第106話 羽柴秀吉の鳥取城攻め

このところ、ずっと丹波の行政を行っていた光秀ですが、織田軍はなにをしていたのですか?

そうですね、この間も徳川家康が高天神城を奪還していたり、柴田勝家が越中加賀の反乱を抑制していたりと、いろいろなことが起きていました。

平和だと思っていましたが、そんなことが・・・。他にはどんなことがあったのですか?

ちょうどこの頃に、羽柴秀吉の鳥取城攻略という、とても重要な出来事がありました。

詳しく教えてください。

では、今回も史料を順に見ていきましょう。

よろしくお願いします。

香宗我部親泰って誰ですか?

香宗我部親泰は長宗我部氏の家臣で長宗我部国親の三男です。

三好式部少輔って誰ですか?

三好式部少輔は三好康俊のことです。三好康長の嫡男で、長曾我部氏に侵攻を受けるまでは阿波岩倉城主でした。

誼を通じるとは、便宜を得るために親密な関係を結ぼうと働きかけること・・・。長曾我部家と三好康俊の関係があまり良くなかったのですか?

交戦状態にはなかったようですが、三好康俊は阿波国奪還を狙い3月織田方に帰属したばかりだったので、織田信長としては「誼を通じて」欲しかったのだと思います。

そのころ光秀は何をしていたのですか?

出野左衛門助と片山兵内って誰ですか?

史料からは詳しいことはわかりませんが、丹波にある和知の豪族のようです。

和知ってどのあたりですか?

和知はかつて京都府船井郡にあった町です。

ということは、丹波の国衆ですね。和久左衛門大夫って誰ですか?

和久左衛門大夫も丹波の国衆で、甲ケ峯城を居城としていたようです。

甲ヶ峯城ってどのあたりにあったのですか?

京都府綾部市広瀬町のあたりです。今も城跡が残っています。

破却命令って何の破却ですか?

光秀は丹波の平定に伴い、城の破却命令を出していました。

それに従わなかった、ということですね。上林紀伊守って誰ですか?

史料から詳しいことはわかりませんが、丹波で上林というと、上林城を居城としていた上林氏の誰かではないかと思われます。

上林城ってどこにあったのですか?

上林城は京都府綾部市八津合町に今も城跡が残っています。

光秀は丹波の行政に大忙しですね。この後はどうなるのですか?

6月25日羽柴秀吉は、鳥取城を包囲するため二万余りの軍勢を率いて中国へ出陣しました。

羽柴秀吉はどうして鳥取城を責めることになったのですか?

羽柴秀吉は、天正8年4月に播磨・但馬を平定した後、天正8年6月に因幡・伯耆へ侵略を開始します。

因幡・伯耆って毛利領でしたよね。今の何県ですか?

因幡と伯耆あわせて今の鳥取県です。

確かに、因幡の白兎は鳥取県でした!羽柴秀吉は、鳥取城を包囲しましたが、どう攻めていくのですか?

羽柴秀吉はここから時間をかけて鳥取城を兵糧攻めにしました。

ということは、次の動きはしばらく先ですか?

次の史料は8月7日です。

どんな史料ですか?

近日中って光秀はいつ来るのでしょう?

史料には到着したという記録がなくそれ以上はわかりません。

なにか予定が変わるようなことがあったのでしょうか?

鳥取城で動きが!?

細川藤孝・光秀は、兵糧を大船に積ませ鳥取川へ停泊させました

物資的援軍ですね。

この時光秀は同行せず、丹波にいました。

何をしていたのですか?

史料を見てみましょう。

はい!

亀山城でも坂本城でもなく・・・周山城ですか?周山城ってどこのお城ですか?

周山城は光秀が築城したとされる城で、京都府京都市右京区京北周山町に今も城跡が残っています。

光秀が築城したのですか?いつのまに・・・。

実は史料が少なくあまり詳しいことがわかっていません。

そうなのですか・・・とっても気になるので史料がたくさん発見されるのを祈っています。そのあとの光秀は何をしていたのですか?

郡山城ってどこの城ですか?

郡山城は奈良県大和郡山市にあった城で、この頃は筒井順慶の居城でした。

興福寺成身院って奈良の興福寺のことですか?

そのようです。成身院は興福寺の子院で、筒井氏に縁のあるお寺のようです。

なるほど、筒井順慶を訪ねて来たのですね。

払暁とは日光が差し始めて、夜が明けてくる時間帯・・・。そんな時間帯に贈り物ですか?

何か意味があったのかもしれませんが、史料からはわかりません。

気になりますね・・・。

なんだか緊張感が増して来ましたね・・・。この後はどうなるのですか?

鳥取城は降伏へ向けて動き始めます。と同時に光秀にとって、とても重要なことが起こっていました。

どんなことですか?

続きは次回です。

気になります!
