第80話 光秀の丹波攻めと羽柴秀吉の播磨平定

光秀の丹波攻めは終わっていなかったのですね。

大敗と病、さらに雑賀攻めと松永久秀攻めで光秀自身は動けていませんでしたが、現地の小畠左馬進をはじめとする国衆へ指示をだしていたようです。

現地の人々の負担は計り知れないですね。

そうですね、ありがたいことです。

いつ頃から出発ですか?

では、今回も史料を見ていきましょう。

よろしくお願いします。


筒井順慶は、たしか前回の松永久秀攻めの時も一緒でしたね。

そうですね。この日にもうひとつ光秀が関係する史料があります。

どんな史料ですか?

美作って国の名前ですか?

そうです。今の岡山県の津山市、美作市、真庭郡、苫田郡、勝田郡、英田郡、岡山市の一部、真庭市の大部分、久米郡の大部分、兵庫県佐用郡佐用町の一部が美作国でした。

江見為久って誰ですか?

あまり史料がないのですが、美作国の国衆のようです。

山中幸盛って誰ですか?

山中幸盛は毛利氏に滅ぼされた尼子家の家臣で、尼子家復興に努めていた武将です。この頃は織田軍の下で尼子家再興を目指していました。雑賀攻めや松永久秀攻めでは光秀軍の下で出陣したようです。

山中幸盛についての書状だったのですか?山中幸盛からの書状だったのですか?

どうやら、山中幸盛に届いた書状だったようです。「江見為久は主君である後藤元政が織田信長に味方するよう奔走した」という事が書かれていたようです。

織田信長が「その外の恩賞地を宛行う」というくらいですからとても助かったのでしょうね。

そうかもしれませんね。ちなみに、山中幸盛は次の戦では羽柴秀吉軍の下で戦うようです。

羽柴秀吉はこの頃何をしていたのですか?

10月23日に羽柴秀吉は播磨に出陣しました。


10月28日に羽柴秀吉は織田信長へ「播磨方面は11月10日頃には決着がつくでしょう」と報告しました。

え!?一月もかからずに決着がつくのですか?

平定の方法やその国の国衆の姿勢にもよるとは思われますが、なにより手柄を立て無ければならないという事情があったようです。

なにかあったのですか?

天正5年8月頃織田軍の別働隊が加賀へ出陣していました。

光秀が紀伊国で雑賀衆のいざこざを処理していたと思われる頃ですね。

柴田勝家を総大将としていたのですが、羽柴秀吉は柴田勝家と意見が合わず許可も得ずに陣を解いて引き揚げてしまったそうです。

職場放棄・・・織田信長は怒ったでしょうね。

織田信長はもちろん激怒したようで、史料には「羽柴秀吉は進退に窮した」とあります。

それで大急ぎで手柄を立てる必要があったのですね。

籾井城って丹波のどの辺りですか?

籾井城は今の兵庫県丹波篠山市の辺りです。籾井氏の居城で今も城跡が残っています。

どんなところだったのですか?

東には京都に向かう京街道、南には摂津に向かう摂津街道があり、それらが交差する要衝に位置していました。

とっても重要な場所ですね。どうして籾井城を攻めたのですか?

この頃、籾井氏は波多野氏の味方についていたそうです。

そうです。要所をまず押さえようとしたのかも知れませんね。

籾井城攻めの結果はどうだったのですか?

次の史料に戦果が記されていました。

どんな内容ですか?

某?

宛名が擦り消してあり、誰だか判明していません。

擦り消すって・・・。

名前だけ削れているということは、後に残ると都合が悪かったのかもしれませんね。

書状そのものを処分する、ということはしなかったのですね・・・。

そうして処分されてしまった史料も多いのだと思います。

この書状の持ち主がどういう人だったのか気になりますね。

返書なので、光秀に宛てた陣中見舞いが出てくればわかるかも知れませんね。

少しでも多くの史料が残っていることを祈ります。そういえば、播磨を攻めていた羽柴秀吉はどうなったのですか?

11月27日に羽柴秀吉は上月城・福岡野城の攻撃を開始し、但馬・播磨を平定しました。

予告よりもかかりましたね・・・但馬?但馬ってどこですか?

但馬は今の兵庫県豊岡市、養父市、朝来市(播磨国の部分を除く)、美方郡です。

播磨の北隣なのですね。

播磨だけでは格別の働きでも無いと思い但馬国へ攻め入ったとあります。

それだけ職場放棄は良くなかったと思ったということですね・・・。

播磨の諸大名からことごとく人質を提出させたとあるので、播磨は調略であらかた片付いたのかも知れません。

光秀も羽柴秀吉も手柄を立てることができて良かったですね。

連歌ということはもう戻ってきていたのですね。

つかの間の平穏が訪れます。

つかの間・・・。

続きは次回です。

気になります!
