第85話 神吉城攻め

ガラシャ

光秀は毛利軍に包囲されている上月城を助けるために、敵城のひとつの神吉城を攻めに行くのですよね?

ガラシャ

どんな戦いになったのですか?

憲三郎先生

では早速史料を順に見ていきましょう。

ガラシャ

よろしくお願いします。

憲三郎先生

天正6年6月27日に織田軍は陣を4つに分けました。

ガラシャ

どう分けたのですか?

憲三郎先生

神吉城の北から東の山にかけて・志方城に対して・西の山・そして攻撃陣です。

ガラシャ

光秀はどこに居たのですか?

憲三郎先生

攻撃陣です。6月27日に神吉城に攻め入りました。

ガラシャ

どうなったのですか?

憲三郎先生

一挙に攻略できそうにも無かったのでこの日は攻撃を緩め翌日再び攻め立てました。

ガラシャ

防御が固そうですね。

憲三郎先生

西の山の陣も攻撃に加わり、ここからしばらく昼夜を問わず攻撃が続きます。

ガラシャ

敵もたまりませんね。

憲三郎先生

敵方からは和睦を申し入れてきたそうですが、聞き入れませんでした。

ガラシャ

和睦では無く降参を待っていたのですね・・・。

ガラシャ

保津川はどこにある川ですか?

憲三郎先生

丹波です。なので、亀山城普請に関係する指令だと思われます。

ガラシャ

播磨に出陣中も、ちゃんと指令を出していたのですね。

憲三郎先生

ちなみに保津川といえば、保津川下りが有名です。

ガラシャ

保津川下りですか?

憲三郎先生

丹波の亀岡から京都嵐山まで四季折々の渓谷美を楽しみながら保津川を船で下るのです。

ガラシャ

楽しそうです!

憲三郎先生

この保津川下りは400年前の江戸初期に、京の豪商である角倉了以が、木材や薪炭などの丹波地方の産物を京都へ送る為の産業水路として始めたのが由来だそうです。

ガラシャ

形が変わっても続いているって素敵ですね。

憲三郎先生

話が逸れてしましたね、戦国時代に戻りましょう。

ガラシャ

失礼しました、丹波に指示を出した後の光秀に何か動きはありましたか?

ガラシャ

苦戦していますね・・・松平家忠って誰ですか?

憲三郎先生

松平家忠は『家忠日記』の著者としても知られる徳川氏の家臣です。

ガラシャ

あれからずっと戦いが続いていたのですね。

ガラシャ

どんな書ですか?

憲三郎先生

帰陣したら伺います。というような内容です。

ガラシャ

なるほど。

ガラシャ

許されたのですか?

憲三郎先生

織田信長はこれを聞き届け、神吉藤大夫は赦免されました。そして志方城も降参しました。

ガラシャ

やっと終わったのですね。この二つのお城はこの後どうなるのですか?

憲三郎先生

両城は明け渡され、羽柴秀吉が受け取りました。

ガラシャ

なるほど、播磨ですから納得です。この後は高砂城ですか?

憲三郎先生

いいえ、この後は別所長治が立て籠もる三木城に総軍で攻め寄せ、砦を築いて陣を据えました。

ガラシャ

三木城ですか。

憲三郎先生

織田信長は毛利方の水軍を警戒していたので海に近い高砂では無く、その前に三木城をと考えたのかも知れません。

ガラシャ

すぐにまた戦ですか?

憲三郎先生

いいえ、この後は準備期間です。

ガラシャ

どんな準備をするのですか?

憲三郎先生

光秀は八上城攻めの準備・織田信長は海上戦の準備です。

ガラシャ

海上戦?

憲三郎先生

続きは次回です。

ガラシャ

気になります!

”神吉城・志方城が落城しました。次は三木城・八上城です。”