第47話 元亀2年に起きた出来事~後編・光秀と比叡山延暦寺の焼き討ち~

ガラシャ

さぁさぁ!ついに出陣ですね!

憲三郎先生

それでは今回は出陣の行程を見ていきましょう。

ガラシャ

はい!

憲三郎先生

8月26日に織田軍は中島村に布陣し、辺り一帯を焼き討ちしました。中島村は今の滋賀県長浜市の辺りです。

ガラシャ

どうしてこの場所を焼き討ちにしたんですか?

憲三郎先生

史料にはありませんが、この場所は小谷城の周辺の地域で兵糧攻めの意味があったと思われます。

ガラシャ

なるほど。

憲三郎先生

8月27日に横山城へ撤退、翌日の8月28日に丹羽長秀の居る佐和山城へ宿泊し、小川村・志村城(新村城)周辺を焼き討ちしました。今の滋賀県東近江市の辺りです。

ガラシャ

この場所はどうして焼き討ったんですか?

憲三郎先生

史料では、小川村・志村城(新村城)に一揆勢が立てこもっていたとありました。

ガラシャ

なるほど。ではこの後は志村城(新村城)攻めですね。

ガラシャ

え!?織田信長はこのことを知っていたのでしょうか?

憲三郎先生

出陣中の織田軍に知らせが届いたのかはわかりません。このことが書いてある史料は京都に居た公家の山科言継の日記なので、京都までは知らせが届いていたことになります。

ガラシャ

『言継卿記』ですね。京都はどんな様子だったんでしょう。

憲三郎先生

史料には「幕府は大騒動と聞く」とあります。

ガラシャ

・・・一大事です。織田軍は志村城攻めですか?

憲三郎先生

織田軍は9月1日に志村城を攻め滅ぼすと、隣の小川城城主は降参しました。

ガラシャ

なんだか降参してくれると、ほっとするようになってきてしまいました。

憲三郎先生
ガラシャ

前回触れたのはこのことですね!
光秀は同行していたけどいつからかはわからないということですか?

憲三郎先生

史料には光秀の出発時のことが書かれていないので、詳しくはわかりません。しかし9月1日の志村城攻めの時には同行していたことと、幕府軍の摂津攻めに参加していないことは確かだと思われます。

ガラシャ

なんで光秀は幕府軍では無く織田軍に同行したのでしょう?

憲三郎先生

理由がわかる史料はありません。光秀の転職時期のわかる史料が出てくれば、前後関係がはっきりするのでは無いかと思っています。

ガラシャ

では、なんで和田秀純に仰木をなで斬りにする事を告げたんですか?

憲三郎先生

和田秀純は雄琴城の城主でした。雄琴城は今の滋賀県大津市にあります。仰木は雄琴城から約2㎞圏内にあるので近隣への攻撃を事前にお知らせしたものと思われます。

ガラシャ

なんだか意外です。ちゃんと配慮があるんですね。

憲三郎先生

9月3日、織田軍は常楽寺に移動し一揆勢の立てこもる金ガ森城周辺の田んぼを刈り取り、柵で囲い封鎖したところ一揆勢は降参しました。

ガラシャ

また田んぼが・・・。とも思いますが血が流れないように戦をしていくのも少し意外です。

憲三郎先生

9月11日、織田軍は山岡景猶の屋敷に移動します。

ガラシャ

そのお屋敷はどこにあったんですか?

憲三郎先生

山岡景猶は、三井寺山内に屋敷を持っていました。

ガラシャ

三井寺!度々登場するのでだんだん身近に感じてきました。

ガラシャ

ついに!有名な!

憲三郎先生

元亀元年に「根本中堂・日吉大社をはじめとして、一山ことごとくを焼き払うであろう」と宣言した通りに焼き討ちをにし攻め入りました。

ガラシャ

1年越しの約束をある意味では果たしたのですね・・・。比叡山延暦寺はどうなったんですか。

憲三郎先生

史料には、一人残らず討ち取ったとあります。

ガラシャ

わぁ・・・。

憲三郎先生

9月13日に織田信長は比叡山横川、わらぎ、みな上、その辺りの東塔の焼き残しなどを焼き払い、上洛しました。上洛した織田信長は足利義昭と会い、妙覚寺に泊まりました。

ガラシャ

あれ?今気づいたのですが、織田信長は京都に屋敷を持って居ないんですか?

憲三郎先生

この頃の織田信長は、上洛する度に妙覚寺に泊まっていたようです。

ガラシャ

織田信長が上洛したと言うことは、比叡山延暦寺の焼き討ちは2日で終わってしまったんですか?

憲三郎先生

残った織田軍が9月14日、9月15日と、さらに2日かけて比叡山に残る坊を焼き払いました。

ガラシャ

別行動だったんですね。

憲三郎先生

織田信長は9月18日に京都を出発し、9月20日には岐阜城に帰陣しました。

ガラシャ

あれ?光秀はどこで帰ってきたんでしょう?

憲三郎先生

史料では光秀の上洛時期はわかりません。光秀が次に史料に登場するのは9月24日です。24日早朝に光秀は摂津高槻へ千ばかりの軍勢を率いて出陣しました。

ガラシャ

光秀は1,000人も軍勢を持っていたんですね・・・。

憲三郎先生

史料には率いていたとしか書いていないので、持っていたのか、任されたのかはわかりません。

ガラシャ

なるほど・・・。摂津高槻に出陣したのは光秀の軍勢だけですか?

憲三郎先生

いいえ、翌日の9月25日には一色藤長・一色駿河守・上野秀政は摂津高槻へ千ばかりの軍勢を率いて出陣しました。

ガラシャ

何回か登場してる奉公衆の人がいます。
なんのために摂津高槻に出陣したんですか?

憲三郎先生

史料には理由は書いてありませんし、摂津で何を行ったかもわかりません。

ガラシャ

残っていないんですか・・・。

憲三郎先生

しかし8月28日幕府軍大敗を鑑みると、援軍もしくは救援だったのかもしれません。

ガラシャ

なるほど・・。

憲三郎先生

三好勢は幕府軍との戦いの後、京都に攻めてきた様子もありません。幕府の史料はとても少ないので、もっと出てくれば詳しい様子がわかってくるはずです。

ガラシャ

確かに、織田軍の史料は太田牛一のおかげで細かく残っていて助かります。

憲三郎先生

そして光秀は、比叡山延暦寺焼き討ちの功績で織田信長に志賀郡をもらい、その後坂本に居城を構えました。

ガラシャ

坂本に居城ということは、そのままですが坂本城ですね?

憲三郎先生

そうです。

ガラシャ

でも、志賀郡はとても大きそうですが、光秀はどんな功績を収めて志賀郡をもらったのですか?

憲三郎先生

史料には功績の内容は書いてありません。しかし、褒美をもらうということはそれだけの功績を残したと考えるしかありません。

ガラシャ

他に褒美をもらった人は居たんですか?

憲三郎先生

史料には残っていません。領地はもちろんお城を建てる許可をもらったのも、信長の家臣としては光秀が初めてのようです。

ガラシャ

それは、よけいに何を成したのか気になりますね・・・。

憲三郎先生

わかっているように見えても、まだまだ史料は足りないので新しい史料が出てくるのを祈るばかりです。

ガラシャ

そうですね。

”比叡山延暦寺の焼き討ちで
光秀はとても功績を残した・・・らしい。”