?
光秀が多聞山城での動きがわかる史料は1月24日から残っています。
どんな史料ですか?
まず、1月24日~26日に光秀は、多聞山城にて紹巴らと連歌会を催します。
1日で終わらないタイプの連歌会だったのですね。
礼・・・。ご挨拶のことですね。
その同日の1月27日に武田勝頼は、美濃岩村へ出陣し明智城を包囲します。
明智城!?
この明智城は遠山氏の一族である明智家のお城です。
光秀は土岐氏の一族である明智家でしたよね?
そうです。
土岐氏と遠山氏は関係があるのですか?
直接の関係は、なさそうですね。
・・・ということは、この史料ではどこに注目すれば良いですか?
この史料でわかるのは、武田勝頼(武田信玄の息子)が織田信長の支配下にある美濃に攻め込んできたということです。
え、おおごとです!
なので、織田信長はそのあと越前に美濃にと対応に追われることとなります。
大変なことになってきました。
その頃、光秀は多聞山城の城番として大乗院と良い関係を築いていたようです。
大事なお仕事です。
大乗院には「法性五郎の長刀」という有名な刀があり、光秀は1月晦日に尋憲から借用し、2月2日に進藤兵庫助へ返却しました。
3日間ほどお借りしたのですね。
その頃、織田信長は2月1日に、尾張と美濃の軍勢を岐阜城へ集めます。
出陣の準備ですね。
織田信長は戦で、光秀は筆で戦っていたのですね。
2月5日織田信長・織田信忠は、明智城救援に出陣し御嵩に陣を張りました。
御嵩ってどの辺りですか?
御嵩は今の岐阜県可児市の辺りです。そして2月6日に高野へ進みます。しかし、武田軍を攻めるはずが難所続きで断念し、移動を命じているところ明智城は落城の知らせが来ます。
え!?
明智城の飯羽間右衛門尉が武田に寝返ったようです。
なんということでしょう・・・。
織田信長は高野城の普請を命じ、河尻秀隆を城番に置き、小里に城を築き、池田恒興を守備に置きました。
あまり良い状況とは言えなそうですね。
どんな内容だったのですか?
史料からは内容はわかりません。前後を見ると岐阜のことだったのではないかと思われます。
きっと小里にお城を作っている頃ですね。
そして2月24日に織田信長と織田信忠は、岐阜へ帰城します。
武田軍に一揆勢・・・。まだまだ平穏は遠そうですね。
次回は束の間の平穏が訪れます。
楽しみです。