第98話 十九条の折檻状
織田軍の中で大きな人事異動とは、何があったのですか?
そうですね、一番大きな人事異動は、佐久間信盛父子の追放ですね。
追放!?佐久間信盛って最初の頃から織田家家臣として登場している人ですよね?
そうですね、正しくは織田信長の父・織田信秀の代から織田家の家臣です。
そんな大御所な家臣がどうして追放になるのですか?
では史料を順に見ていきましょう。
よろしくお願いします。
天正8年8月12日に織田信長は宇治橋を検分するために京都を出発し、その後舟で大阪に行きました。
宇治橋ですか?
宇治橋は日本三古橋の一つに数えられる橋で、京都府宇治市の宇治川に架かる橋です。最初に架けられたのは大化2年(646年)と伝えられているそうです。
ものすごく古くからある橋ですね。でもどうして織田信長が検分をしたのですか?
史料では、天正7年9月にこの宇治橋を架けるように命じています。
壊れてしまっていたのでしょうか・・・だから織田信長が出来を確認しに来たのですね。
織田信長は移動先の大阪で、佐久間信盛を懲戒する折檻状を書き上げます。
どうして大坂で書いたのか気になりますが・・・懲戒ってどんな内容だったのですか?
そんなに遠くまで悪評が!?
どこまでが比喩かはわかりかねますが、かねてより目立っていた佐久間父子の悪いところや、他家臣の良いところなどを具体的に19条にわたって書かれています。
19条も・・・。佐久間父子は、このあとどうするのですか?
史料には、紀伊の熊野の奥へ当てもなく逃亡した。とあります。
厳しいですね・・・。
なんだか細川藤孝に念を押しているように聞こえますけど・・・。
この史料を見てみると、この時点で光秀と細川藤孝の上下関係が逆転していることがわかります。
光秀から見ると、上司が同僚になり、さらに部下になったということですか・・・それは気まずいですね。
そうですね。そのことで仕事に支障が出ないように、という織田信長の配慮がうかがえます。
素敵な上司です。細川藤孝はいつから丹後のお仕事をするのですか?
早速、一緒にお仕事していますね。
そして同じ日に光秀は、愛宕山威徳院法印へ丹波多紀郡内の二百石を奉納しました。
奉納ということは祈念のお礼ですよね・・・丹波多紀でなにがあったか気になります。
史料がもっと出てくればわかるかも知れません。
史料は、いっぱいあるようで足りないですね。ところで織田信長はまだ大坂ですか?
織田信長は同日17日に京都へ戻り、林秀貞・安藤守就父子・丹羽氏勝を遠国へ追放しました。
また追放・・・こんどはどうしてですか?
史料には、かつて織田信長が尾張で苦心していた頃に織田信長に敵対したからとあります。
佐久間父子も今回もですが、随分と前の事件を裁くのですね。
前の事件を裁くというより、謀反の予兆が現れる前に理由をつけて対処しようとしていたのかも知れませんね。
謀反が続きましたから、わかる気もしますね・・・。
修理反銭ってなんですか?
反銭とは即位・内裏修理・寺社造営・将軍宣下(せんげ)などに際し、朝廷・幕府などがその費用に充てるため、臨時に諸国の田地から段数に応じて徴収した金銭のことを指します。
多聞院の修理のために特別納税をお願いしているということですか?
そのようですね。
前にも同じようなことがありましたね。そういえば、光秀と細川藤孝の丹後の行政は順調ですか?
引き続きご配慮いただいているようで、とても良い上司ですが、やっぱり気まずいですね。
人知れず丹波ではちょっと荒々しいことも起きていたのですね。
井尻助大夫って誰ですか?
井尻助大夫は丹波船井郡の土豪だそうです。
二五○石四斗を新恩として宛がったとは、どういうことですか?
知行を許した、ということだと思われます。
知行を許した・・・ということは、井尻助大夫は家臣になったのですね。
久しぶりのお茶会です。この後、光秀はなにをするのですか?
この後光秀は大和に行きます。
大和でなにをするのですか?
続きは次回です。
気になります!