第50話 光秀側近への道、そして松永久秀謀反

元亀3年3月・・・。光秀は坂本城作成中のはずですがこの後の展開を教えてください!

3月5日~11日の出陣に光秀の名前が登場します。

出陣ですね!今回はどんな戦いですか?

3月5日、織田信長は北近江へ出陣し、翌日3月6日に横山城到着します。そして3月7日に余呉・木本一帯を焼き払います。

余呉・木本というのはどんな場所なんですか?

どちらもいまの滋賀県長浜市です。小谷城城下にあたるので浅井長政への兵糧攻めの一環と思われます。

浅井長政は抵抗したり攻めてきたりしないのですか?

史料には「浅井方の武将から一戦交えようという声も上がっているようだと聞こえてきたが、足軽部隊の応戦さえ無かった」とあります。

これも作戦なのでしょうか、ちょっと拍子抜けですね。織田軍は撤収ですか?

そうです。3月9日に織田軍は横山城に撤収、翌3月10日に常楽寺へ陣宿しました。

常楽寺は前にも泊まったことがありまか?

元亀2年9月3日の一揆勢制圧の時ですね。

そうでした。


田中城って、光秀が最初の上洛の時に籠城して饗庭氏と戦った、田中氏の居城ですよね?田中氏に何があったんですか?

詳しいことは史料ではわかりません。ただ、幕府方だった田中氏が、どこかの段階で敵になってしまったかもしくは田中城が敵に占拠されていたと考えるのが自然な気がします。

田中氏・・・。

ある史料には「砦を築かせて明智光秀・中川重政・丹羽長秀の三人を配備した」とあります。

織田軍の管轄になったのですね・・・ある史料ってなんだか意味深ですね?

しかし、違う史料には、「3月12日に上洛し、妙覚寺に寄宿している織田信長を吉田兼見が訪問。光秀が奏者を務めた。」とあります。

あれ?光秀がいます。田中の砦にいるはずではなかったんですか?

そうですね、少しおかしく感じますがどちらも一級史料に書かれていることなのです。

え?どちらも正しいということですか?

光秀だけ一緒に着いてきて、光秀軍は守備していたと考えるとつじつまが合う気がしますが、この矛盾を解ける他の史料は見つかっていません。

奏者って、光秀に演奏ができたことにも驚きました。

奏者とは演奏者のことではありません。

え?違うんですか?

奏者とは、主君に奏事伝達を行う役目のことをいいます。申次と呼ばれる事もあります。

奏事とは訴訟手続の一つ・・・。吉田兼見は織田信長に何かを訴えにきたんですか?

光秀が奏者を務めたのなら吉田兼見が織田信長になにかを訴えにきたのだと思います。

内容は何だったんですか?

史料ではわかりません。ですが、「事がうまく運んで満足した」とあるので、良い結果になったのだと思われます。

良かったですね。京都では他にはどんなことをしたんですか?

そうですね、3月24日に武者小路に織田信長の屋敷を立て始めます。

あれ・・・急に京都にお屋敷ですか?度々妙覚寺に泊まっていましたよね?

史料には「足利義昭が度々上洛するのに京都に屋敷が無いのは良くないと天皇に上奏し将軍の命令で作った」とあります。

それはすごいですね。いつ頃できあがったんですか?

実はこの後足利義昭と織田信長の関係が悪くなり、このお屋敷は完成しませんでした。

・・・なんと言うことでしょう。

あとは、4月3日に吉田兼見、吉田兼右が織田信長と会食して、金子一枚を賜わったこと、光秀が馳走の取り成しをしたと史料にあります。

また取成しがでてきました、馳走の取り成しとはどういうことですか?

おもてなしの手配をしたということです。

着々と側近への道を歩んでいそうですね。

そんな折りに謀反が起きます。

謀反!?誰ですか?

三好義継と松永久秀です。

仲間だった三好さんが・・・どうして松永久秀と一緒に?

触れていませんでしたね。三好勢の内部分裂の際に、まだ幼い三好義継の後ろ盾になったのが松永久秀です。

なるほど、そういう関係だったんですね。

それに関わると言われている書状があります。

はい。

4月4日に、織田軍から片岡弥太郎に加勢を要請する連署状が発行されています。署名の順番は柴田勝家、佐久間信盛、滝川一益、明智光秀。何か気づきますか?

あれ?連署状の順番・・・。光秀一番後ろって、こないだの連署状は幕府奉公衆の人が一番後ろでした。

この連署状は、織田軍の武将だけの連署となっていますね。

別働隊でしょうか?

たくさんの人で出陣したんですね。

細川藤孝・三淵藤英・上野秀政は幕府奉公衆なので、この軍は連合軍だったはずです。

となると・・・?あれ?

実は元亀3年4月4日付けだと思われてきたこの書状には、「年」の記載はありません。

では、どうやって「○○年に発行された」とわかるんですか?

ほとんどの書状には年の記述が無いのです。歴史学者は内容と前後の歴史背景を研究して、おそらくここだろうといって発表します。これを年次比定と言います。

年次を比べて定める、年次比定。なるほど。

もしかしたら、4月4日付けだと思われてきたこの書状は年次比定が間違っているかもしれません。

違う年の可能性があるんですね?

もう少し史料解析が必要ですが、天正4年の4月にも河内に出陣しているので天正4年の可能性があります。

こうして少しずつ真実に近づいていくんですね。・・・松永久秀と三好義継はどうなりました?

二万余の軍勢包囲していたものの、逃げられてしまいました。

どこに逃げたのですか?

それぞれ居城に立てこもりました。三好義継は若江城(今の東大阪市)、松永久秀は信貴山城(今の奈良県生駒郡平群町信貴山)、久秀の子である松永久通は多聞城(今の奈良県奈良市法蓮町)です。

別々の所に・・・攻めるのは大変ですね。

居城ですから地の利は敵にありますね。

この後はまた包囲戦ですか?

史料には膠着状態になってしまったのか、「5月11日、河内に出陣していた武将達は各々帰陣し上洛したようだ」とあります。

一時撤退ということですね。

ちなみにこの戦の間織田信長は京都で政務をしていたようで、史料には5月14日に京都出発し、5月19日に岐阜城に帰城したことが記されています。

なんだか落ち着かないですね。

この後は浅井攻めに出陣です。

ずっと兵糧攻めしていた小谷城ですね。続きが気になります。
