第100話 茶会と左義長

大和の検地が終わった後の光秀はどのように過ごしていたのですか?

天正8年の年末までは茶会が目立ちます。

平和で良いですね。

年が明け天正9年の正月には左義長がありました。

詳しく教えください。

では、今回も史料を順に見ていきましょう。

よろしくお願いします。

磯谷新介って・・・前も出てきましたか?

磯谷久次や礒谷小四郎と関係のある人でしょうか?

親類縁者か、礒谷小四郎と同一人物の可能性もありますが、史料が少なくわかりません。

気になりますね・・・。奏者ってことは光秀の家臣ですか?

そのようですね。

門外で対面ということは光秀とは会えなかったのでしょうか?

この史料からは、その足で吉田兼見が上洛したことしかわかりません。

急いでいたのかも知れませんね。

慰労会と人事査定面談は、まだ続いていたのですね。


珍しいお客様ですね。

なんだか優雅ですね。

長宗我部元親から鷹・砂糖に続きこんどは伊予鶏の贈り物ですね。隣国干戈ってどういうことですか?

干戈とは盾と矛。つまり、武器・武力または戦争のことをさします。この場合は隣国との戦争の事について光秀から伝達したものと思われます。

・・・穏やかでないですね。

本当にこの年は茶会続きですね。

宗及の茶会を通じて、光秀が家中の人心掌握に努めたことがうかがえますね。

茶会も奥が深いです・・・。

連歌会は久しぶりですね。

1月8日に織田信長は、馬廻衆と近江衆に1月15日の左義長へ参加することを命じました。

左義長ってなんですか?

左義長とは小正月に行われる火祭りの行事のことです。

どんな内容なのですか?

1月14日の夜または1月15日の朝に、刈り取り跡の残る田などに長い竹を3、4本組んで立て、そこにその年飾った門松や注連飾り、書き初めで書いた物を持ち寄って焼くそうです。

京都のお祭りですか?

全国的なお祭りで、地方によって呼び方が異なり「どんど焼き」などと呼ばれています。「とんど」を「爆竹」と当てて記述する文献もあります。

どうして爆竹なのですか?

これは燃やす際に青竹が爆ぜることからつけられた当て字だと言われています。

なるほど。その左義長までの間、光秀はなにをしていたのですか?

1月10日と11日に宗及は、光秀・宗二と茶会をしました。

宗二って誰ですか?

宗二は堺の豪商で茶人です。千利休に20年間茶の湯を学んだ、高弟といわれています。

あの有名な千利休ですか。

所労というと光秀はなにをしていたのですか?

史料ではこの日、光秀は、三上大藏大夫・古市修理進・赤塚勘兵衛・寺本橘大夫・中路新兵□・蜷川弥□□へ西国出陣につき国役として普請役と知行地の開墾を命じました。

三上大藏大夫・古市修理進・赤塚勘兵衛・寺本橘大夫・中路新兵□・蜷川弥□□って誰ですか?

史料が少なく詳しいことはわかりませんが、丹波の国衆のようです。

□は文字が読めなかったということですか?

そのようです。

西国出陣の予定があるのですか?

史料には「来初秋」とあるのですぐの話では無さそうです。

確かに開墾は時間がかかりそうなので早めに指示が出ると助かりますね。

1月15日は左義長が行われました。

当時も今と同じようなお祭りだったのですか?

この時の左義長の様子は史料に詳しく残っています。

どんな様子だったのですか?

趣向を凝らした頭巾装束と衣装を纏い、10騎または20騎ずつを一組にして、馬の後ろに爆竹をつけて点火し早駆けさせ、安土城下町の北部へ築かれた馬場から町へでて、また馬場へもどって来させる、という趣向だったようです。

ものすごいお祭り騒ぎでした・・・。

史料には見物人が群れ集まり、皆がこの趣向に感嘆した。とあります。

毎年のことではなかったのですね。光秀も参加したのですか?

後の史料で、この左義長について光秀が織田信長から賞されており、光秀がこの左義長の奉行を務めたのではないかと思われます。

領地だけでなく色々な行政を任されていたのですね。

この左義長を終えた光秀は、織田信長よりまたひとつ、大きな仕事を命じられます。

どんな仕事ですか?

京都での馬揃えの奉行です。

馬揃えですか?

詳しくは次回です。

気になります!
