第128話 本能寺の変~当日の人々の記録~
イエズス会がとっても情報通だったのですがどうしてですか?
天正10年6月2日の人々の行動についての史料を見てみるとわかります。
詳しく教えてください。
では、今回も史料を見ていきましょう。
よろしくお願いします。
6月2日の13種の史料の中で光秀・織田信長・織田信忠以外の人々に関する史料は5種あります。
これも多いですね。
1つ目は「イエズス会の年報」です。
気になっていました!情報の出所はどこなのでしょうか。
そうだと思われます。
そう言われています。
どうして本能寺ではなく織田信忠の所にいたのですか?
史料からは弥助の詳しい足取りはわかりません。ですが、その他のイエズス会の記録を見ると本能寺での出来事も詳しく残っています。
ということは、本能寺に居てその後二条新御所の織田信忠の所に駆けつけたということですか?
その可能性が大いに考えられます。
両方の現場にいた弥助が情報源なら詳しいのも納得ですね。他の人の記録も残っているのですか?
人々の記録2つ目は「信長公記」です。巳刻(午前十時前後)に、安土へ光秀謀反が伝わり、夜になって山崎片家が自邸を焼き払い、居城山崎城へ退去しました。
山崎片家って誰ですか?
織田軍の武将で近江山崎城城主です。焼き払った自邸は安土にあったそうです。
近江山崎城はどの辺りにあったお城ですか?
山崎山城と呼ばれていて、滋賀県彦根市清崎町に現在も城跡が残っています。
安土から北に行ったところですね。
村井貞勝・・・。京都の行政を一緒に行なったことを思うとちょっと感慨深いですね・・・。
5つ目は「多聞院日記」で、筒井順慶の動きが記されています。
大和の筒井順慶ですね!
え?なんだか情報が錯綜していますか?
間違った情報を聞いたのか、そう見せかけての行動なのかは史料からはわかりません。
味方の可能性もあるのですね・・・。難しいです。
そして、洛中洛外の様子がわかる史料は3種あります。
どんな様子だったのですか?
火も出ていますし、騒動にならない訳が無いですよね・・・。あれ?そういえば堺に行っていた徳川家康はどうしていたのですか?
よく覚えていましたね。実はこの日の徳川家康についてはわからないことが多くあります。
史料が無いのですか?
いいえ、史料は残っているからこそわからないのです。
どういうことですか?
続きは次回です。
気になります!