第117話 関東見物その2~徳川領前編~
関東見物も後半戦ですね。
そうですね。甲府から徳川領に入ります。
詳しく教えてください。
では今回も、史料を順に見ていきましょう。
よろしくお願いします。
誰が一緒だったのですか?
史料からは全員の名前はわかりませんが、光秀・細川忠興・筒井順慶らが同行していました。
一緒に行けなかった人もいるのですか?
近衛前久って確か公家の偉い人ですよね?どうして拒否したのでしょう?
史料からはわかりませんが、徳川領を視察して帰る様子を見られたくなかったのかも知れませんね。
実際にはどういう日程だったのですか?
甲府を出立した日は笛吹川を渡り、右左口というところで陣を取りました。徳川家康は行路に万全の配慮をしたと史料に残っています。
万全の配慮ですか?
兵が担いだ鉄砲があたらないように木を切り払い、街道を拡張し、石を取り除き、水を撒き道路を固めました。
大工事です・・・。
道の左右には、びっしりと隙間無く兵を配置し警備しました。
厳戒態勢です・・・。きっと宿陣の手配も大変だったのでしょうね。
行く先々宿泊地ごとに陣屋を強固に建て、二重三重に柵を作り、将兵の小屋も陣屋の近くに千軒以上建て、朝夕の食事も家臣にぬかりなく申しつけていたそうです。
想像以上でした・・・。今のオリンピックどころの騒ぎじゃないですね。
4月11日は早朝に右左口を出発し女坂を上り山地へ入ります。谷あいに休憩所と厩が立派に建ててあり、酒肴の接待がありました。
厩ってことは山地に大勢の人数が馬で通れるように整備してあったって事ですよね・・・。
その先の柏坂の峠でも、休憩所がきれいに建てられており、酒肴が供された。とあります。
お酒飲んでばかりですね・・・。
この日は、本栖に陣を取りました。この宿泊所も輝くばかりの立派な建物だったそうです。
本当に連日至れり尽くせりですね。
4月12日は未明に本栖を出発し、富士山の裾野の、かみがのが原・井手野へ向かいました。洞窟を見学し併設された休憩所で酒肴が供されました。
観光っぽくなってきました。
浮島ガ原で乗馬を楽しみ、この日は浅間神社に宿陣しました。
浅間神社は富士山に対する信仰の神社ですね。
休憩所とお酒はセットなのですね。
土地のものに様々な話を聞き、由比や三保が崎などの海を鑑賞しました。羽衣の松などの名所も見物したそうです。
羽衣の松って天女の羽衣伝説の羽衣ですか?
そうですね。羽衣の松は御穂神社の神体で、祭神の三穂津彦命(大国主命)・三穂津姫命が降臨する際の依り代とされているそうです。初代「羽衣の松」は1707年の宝永大噴火の際に海に沈んだそうで、今は三代目です。
そういうお話しを聞くと繋がっているって実感しますね。他にはなにか見たのですか?
その後は久能城を視察し、この日は江尻城に宿泊しました。
初めてお城が出てきました。
出発の時間が連日早いです。
土地の話を聞きながら安倍川を越え宇津ノ谷峠の休憩所で酒肴を供されました。この日は田中城に宿泊しました。
安倍川餅の安倍川ですね。昨日から土地の話の聞き込みが目立ちますね。
そうですね。史料には途中の城や川、橋や滝などの地形と過去の戦の様子なども詳細に記録されています。
視察感をひしひしと感じます。
宿場町はこの時代にはすでにあったのですね。
古代、奈良時代・平安時代から駅馬・伝馬の制度によって整備されていったそうで、江戸時代に定められた五街道の宿場町が有名ですね。瀬戸の染飯などの名物もこの時にすでにあったようです。
瀬戸の染飯ってどんなものですか?
瀬戸の染飯は、蒸した餅米をクチナシの実で黄色く染めて磨り潰し、平たい小判形や鱗形、四角形などにして乾燥させたものだそうで、クチナシには消炎・解熱・利胆・利尿の効果があるといわれ、難所が多い駿河の東海道では旅人たちから重宝されたそうです。
とっても気になります。この日はどこで泊まったのですか?
小夜ノ中山の休憩所で酒肴を供され、日坂を越えて掛川に宿泊しました。
掛川はお茶で有名ですね。
この日に織田信長は、細川藤孝へ武田家の討伐は早々に落着し我ながら驚き入るばかりだと伝えました。
軍事視察もしつつ家臣たちとコミュニケーションの機会にもなっていたのですね。
次の日は大きな川を渡ります。
なんという川ですか?
長くなってきたので続きは次回です。
次回も楽しみです。