第76話 疫病で生死をさまよう光秀、そして別れ
光秀は風痢にかかって天正4年5月23日に京都で治療を受けたのですよね?その後はどうなったのですか?
ではさっそく史料を見てみましょう。
お願いします。
翌日ですね・・・室って正室とか側室とかの室ですか?
そうです。光秀の正室からの依頼ですね。
ということは、光秀はもう坂本城に戻ったのですか?
史料には光秀がいつ坂本城に戻ったのか、その記録は残っていません。
奥様も気が気じゃないですよね・・・心配です。
戦場から!?やっぱりそんなに重症なのでしょうか・・・。
多聞院にまで祈祷の依頼が・・・。
6月5日に織田信長は戦陣を離れ、その日は若江に泊まりました。
6月に入っても光秀の病状に関わる史料が出てこないのはハラハラします。
6月6日に織田信長は妙覚寺に帰京し、翌日に7日に織田信長は安土城に帰城しました。
お疲れ様です。
明暁死去ってなんですか!?なんか怖い意味ですか?
明暁とは、次の日の明け方。翌日。という意味があり、明暁死去というのはおそらく、明日がこないかもしれないほどの状況ということだったのではないかと思われます。
明日がこないかもしれない状況、危篤状態ですか・・・・。
え!?光秀は手紙が書けるほど元気に!?
光秀は九死に一生を得たのかもしれませんね。
でも、そんな1日で危篤状態から快復をしたのですか?
もしかしたら、山科言継が情報を得たときには既に快復傾向にあったのか、書状を家臣が代筆したのか、は定かではありませんが快復していったのは間違いないと思われます。
何か史料が?
お見舞いを受けられるくらいにはなっていたということですね。祈念ありがとうございます。
そこから約3ヶ月光秀の登場する史料がありません。
その後の体の様子も気になります・・・。どんな史料なのですか?
奥様!?所労快復ってもしかして・・・。
史料からはわかりませんが、もしかしたら光秀のかかった風痢に感染してしまったのかもしれませんね。
なんてことでしょう・・・。
よかった・・・。たびたび祈念ありがとうございます。
光秀は京都にいたということはお仕事にも復帰していそうですね。
ということは、坂本城ですね。
再び大阪に出陣するのですね。
11月7日に光秀正室煕子は、坂本城で死去しました。
え!?快復していたのに・・・。
風痢は現代でも大変な病気です。当時のことを思うと快復した光秀の方が奇跡だったのかも知れません。
そんな・・・。
この頃の様子が、滋賀県の西教寺に伝わっているそうです。
どんなことですか?
当時の風習では、妻の葬儀に夫が参列することはありませんでした。
忌みとか穢れとかそういうことでしょうか?
光秀は、奥方の葬儀を西教寺で行ない、それに参列したそうです。
異例のことだったのですね。
奥様の人生は幸せだったでしょうか?
想像しかできませんので本当のところはわかりませんが、まさに苦楽を共にしてきた夫婦だったのだと思います。
悲しさも喜びも、ですか・・・。二人で守ってきた家族をこれからは光秀が一人で守っていくのですね。
人は一人では生きてはいけません。光秀にも一人ではなく家臣も仲間もおります。
そうですね。大事な物を守っていくためにも顔を上げて進まねば、ですよね!
さぁ、この後は再び大坂へ出陣です。
次はどことの戦ですか?
雑賀衆です。
雑賀衆?
続きは次回のお楽しみです。
気になります。