第118話 関東見物その3~徳川領後編~

ガラシャ

関東見物も徳川領6日目となりました。

憲三郎先生

そうですね。この日は掛川から浜松に向かいます。

ガラシャ

前回触れた大きな川についても気になります。詳しく教えてください。

憲三郎先生

では今回も、史料を順に見ていきましょう。

ガラシャ

よろしくお願いします。

ガラシャ

変わらず朝は早いですね。

憲三郎先生

鎌田ガ原・三カ野坂の休憩所で酒肴が供され、ここで馬伏塚・高天神・小山を眺望しました。

ガラシャ

見晴らしの良いところだったのですね。

憲三郎先生

池田宿を通り天竜川に到着しました。ここに舟橋が架けてあり、この橋を渡り浜松に泊まり小姓衆・馬廻衆に暇を与え、弓衆・鉄砲衆のみ残しました。

ガラシャ

これが大きな川ですか?

憲三郎先生

そうです。史料にも「この天竜川は信濃の川が集まって流れ出た大河で、水量豊に轟々と流れ、川面は荒涼、幅広く、容易に川舟橋が架けられるところではない。」とあります。

ガラシャ

そんな大きな川に徳川家康は舟橋を架けたのは・・・すごいですね。

憲三郎先生

史料には「この橋の工事だけでも徳川家康と出費は膨大なものであったはずだ。」とあります。

ガラシャ

橋だけでなく道中の道の整備や休憩所に宿陣に食事・・・。徳川家康の財力はものすごかったのですね。

憲三郎先生

史料によると織田信長は兵糧八千俵余りを徳川家康の家臣に分配し進呈したそうです。

ガラシャ

規模が大きすぎて余りピンときませんね・・・。翌日はどのように進んだのですか?

ガラシャ

渡しということは、渡し船ですか?

憲三郎先生

そうです。飾り付けた御座敷船が用意されており船の中で酒肴が供されました。

ガラシャ

とっても優雅です。

憲三郎先生

船を降り、浜名の橋という名所で由来を聞き、汐見坂の休憩所で酒肴が供され、この日は吉田に宿泊しました。

ガラシャ

浜名の橋ってどんな橋だったのですか?

憲三郎先生

浜名の橋は平安時代の初期に建てられた橋で、歌に詠まれる程有名で、実際に橋を渡ったことのない歌人に詠まれた歌も、多く残っているそうです。ただ、地震などで地形が変わっており平安時代に掛けられた橋では無かったようです。

ガラシャ

すごい橋でした。今も残っているのですか?

憲三郎先生

そのままの姿ではありませんが、今は浜名大橋という橋が架かっています。

ガラシャ

当時の地形が気になります・・・。次の日はどう進んだのですか?

ガラシャ

お風呂に珍しいお酒と肴・・・とても贅沢な時間ですね。

憲三郎先生

本坂・長沢の街道を進み山中の宝蔵寺の境内に休憩所が建ててありました。大比良川・むつた川・矢作川を越えてこの日は池鯉鮒に泊まり水野忠重が接待をしました。

ガラシャ

水野忠重って誰ですか?

憲三郎先生

水野忠重は徳川家康の母方の叔父にあたる人でこの時点では織田信長の家臣です。

ガラシャ

ということはもう徳川領は抜けたのですね。今まで光秀が全く出てきていなかったのですが、光秀は何をしていたのですか?

ガラシャ

一緒に居たのですね。織田信長が老人の光秀を心配してということですか?

憲三郎先生

文章をそのまま捉えればそう思えますが、おそらく理由をつけてわざわざ近くの部屋にしていたということだと思います。

ガラシャ

どういうことですか?

憲三郎先生

史料からはわかりませんが、この関東見物が軍事視察だとすれば、道中で検分した内容を共に整理していたのかも知れません。

ガラシャ

とても情報量の多い旅だったでしょうね。

憲三郎先生

4月19日に清洲まで進み、20日には岐阜に入り、21日は道中たくさんの家臣から酒肴の接待をうけながら安土へ向かいました。

ガラシャ

たくさんってどのくらいですか?

憲三郎先生

呂久の渡しで稲葉一鉄が御座船を飾りたてて船中で接待を、垂井では織田勝長が接待を、

ガラシャ

・・・。

憲三郎先生

今州では不破直光が休憩所を建て接待を、柏原では菅屋長頼が休憩所を建て接待を、

ガラシャ

・・・。

憲三郎先生

佐和山では丹羽長秀が休憩所を建て接待を、山崎では山崎秀家が休憩所を建て接待を、というくらいです。

ガラシャ

ものすごいですね・・・。

憲三郎先生

そして、この日のうちに織田信長は安土へ帰陣しました。

ガラシャ

よくぞ帰り着かれました。と思うくらいの接待の嵐でした。

憲三郎先生

この後、織田信長は天下統一に向けてまた動き出します。

ガラシャ

どういうことですか?

憲三郎先生

続きは次回です。

ガラシャ

気になります!

”徳川領を巡る旅では光秀は常に織田信長の近くにいました。”