第86話 次の戦に向けて
準備期間と言っていましたが、次の戦は三木城と八上城ですよね?
予定ではそのはずでした。
・・・不穏な予感です。
では、今回も史料を順に見ていきましょう。
よろしくお願いします。
丹波攻めの為ですね。順調に進んでいるのですか?
そのようですよ。次の史料で少し様子がわかります。
教えてください。
大村って場所ですか?
城名のようです。史料にはありませんが、大村城は田中宗長によって築かれた城だそうです。
どの辺りにあるのですか?
今の京都府南丹市園部町城南町の辺りです。今でも土塁などの城跡が残っています。
人質を受け取るということは、順調に平定が進んでいるのですね。
そのようです。
余部ってどこですか?
京都府亀岡市に余部町という地名が残っています。
丹波平定に伴う人質の皆様は亀山城の城下町で暮していたということですか?
史料からはわかりませんが、その可能性もあると思います。
その後はどうなるのですか?
連歌と聞くと平和でほっとします。
木俣守勝って誰ですか?
木俣守勝は幼い時から徳川家康に仕えていた武将です。
どうして光秀が褒美を与えているのですか?
家族とのいさかいから出奔してこの時には光秀に仕えていたようです。
今は光秀の家臣なのですね。
後に、徳川家康の家臣として復帰します。
光秀と何かあったのですか?
いいえ、円満に送り出したようです。
良かったです。
礒谷?・・・字が似ているのですが、磯谷久次と関係ありますか?
礒谷もいそがいと読みます。史料からはわかりませんが、磯谷久次の息子か関係者だったのかも知れません。
磯谷久次って足利義昭が敵になったときに足利義昭について行ってしまった人ですよね?
そうです。
それなのに関係のある人を家臣として大事にしているって・・・すごいですね。
礒谷小四郎について史料が出てくれば、その辺りの経緯もわかるかも知れませんね。
気になります・・・。その後の光秀はどうですか?
とうとう八上城攻めですね。
円通寺ってどこのお寺ですか?
永谷山円通寺というお寺で兵庫県丹波市氷上町にあります。
どんな禁制だったのですか?
「円通寺に対して乱暴、放火、竹林の伐採はしてはいけません」というものです。
たしか前に出てきた誉田八幡宮の時も同じような禁制がでていた様な気がします。
そうですね。敵対しなければ社寺仏閣には敬意がはらわれていたことがわかります。
確かに焼き討ちの時に通達が来ていたりもしていましたね。そういえば、織田信長はこの頃どうしていたのですか?
9月27日に織田信長は伊勢の九鬼嘉隆と滝川一益に建造させた大船を検分するため京都を出発しました。
大船の検分?伊勢まで検分しに行ったのですか?
いいえ、堺の港まで舟を運んで検分しました。
堺の港ということは大坂ですか。
7月17日には着岸し、翌日には大坂の沖へ乗り出し毛利水軍の警戒にあたっていました。
いつの間に手配していたのですか?
詳しい日時は史料には記録されていませんが、6月26日には熊野灘を通っていたようですので、それ以前な事は確かです。
熊野灘ってどこですか?
熊野灘は紀伊半島南端の和歌山県の潮岬から三重県大王崎にかけての海域のことです。
ぐるっとまわって堺の港を目指したのですね。何隻手配ししていたのですか?
九鬼嘉隆に6隻、滝川一益に1隻手配したようです。
毛利水軍の警戒にあたっていたということは毛利水軍との戦いがあるのですか?
高砂城が毛利方に取られてしまっているので、海上からの攻撃を警戒していたのだと思われます。
検分はどうだったのですか?
織田信長が直々に検分するということで一目見ようとたくさんの人が集まったようです。
まさにお祭り騒ぎですね。
その後九鬼嘉隆と滝川一益そして大船の指揮に当たった犬飼助三・渡辺佐内・伊藤孫大夫はそれぞれ褒美を賜ったそうです。
ご満足いただけたのですね。
堺から京都まではどのくらいの時間がかかるのですか?
何時に出発したかわかりませんが、別の資料では10月1日の二十二時前後に、織田信長は、河内より上洛した、と残っています。
ほぼ1日がかりの移動ですね・・・くたびれそうです。
そしてこの後、とある噂が広がります。
・・・どんな噂ですか?
荒木村重の謀反です。
え!?
続きは次回です。
気になります。