第61話 三好義継との決着、そして箔濃

ガラシャ

前回は北伊勢から帰ってきた所まででした。今回はどうなるのでしょう?

憲三郎先生

突然ですが、また三好義継が謀反を企てました。

ガラシャ

え!?

憲三郎先生

しかし、今回は三好義継の家老、多羅尾右近・池田教正・野間泰久の3人は行動を共にせず、家老の中で金山貞一が三好義継と共に謀反を企てていたようです。

ガラシャ

味方の中にも賛成していない人が居たと言うことですね。

憲三郎先生

そうですね。

ガラシャ

織田信長はどうしていたのですか?

憲三郎先生

織田信長は、天正元年11月4日に上洛し、妙覚寺に宿泊しました。

ガラシャ

三好義継の居城はたしか若江城でしたよね?攻め込みますか?

憲三郎先生

日付は定かではありませんが、織田信長は京都に滞在し、佐久間信盛が若江城に向かいます。

ガラシャ

なるほど、織田信長はいざという時のために京都に居たのかもしれませんね。

憲三郎先生

三好義継の家老である多羅尾右近・池田教正・野間泰久の3人が金山貞一を切腹に追い込みます。

ガラシャ

織田軍の調略ですか?

憲三郎先生

史料からは確かな事はわかりませんが、可能性は高いと思われます。

ガラシャ

三好義継はどうしたのでしょう?

憲三郎先生

多羅尾右近・池田教正・野間泰久が城内に佐久間信盛の軍勢を引き入れると、天主から打って出て多くの者に手傷を負わせその後、切腹しました。

ガラシャ

劇的な最後です・・・。あれ?そういえば、足利義昭って、若江城にいたんですよね?

憲三郎先生

良く覚えていましたね。足利義昭は三好義継と織田信長の関係が悪くなったので、この時にはすでに和泉の堺に移っています。

ガラシャ

素早いですね。

憲三郎先生

ちなみに、この時京都に戻るように織田軍が交渉しましたが決裂し、翌年に紀伊国に移ります。その後天正4年に備後の国の鞆(とも)という場所に逃げたそうです。

ガラシャ

備後の国ってどこですか?

憲三郎先生

今でいう広島県の東半分に当たる場所です。管轄的には毛利領です。

ガラシャ

その頃、光秀はどうしていたのですか?

憲三郎先生

光秀は京都で内政をしていたようで、書状が残っています。

ガラシャ

どんな書状ですか?

ガラシャ

山城実相院ってどのあたりですか?

憲三郎先生

今の京都府京都市左京区岩倉上蔵町です。

ガラシャ

静原山城と近いですね。

憲三郎先生

そうですね。もしかしたら静原山城での戦いの関係の処理だったのかも知れませんね。

ガラシャ

なるほど。織田信長も京都にいたのですよね。

憲三郎先生

そうです。三好義継の切腹の知らせを受け、12月2日に織田信長は岐阜に帰ります。

ガラシャ

若江城はどうなったのですか?

憲三郎先生

多羅尾右近・池田教正・野間泰久が織田信長に忠誠を尽くしたので彼らに預け置かれました。

ガラシャ

主の居ないお城というのもなかなか大変そうです。その後はどうなったのですか?

ガラシャ

どこに行ったのですか?

憲三郎先生

史料からはなにか用事を言いつけられた事しかわかりません。

ガラシャ

でも、なんだかやっと少し穏やかになりそうですね。

ガラシャ

馬廻衆って、どんな人達ですか?

憲三郎先生

馬廻衆とは、護衛や伝令などを担う親衛隊のような役職です。

ガラシャ

薄濃って、なんですか?

憲三郎先生

薄濃(はくだみ)とは、漆を塗って金箔を貼ったものです。

ガラシャ

え!?模した物とかではなく、頭蓋骨そのものなのですか・・・。

憲三郎先生

そうです。

ガラシャ

朝倉義景・浅井久政・浅井長政たち本人のですか?

憲三郎先生

史料にはそうありますね。

ガラシャ

・・・正直怖いです。なんでそんなことを。

憲三郎先生

実は、中国には『史記』に薄濃がでてくる有名な話があります。

ガラシャ

どんなお話ですか?

憲三郎先生

「春秋時代の趙の襄子という人が晋の智伯に攻め込まれて苦戦した後、これを破って殺し、その頭蓋骨に漆を塗って盃にした」というものです。

ガラシャ

さかづき・・・。

憲三郎先生

この話は、自分を窮地に追い詰めた敵に対する憎しみの強さを表すものとされています。

ガラシャ

織田信長もその中国の話を真似たのでしょうか?

憲三郎先生

中国通の織田信長なので、倣ったのかも知れません。

ガラシャ

織田信長も頭蓋骨の器で、くいっと・・・?

憲三郎先生

いいえ。史料には「薄濃を肴に馬廻衆と酒宴を行った」とあるだけで盃にしたとはありません。

ガラシャ

そんなに憎かったのでしょうか・・・。

憲三郎先生

史記の記述では襄子の気持ちがどのようなものであったか記述はありません。そして「信長公記」にも織田信長の気持ちがどのようなものであったか記述はありません。

ガラシャ

そうなのですか・・・。

憲三郎先生

したがって、憎しみなのか尊敬なのかは後世の人の解釈にゆだねられています。

ガラシャ

この宴はどこで行われたのですか?

憲三郎先生

史料には岐阜城で行われたとあります。

ガラシャ

それにしても、この3人を討ち取ったのは、8月末頃なので約4ヶ月で薄濃を作ったことになりますよね。

憲三郎先生

そうですね。

ガラシャ

どんな職人さんに頼んだのかも気になりますが・・・。

憲三郎先生

なにか気になることがありますか?

ガラシャ

この宴の後、どこに置いて置いたのだろうと思うと・・・。

憲三郎先生

ちなみに、この薄濃は後世に伝わっていないようで、その後の行方はわかりません。

ガラシャ

余計に気になります!

”三好義継の最後は切腹でした、薄濃は中国の風習でした。”