第79話 松永久秀、謀反再び!?

前回言っていた大事件も気になるのですが、光秀の次の登場はいつですか?

史料を見てみると次は天正5年の8月1日です。

5月4日から約3ヶ月ぶりですね。

いいえ、天正5年は閏7月があるので約4ヶ月ぶりですね。

史料がまだ出てきていないのか、平和だったのか・・・。

わかりかねますが、もっと史料が出てくると細かいことがわかりそうですね。

8月1日の史料はどんな内容だったのですか?

では、今回も史料を見ていきましょう。

よろしくお願いします。


万見重元は織田信長の小姓でしたよね。光秀と合流って光秀は何をしていたのですか?

この史料からはわかりませんが、雑賀衆が降参したものの紀伊内ではまだ問題が多かったようで、その対応をしていたのではないかと思われます。

和泉は紀伊のお隣でしたよね。それが関係しているのですか?

紀伊の北が和泉です。ですが、なぜ光秀と合流するように命じたのかは史料からはわかりません。

その後はどうなったのですか?

松永久秀がまた謀反を起こしたのですか・・・。

織田信長は、松井有閑を通じて松永久秀に理由を尋ねたが、出頭することはなく京都で預かっていた人質は処刑されました。

なんということでしょう・・・すぐに出陣ですか?

いいえ、出陣は9月下旬です。

それまで光秀は何をしていたのですか?


張行とは、容赦なく事を行うこと。強行すること。また、強硬に主張すること。興行すること。催しを行うこと。

今回の場合は連歌会を催したということです。

なるほど、情報収集も兼ねていたのかも知れませんね。


施薬院って光秀が風痢になったときに診てくれたお医者さんのところですよね?

そうです。今回の上洛では施薬院全宗の宿所に宿泊していたようです。

具合が悪くなったわけでは無さそうで安心しました。

9月27日に光秀は、来迎寺へ寄進しました。

何を寄進したのですか?

仏供料としてお米を78石寄進しました。

来迎寺はたくさんありそうなのですが、寄進したのはどこの来迎寺ですか?

史料には近江の滋賀郡と注釈がついています。

このあとはどうなるのですか?

9月27日に織田信忠は、松永討伐の軍勢を出し、蜂屋頼隆の居城である肥田城に宿泊し、翌日28日に、安土の丹羽長秀ののもとに宿泊しました。

あれ?丹羽長秀の居城は佐和山城ですよね?

安土にも屋敷があったのか、安土に出陣して宿陣していたのか、まだ史料解析が必要そうです。

史料は難しいですね。

9月29日の午後八時頃、西の方角に帚星が出現しました。

あ、よくお話しに出てくる帚星ですね!

松永久秀は信貴山城に居るのですよね?どうして片岡城を攻めたのですか?

松永方の森秀満・海老名勝正が立て籠もっていました。

戦の結果はどうなりましたか?

森秀満・海老名勝正をはじめ百五十余人を討ち取り、細川藤孝の子の細川与一郎(忠興)・細川頓五郎、光秀が活躍し織田信長より感状を賜りました。

すごいですね。

同じ日に吉田兼見は、松永久秀属城の大和片岡城が落城したこと、織田信忠が出陣し、光秀・細川藤孝の軍勢で死傷者が出たと聞きました。

どのくらいの死傷者が出たのですか?

史料には細川藤孝と光秀の部下を合わせると、五十余人を討死させた。とあります。

味方の死傷者はなぜか多く感じてしまいますね・・・。

英俊は、信貴山城への攻撃のために明智軍が行動を開始したこと、織田信忠も出撃すること、片岡城を攻略し、70人計りが無残討死したが、明智軍も大勢損なったことを聞きました。

大まかな事は同じでも、少し情報が違うのですね。

どこから伝わったのかがわかると、もっと面白いかも知れませんね。

そういえば、織田信忠はこの時どうしていたのですか?

この日、織田信忠は安土から出陣し山岡景隆の居城である瀬田城に泊まりました。

瀬田は瀬田橋があるところですよね、だんだん近づいてきました。

10月2日に織田信忠は、真木島城へ陣宿。

真木島城ってあれ?聞いたことがあるような。

足利義昭が立て籠もった槇島城のことです。

だんだん聞いたことのあるお城が増えてきました。

そうですね。

信貴山城への到着はいつですか?

10月3日に織田信忠は信貴山城城下を焼き払い、陣を据えました。

城下を焼き払うのは織田信長と同じ戦い方ですね、この後はどうなるのですか?

え!?急展開です。

史料が少ないのでそう感じるかもしれませんが、陣を据えてから7日経っているのでその間も何か動きがあってもおかしくは無いと思われます。

松永久秀の最後はどう記されているのですか?

史料には松永久秀は天守に火を放ち、焼死した。とあります。

爆死とか、茶器のこととか聞いたことがありますが・・・・。

爆死は近年の創作ですね。松永久秀の最後についてはたくさんの創作書物が出ています。

強い武将は人気だったのでしょうか。

「平蜘蛛釜」という茶器についても色々な説があるようです。

そうなのですか。

詳しくはまたの機会にいたしましょう。

はい。ところで、この後の光秀はどんな動きをしていくのですか?

年末にかけて再び丹波攻めを行ないます。

戦続きですね・・・。

続きは次回です。

気になります。
