第21話 連歌会に参加!連歌って何?
ついに京都での生活が始まりましたね!まだ光秀は細川藤孝の足軽ですか?
そうですね。上洛してすぐのこの頃はまだ足軽衆でした。そんな足軽衆の光秀ですが、永禄11年11月15日に連歌会に参加します。
連歌?連歌って何ですか?
連歌とは和歌から派生した詩歌の一形態。5・7・5の発句と7・7の脇句そして5・7・5の長句7・7の短句を交互に連ねていくもの。各句は独立しつつ前句との2句間に詩趣を構成する。1巻を通じてのテーマはないが,全体の変化と調和を重んじ,そのために全体を統制する式目,作法が定められている。形式としては 100句続ける百韻が基本で、千句 (百韻 10巻)・万句 (千句 10巻)などがある。全体を1人で詠む独吟もあるが,多くは2人以上,ときに十数人にも及ぶ作者による共同詠作。とあります。
・・・。和歌とか俳句の仲間ですか?
簡単に言うと1人でもできるけれど基本2人以上で行う和歌の会の一種で最初の人が「5・7・5」次の人が「7・7」さらに次の人が「5・7・5」その次の人が「7・7」と続けていく高尚な教養のひとつです。
そして、それを100回続けたり1000回続けたりいろんな回数があると?
そうですね。回数が少ない場合もありましたが百韻という100句続けるのが標準だったようです。
とても時間のかかりそうな会ですね。
そうですね。連歌はとても時間がかかる物だったので簡便を好む江戸時代には5・7・5・7・7だけの俳句が好まれて流行し、連歌は廃れてしまいました。
今回の会はどなたの会だったんですか?
聖護院宮道澄です。名前の通り公家です。関白である近衛前久の弟ですがこの人自身も聖護院というお寺の門跡を務める位の高い人です。
関白は聞いたことがありますが門跡ってなんですか?
関白は成人の天皇を補佐する官職で、実質上の公家の最高位です。門跡は皇族・公家が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のことです。
え、なんだかすごい方です。光秀はどうしてそんな高貴な会に参加できたんですか?
明確な史料はないのですが細川藤孝も同席しているので幕府方代表として細川藤孝が招待され、それに同行したという経緯かもしれません。
連歌会って特別なものだったんですか?
当時は頻繁に連歌会は開催されていていろいろな人が主催してたようです。
光秀のひいおじいさんの明智玄宣は連歌で有名だったんでしたっけ?
そうです。なのでもしかしたら明智玄宣の曾孫と紹介されたのかもしれませんね。
この会には細川藤孝と2人で行ったんですか?
幕府からは2人だけです。織田家からは織田信長の祐筆の明院良政も参加していました。祐筆とは秘書役を行う文官のことです。
他の参加者はどんな方だったんですか?
公家の飛鳥井雅敦・連歌師で僧の清誉上人・著名な連歌宗匠の里村紹巴・その弟子の昌叱・心前などが参加していました。
もちろんわかりませんが、とっても高貴そうな人々です・・・。そもそも光秀は連歌できたんですか?戦いばかりな人生に見えていましたけど。
明智家ももとは奉公衆の家柄ですからある程度の教育はされていたでしょうが、長崎称念寺の薗阿上人が連歌の手練れだったので越前での10年間の交流で磨かれたのかもしれません。この会で光秀は6句歌を詠んでいます。
そんなに?代表的な句はなんですか?
史料には次の句が残っています。「かすかにも 残るいり日の 山がくれ」
なんか切なさを感じる句です。
当時は句を嗜むのが一般的だったので解説の資料は残っていませんが、かすかに残る主君土岐頼純への思いが暮れて新たな一歩を踏み出した光秀の切ない哀惜の思いを詠んだものだったのでしょう。
土岐頼純が亡くなって20年。もうそんなにたってしまったんですね。