第142話 明智光秀、最後の日

ガラシャ

光秀の安否が気になるのですが・・・山崎の合戦について詳しい史料があるとのことですが、どんな史料なのですか?

憲三郎先生

イエズス会と吉田兼見と浅野家が残した史料です。

ガラシャ

光秀方の史料は残ってないのですね。

憲三郎先生

もし残っていたら謎が解明される大発見になると思います。

ガラシャ

そうですよね・・・残っている史料について、詳しく教えてください。

憲三郎先生

では、今回も順に見ていきましょう。

ガラシャ

よろしくお願いします。

憲三郎先生

まずはイエズス会の史料からです。

ガラシャ

はい。

ガラシャ

15Kmってとても近いですよね?

憲三郎先生

現代の成人男性でも歩いて3~4時間の距離ですね。当時はもっと早かったかもしれません。

ガラシャ

光秀は、摂津勢は説得済だと思っていたのですよね?

憲三郎先生

そうですね。おそらく光秀はイエズス会が無事説得してくれたと思っていたでしょうね。ただ、どこかの段階では説得失敗に気付いていたのではないかと思われます。

ガラシャ

どのくらいの軍勢が山崎で対峙していたのですか?

憲三郎先生

明智軍は八千ないし一万、羽柴軍は二万以上、高山右近は一千に満たない軍勢でした。

ガラシャ

8千~1万対2万1千・・・厳しい戦力差です。

憲三郎先生

高山右近は光秀が村の門まで進軍してきたため羽柴秀吉軍の到着を待てずに門を開けて高貴なる者二百人を攻撃し二百人を討ちました。

ガラシャ

光秀がどの時点で摂津衆が敵に回った事を気付いたのか、とても気になりますね。

憲三郎先生

史料からはわかりませんが、光秀も情報網は敷いていたはずなので、少なくとも対峙する段階ではもう気付いていたのではないかと思います。

ガラシャ

まさかイエズス会が原因だとは思わなかったかもしれませんね。それにしても200人討ち取られてしまうと明智軍は大打撃ですね。

憲三郎先生

そうですね。「高貴なる者」ということは足軽ではなく武将クラスが二百人ということなので、まさに大打撃です。

ガラシャ

武将クラス!?・・・想像以上の大打撃でした。

憲三郎先生

中川清秀・池田恒興軍も参戦して明智軍は逃げ始め、これがきっかけとなって正午に明智軍は敗退しました。

ガラシャ

この後どうなるのですか?

憲三郎先生

敗軍は午後二時に京を通り、通過に二時間要したが、盗賊らに襲われて坂本に着けなかった者が多くいました。

ガラシャ

・・・。

憲三郎先生

光秀は午後に勝竜寺城へ入り、羽柴軍は全軍で勝竜寺城を取り囲み、都に聞こえるほど終夜銃を撃ちました。

ガラシャ

勝竜寺城は京都より近いのに光秀が午後に勝竜寺城に入ったというのは不思議ですね。どういうことですか?

憲三郎先生

史料からはわかりません。撤退する時間を稼いだのかもしれませんし、坂本に逃げると見せかけて勝竜寺城に入ったのかもしれません。

ガラシャ

終夜、都に聞こえるほどの銃撃・・・。

憲三郎先生

光秀は宵の口に坂本に向かって逃げ、農夫らに殺されて首を切られました。

ガラシャ

宵の口とは日が暮れて間もないころ・・・。あれ?時間経過がわからなくなってきました。

憲三郎先生

では、兼見卿記を見てみましょう。

ガラシャ

はい。

ガラシャ

午後4時ということはもう光秀は勝竜寺城に居ますね。あれ?銃撃は数刻とあります。日の入り時間は大体19時頃でしょうか。

憲三郎先生

3時間以上銃声が鳴り響いていた可能性がありますね。

ガラシャ

恐ろしいですね・・・。

憲三郎先生

吉田兼見は、京都五条口より落武者たちが愛宕郡白川一乗寺周辺へ逃走し、途中にて一揆に遭遇した模様で或者討捕、或者剥取のこと、

ガラシャ

坂本に抜ける道の近くですね。

憲三郎先生

京都からの通知により山崎表に於いて合戦があり光秀が敗軍して勝龍寺城に入ったこと、明智軍の戦死者は数知れないことを知りました。

ガラシャ

ここはイエズス会の史料とだいたい一緒です。

憲三郎先生

吉田兼見は、堅く自宅の門を閉ざし門内に於いて用心していたが、吉田郷へは落人が一人も到来しませんでした。

ガラシャ

どうして吉田兼見は用心していたのですか?

憲三郎先生

史料から確かな事はわかりませんが、吉田兼見は光秀と親交がありましたので、もしかしたら光秀が逃げてくるかもしれない、逃げてきたら戦場になるかもしれないと思ったのかも知れませんね。

憲三郎先生

山崎合戦での南方の諸勢とは、織田信孝・羽柴秀吉・池田恒興・丹羽長秀・蜂屋頼隆・堀秀政・矢部家定・中川清秀・多羅尾光俊らで、二万余の軍勢で勝龍寺城を包囲したことを知りました。

ガラシャ

蒼々たるメンバーですが、多羅尾光俊って誰ですか?

ガラシャ

徳川家康の味方なのに光秀の敵なのですか?

憲三郎先生

史料からは確かな事はわかりません。多羅尾光俊と徳川家康の関係も含めもっと史料があればわかるかも知れませんね。

ガラシャ

最後の浅野家の史料というのはどんな史料ですか?

憲三郎先生

羽柴秀吉の家臣の浅野長政へ宛てた文書です。浅野家文書といわれ大日本史料に掲載されています。

ガラシャ

どんな内容だったのですか?

ガラシャ

羽柴秀吉から見た山崎の合戦の記録ということですね。

憲三郎先生

晩に山崎に陣取り、高山右近・中川瀬兵衛・堀秀政勢へ明智軍が段々に人数をそろえて切りかかる所、道筋は高山右近・中川瀬兵衛・堀秀政が切り崩し、南から池田紀伊守・羽柴秀吉、山手は羽柴秀長・黒田官兵衛が切り崩し、勝竜寺城を取り囲みました。

ガラシャ

名前が無い人もいますが、羽柴秀吉軍の配置が詳しく残っていますね。

憲三郎先生

そうですね。織田信孝・丹羽長秀・蜂屋頼隆・矢部家定・多羅尾光俊の名前がありません。史料からはわかりませんが、こちらは織田軍だったのかも知れませんね。

ガラシャ

結局光秀の生死についてはイエズス会の「農夫らに殺されて首を切られた」ということしか残っていないのですね・・・。

憲三郎先生

納得がいきませんか?実は光秀の最後と坂本城の最後についてはいくつもの説があります。

ガラシャ

そうなのですか?

憲三郎先生

14日以降にまた史料が多く残っていますよ。

ガラシャ

教えてください!

憲三郎先生

続きは次回です。

ガラシャ

気になります!!

”光秀は天正10年6月13日に山崎の合戦の末に亡くなりました。”